シリア
現在は中東のアラブ諸国の一つとして、トルコ、レバノン、ヨルダン、イラクに囲まれた内陸国家であるが、世界史上のシリアは、それら周辺諸国を含む広大な地域を意味していた。つまり、シリアという地名は、世界史上での範囲と、現在の国家としての範囲とが異なることに注意する必要がある。
英仏によって画定された国境線
現在のシリア GoogleMap
シリアは本来は現在のシリアだけでなく、レバノン・ヨルダン・パレスティナを包括する広い地域をさしていた(「大シリア」、あるいは「シャーム」地方とも言う)ので注意を要する。
歴史的シリアと現在のシリア
(引用)「シリア」という地名は「アッシリア」から派生したギリシア語で、ヘロドトス『歴史』(巻1,105など)が初出である。セレウコス朝(前305~前63年)などでは地方州の名称になっていた。国名としてシリアが採用されたのは、第一次世界大戦後に、フランスの委任統治が決まった1920年だった。 歴史的シリアは現在のシリア・アラブ共和国の版図よりずっと広く、北方はトルコ共和国南東部から南方はシナイ半島まで、西方は地中海から方法はシリア砂漠に囲まれた地域にあたる。現在のシリアのほかに、トルコ共和国、レバノン共和国、ヨルダン・ハシム王国、パレスチナ自治区、パレスチナ自治区そしてイスラエル国が含まれる。<小林登志子『古代オリエント史』2022 中公新書 p.77>
シリア(1) 古代の大シリア
東地中海岸の北部から内陸のユーフラテス川流域いたる地域。歴史上のシリアは現在のシリアより広い地域をさしている。
メソポタミア文明のシリア
いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、生産力が豊かであり、かつ南に隣接するパレスチナとともに、メソポタミア文明とエジプト文明の双方の影響がおよび、東地中海世界とも結びついたオリエント世界の十字路の役割を果たした。ミタンニがこの地に国家を形成したが、前15世紀にはさらに小アジアからのヒッタイト、エジプトからのエジプト新王国が進出して抗争するようになった。前13世紀には、エジプト新王国のラメセス2世はヒッタイトとシリア・パレスティナの覇権を争い、前1286年、交易の要衝カデシュで衝突、カデシュの戦いとなった。両国は引き分け、戦後、世界最古と言われる平和条約を締結している。
その後、前1200年ごろから、シリアにはセム系民族のアラム人が陸上交易活動を展開するようになり、ダマスクスを建設した。オリエントの統一期を迎え、アッシリア、次いでアケメネス朝ペルシア帝国に支配された。
アレクサンドロス大王からセレウコス朝へ
前333年にアレクサンドロス大王がシリア北部のイッソスの戦いでペルシア帝国ダレイオス3世軍を破り、アレクサンドロスの大帝国の一部となった。その死後はヘレニズム三国の一つセレウコス朝シリアが前312年に成立した。セレウコス朝は305年にはセレウキアを、300年にはアンティオキアを建設して複都とした。またイラン高原からバクトリアにかけて支配を及ぼし大帝国となったが、前305年にはインドに侵攻を試みたが、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王に敗れて撤退した。ローマの属州に
前2世紀にはローマの勢力が東地中海にも及び、セレウコス朝シリアは小アジアのポントス王、アルメニア王などとともに抵抗したが、前64年に、ローマの将軍ポンペイウスの攻撃に敗れ、ローマの属州シリアとなった。ナバテア王国とペトラ遺跡 前2世紀ごろから後106年にローマに併合されるまで、シリア南部からアラビア半島北西部の砂漠地帯で活動していたアラブ系遊牧民は、隊商交易に従事して富を貯え、ペトラを首都にナバテア王国をつくった。現在のヨルダンに含まれる世界遺産ペトラ遺跡にその繁栄の様子を伝えているが、この王国も106年にローマに服属した。
ローマとササン朝の抗争
3世紀にはイラン方面からササン朝ペルシアの勢力が伸びてきたため、シリアはローマ帝国とササン朝の争奪の対象となったが、間隙をついて隊商都市パルミラが女王ゼノビアのもとで繁栄した。しかしパルミラは272年にローマ帝国の攻撃を受けて破壊された。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を受け、エジプトと並んでその重要な穀倉地帯となった。この間、ネストリウス派と単性派のキリスト教がこの地域に広がった。シリア(2) イスラーム化以後
イスラーム教の勢力が及び、シリア総督ウマイヤ家がダマスクスを都にウマイヤ朝を建てる。
イスラーム化とウマイヤ朝
7世紀初めにアラビア半島に興ったイスラーム教勢力が聖戦(ジハード)を展開して急速に勢力を拡大した。第2代カリフのウマルは636年にシリアに進出し、ヤルムークの戦いでビザンツ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊を破って後退させた。イスラームの勢力圏に入ったシリアは、シリア総督としてウマイヤ家が統治、661年にはダマスクスを都としてウマイヤ朝が成立した。750年にアッバース朝が成立するとイスラーム世界の中心はダマスクスからバグダードに移り、シリアは興亡したいくつかのイスラーム王朝の支配を受けた後、11世紀にはエジプトに起こったファーティマ朝の支配を受けることになった。しかしまもなく、中央アジアから進出してきたセルジューク朝がシリアに入り、さらにパレスチナも征服、それに対して危機感を強く持ったビザンツ帝国皇帝がローマ教皇に要請して十字軍運動が始まった。
アイユーブ朝とマムルーク朝
セルジューク朝が衰退してダマスクスにはザンギー朝という地方政権が生まれたが、その配下にあったクルド人のサラーフ=アッディーンはエジプトにわたり、アイユーブ朝を建て、1171年にファーティマ朝を倒し、さらにシリアにその勢力を及ぼしてダマスクスを征服し、エジプト・シリアを共に支配した。サラーフ=アッディーンは1187年、ヒッティーンの戦いで十字軍に大勝し、さらに第三回十字軍も撃退した。しかし、13世紀中頃にはエジプトに起こったマムルーク朝に取って代わられた。そのころ、モンゴル帝国のフラグの征西軍が1260年、シリアにも進出して、ダマスクスは占領されたが、エジプトへの進出はマムルーク朝に阻止された。フラグはイラン西部のタブリーズを都にイル=ハン国を建国、シリアも支配したが、次第にイスラーム化していった。オスマン帝国の支配
小アジア西部に起こったオスマン帝国が、16世紀にシリアに進出した。古来、交通の要衝にあたっていたので、様々な民族、文明が交錯する地域であった。形式的にはオスマン帝国の一州であるが、実質的にはほぼ独立したシリア総督が統治していた。平野部の大都市ダマスクス、アレッポ、ベイルートなどではアーヤーンと言われる地方名望家が後背地の農村部を支配していたが、中央権力の及ばないレバノン山岳地帯には、イスラーム教ドルーズ派とマロン派キリスト教徒(共にアラブ人)などが特異な信仰・慣習をもつ集団が有力家系の下で結束していた。シリア(3) 近代のシリア
19世紀、オスマン帝国領のもとでアラブ人の自覚が高まる。第一次世界大戦後にイギリス・フランスによって分割され、シリアはフランスの委任統治領となった。
エジプト=トルコ戦争
エジプト州の総督ムハンマド=アリーはナポレオンのエジプト遠征軍と戦ったことから力を付けてしだいにオスマン帝国からの分離を目指すようになった。ギリシア独立戦争でオスマン帝国を助けて戦ったことを口実に、シリアの行政権を要求し、1831年に第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。ムハンマド=アリーは息子イブラーヒームをシリアに派遣し、その占領に成功、講和後もその支配権を認められた。オスマン帝国のメフメト2世はシリア奪還を目指して軍を派遣、1839年に第2次エジプト=トルコ戦争がはじまると、ムハンマド=アリーは緒戦ではオスマン帝国軍を破ったものの、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンがオスマン帝国支援に回ったため孤立して敗北、1840年、列強のロンドン会議によって、ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの総督の世襲権を認められたが、シリアの行政権はオスマン帝国に返還した。
このエジプトのムハンマド=アリーがシリアを支配した時期は短かった(1832~1840)が、シリアの近代化の転機となり、生糸・繭の生産が増加して商品経済が発展した。
アラブの覚醒
しかし、シリアの内部矛盾はレバノンにおけるイスラーム教ドルーズ派とマロン派キリスト教徒の宗教的対立となって現れ、さらにフランスがマロン派キリスト教徒を支援し、イギリスが対抗上、ドルーズ派と結び、さらにロシアがギリシア正教徒の保護に乗り出すという列強の介入が始まり、国際問題化した。このような外国勢力の進出という危機の中から、シリアのアラブ人マロン派キリスト教徒の中から「アラブの覚醒」と言われるアラブ文化復興運動が起こった。第一次世界大戦後のシリア分割
もともと「シリア」は地中海東岸の広い地域を示し、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ(以上を大シリアとも言う)を含んでいた。第一次世界大戦が勃発すると、メッカのハーシム家の首長フセインは、イギリスの支援を受けてオスマン帝国からの独立を宣言して「アラブの反乱」に起ち上がってヒジャーズ王国を建国した。この「アラブの反乱」に協力したのがイギリス人のロレンスだった。各地でオスマン軍を破ったヒジャーズ軍は、その最大の目的であるアラブ人による「大シリア」の再現をめざし、フセインの三男ファイサルがイギリス軍の協力を得てダマスクス攻略に向かい、1918年9月30日、に占領した。大シリア立憲王国 ダマスクスにアラブ政府を樹立したファイサルは、1919年のパリ講和会議に出席し、大戦中にフセイン=マクマホン宣言で約束されたアラブ国家の承認を求めたが、イギリス・フランスはそれを拒否し、ウィルソンの民族自決の原則もアラブには適用されなかった。イギリス・フランスは、大戦中のサイクス=ピコ協定の密約を優先し、シリアの分割にのりだした。ファイサルは「大シリア立憲王国」の独立を宣言し、1920年3月8日にダマスクスでアラブ民族会議を主催、自らがシリア王となることを承認された。 しかし、イギリス・フランスはすでに第一次世界大戦中にサイクス=ピコ協定を結んでおり、同年4月にはイギリス・フランスなど戦勝国はサン=レモ会議で大シリアを分割してイギリス・フランスの委任統治とすることで合意した。7月にフランス軍はダマスクスを攻撃してファイサルを追い出し、ここに大シリア立憲王国は崩壊した。
イギリスは、フセイン=マクマホン協定でアラブ国家の樹立を約束した経緯があるので、ファイサルを保護し、バグダードに移してイラクの国王とした。ヒジャーズ王国は、さらにアラブのもう一つの勢力、ワッハーブ教団を背景としたサイード家のイブン=サウードとの争いに敗れ、1924年に滅亡した。もう一人のフサインの子のアブドゥッラーはトランスヨルダンの首長とされたが、イラクのファイサルともイギリスの委任統治の元手の名目的な主権に過ぎなかった。 → オスマン帝国領の分割
フランスの委任統治
1920年8月にイギリス・フランスはセーヴル条約をオスマン帝国と結び、大シリアのうち、狭い意味のシリア(レバノンを含む)はフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領とされることになった。すでに7月、ダマスクスのファイサルを軍事力で追放したフランスのシリア委任統治は、22年7月に国際連盟で承認された。フランスは、委任統治に当たって、多数派のスンナ派イスラーム教徒を抑えるために、シーア派やドゥルーズ派のイスラーム教徒、マロン派キリスト教徒などの少数派の宗教対立を利用して4分割して形式的な国を置いた。ヨーロッパ近代主権国家(それらは宗教的な対立を克服していた)は中東やインドは宗教的な「モザイク社会」であるという偏見を持っていたが、フランスがシリアに持ち込んだのもそのような偏見から来る「分割統治」であり、それまで共存していた様々な宗教のあいだに、宗派対立から内戦に発展する構造を持ち込んだのはフランスだったと言うことができる。
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シリア(4) シリアの独立
フランス委任統治に対する反発強まり、1936年に事実上の独立が認められ、戦後の1946年に正式に独立。
ところが第二次世界大戦が勃発し、1940年6月14日にパリが陥落して22日に降伏、親独的なヴィシー政府が成立するという激変が起こった。シリア駐留フランス軍はヴィシー政府についたため、1941年、イギリス軍・自由フランス軍との間で戦闘が始まり、フランスの委任統治は事実上崩壊した。フランスは1941年にキリスト教の一派マロン派の多いレバノンをシリアから分離させた。
1944年1月に、フランスの委任統治は終了し、独立宣言、1945年3月にはエジプト王国などとともにアラブ連盟(アラブ諸国連盟)を結成した。フランス軍はその後も駐屯を続けた。
第二次世界大戦末期にはサンフランシスコ会議に参加し、1945年6月に成立した国際連合の原加盟国(50カ国)の一つとなった。正式には独立していなかったが、事実上の独立が約束されていると国際社会には認知されていた。
1946年4月17日、ついにフランス軍が完全撤退し、シリア第一共和国(通称シリア)として正式にフランスから独立した。しかし新生シリアは、パレスチナには一部をシオニズムに与えてユダヤ人国家イスラエル(1948年)とされることとなり、レバノンもすでに分離していたので、かつての大シリアから大幅に国土面積を減少させることとなった。
シリア(5) アラブ連合共和国の結成と分離
1958年にエジプトとのアラブ連合共和国となったが、1961年に解消した。63年に民族主義政党のバース党がクーデタで政権を奪取、指導者アサドが権力を握り、独裁的体制を樹立した。その体制はその子に継承され、国号はシリア=アラブ共和国となった。
アラブ連合共和国の成立と解消
バース党はアメリカの圧力を避けるため、ナセルの率いるエジプトとの合同を働きかけ、1958年2月に両国は国家を統合してアラブ連合共和国が成立した。これは、独立以来の政情不安、民族対立を抱えるシリアが、エジプトのナセルの指導下に入ってアラブ民族主義の理念で統一を実現しようという理念の下で行われたことであった。しかし、実際には首都はカイロに置かれ、エジプト人の官吏が統治し、エジプトと同じ農地改革が実施されるなど統制が及ぶとシリア側の特に保守層には反ナセルの動きが早くも高まってきた。国家統合から約3年後の1961年9月28日に反ナセル派の軍人がクーデタでバース党政権を倒し、シリアはアラブ連合共和国から離脱し「シリア=アラブ共和国」となった。
バース党アサド政権
1963年にはバース党クーデタによって再びバース党政権が成立し、1970年からはアサド将軍(ハーフィズ=アサド)が権力を握り(71年から大統領)、独裁政治を始めた。そのころから隣接するイスラエルとの間で、ヨルダン川の水利を巡って対立が深まり、バース党政権は再びエジプトのナセルと提携し、イスラエルに対抗する必要が出てきた。1967年6月5日に第3次中東戦争が勃発すると、機動力を高めたイスラエル軍によってゴラン高原を占領されるという敗北を喫した。
1973年の第4次中東戦争ではエジプトともにイスラエル占領地奪還をめざしたが、ゴラン高原の奪還には失敗した。1975年から西隣のレバノン内戦に介入し、レバノンの実権を奪った。
アサド大統領はアラブ民族主義の立場に立ちながら、巧みな外交で中東の力のバランスをとり、独裁権を維持し、2000年に子のバッシャール=アサドにその地位を継承させた。現在はシリア=アラブ共和国と称している。
(6)シリア内戦
2011年、アラブの春と言われた民主化運動がシリアに波及したが、アサド政権はロシア、イランなどの支援を受けて体制を維持、反政府軍との激しい内戦となった。混乱の中から「イスラーム国」が台頭、クルド人勢力も蜂起して複雑な対立関係がうまれ混迷が続いた。ウクライナ戦争の長期化でロシア支援が弱まったことなどを受け、2024年11月、反政府軍がアサド政権を倒し、内戦は終結に向かった。
「アラブの春」の波及
2011年1月のアラブの民主化の動きであるアラブの春がシリアに及び、反体制派が蜂起した。同年3月18日、南部ダラアで市内の壁に「アサド体制打破」と落書きした学童15人が逮捕され、それに抗議する市民集会に治安警察が発砲して三人が死亡し、翌日の葬儀に市民2万人が参加、「自由と民主主義」を叫んで決起し、政府機関や与党本部、アサド大統領の従兄弟が経営する携帯電話会社などを襲撃し、運動は全国に広まった。反政府勢力の形成
アサド大統領(バッシャール=アサド)自身はシーア派に近いアラウィ派に属しているが、シーア派はシリアでは国民の13%にすぎず、アサド政権は74%をしめるスンナ派を強権支配してきた。スンナ派が結束すればアサド政権は早期に倒れると思われたが、他の「アラブの春」で民主化が進んだ諸国と異なり、アサド政権はその後も存続することとなった。その背景には、ロシア・中国が経済的関係の強いアサド政権を支持しており、国際的な包囲網が作れなかったことがある。サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタールなどアラブ諸国も、当初は一斉にアサド政権を非難、シリアはアラブ連盟から除名されるに至った。 しかしアラブ諸国でもそれぞれの国内で民主化運動が停滞する中、シリアの反体制運動もしだいに苦境に陥るようになった。
反体制勢力 アサド大統領を非民主的な独裁政治と批判する民衆運動の支持を受けて国軍の一部が分離して自由シリア軍を組織、反政府軍の中核となった。しかし、反政府勢力には様々な勢力が加わり、アラブ原理主義のアルカーイダ系(ヌスラ戦線と称した)も加わり、統一がとれない実情があった。また、以前からアサド政権を支持しているロシアと、シーア派として親近感を持つイランはアサド政権軍を直接支援したのに対し、アメリカは民主化を支持する立場から反政府軍を支援した。また近隣のサウジアラビアやトルコはそれぞれの思惑から反政府勢力を支援している。その結果、アメリカとアルカーイダが同じ陣営に含まれてしまうという現象が生まれ、アメリカ軍の直接支援も歯切れの悪いこととなった。
2012年7月には反政府軍が北部最大の都市アレッポを掌握した。その戦闘に巻き込まれ、8月20日に日本人ジャーナリスト山本美香さんが死亡した。国際社会は政府軍による化学兵器の使用を疑い、非難を強めた。内戦の長期化、拡大に伴って多数の「シリア難民」(この時点で400万人に及ぶと言われている)が発生、トルコやヨルダン、レバノンに逃れている。
2012年末には死者4万人、そのうち3万人が一般市民と推定され、シリア軍による化学兵器の使用の疑いも出てきた。
国連の動き
シリア内戦が始まると、フランスはシリアの旧宗主国であったので、イギリスなどと共に国連の安全保障理事会に即時停戦を求める決議案を提出した。しかし、アサド政権を支援していたロシアが中国と共に拒否権を行使し、議決できなかった。その後も何度か同様の結果となったが、その間も事態は深刻となり、2013年春にはシリアの人口の半数にあたる約1000万人が年末までに人道支援を必要とする状態となった。21世紀最大の人道危機になるといわれる事態を前にして、安保理の無力への師範が強まった。それをうけて2013年、フランスのオランド大統領が安全保障理事会の5常任理事国(P5)に対し、ジェノサイド(大量虐殺)や大規模な人権侵害、深刻な戦争犯罪が起きた場合には自発的に拒否権行使をひかえることを求める提案を行った。オランド提案では、国連憲章第99条にある国連事務総長か国連人権高等弁務官、または一定数の国連加盟国の主導権のもとで判断するというもので、国連安保理常任理事国の拒否権を一定程度制限する画期的なものであったが、予想されたとおりこの提案自体が安保理での賛成を得られなかった。かろうじて賛成したイギリスと共に、2015年10月30日の国連総会で、両国代表は演説し、人道危機が発生した場合は自分たちは拒否権を行使しないと宣言した。<小林義久『国連安保理とウクライナ問題』2022 ちくま新書 p.218-222>
イスラム国の出現
シリアにおけるアサド政権と反政府勢力の内戦が長期化するなか、2014年には過激なイスラーム教スンナ派集団が、イラクとの国境をまたがって「イスラム国」(IS、ISISまたはISIL)※の樹立を宣言、その勢力を急速に拡大させた。「イスラム国」はイギリスなどが線引きした国境を認めず、新たなイスラーム国家を樹立するとしてその指導者はカリフを称している。アメリカのオバマ政権はシリアのアサド政権に民主化を迫っているが、その一方でイスラム国をテロ集団と認定して空爆に踏み切り、結果としてアサド政権を助けているというシリア情勢の混迷の要因となっている。2015年1月には日本人ジャーナリスト後藤健二さんら二人がISに拘束され、殺害されている。また、2015年11月13日、には自爆テロによって130名が犠牲となったパリ同時多発テロの犯行声明を出し、世界を震撼させた。※イスラム国 彼らはイスラム国と名のっているが、実態は過激派テロ組織にすぎないとして国と称するには適さないとの指摘もあり、ISあるいはISIL(Islamic States of Iraq and Levant)の略称とすることも多い。一般に宗教としてはイスラーム教とするが、ISについては日本の報道機関でも「イスラム国」としているので、ここでもそれに従う。
クルド人勢力 シリア・イラク・トルコの国境地帯に居住するクルド人は、この内戦を独立の機会と捉えて活動を活発にしたが、シリア政府軍と反政府軍の戦闘に対しては中立の姿勢を採った。またシリア政府軍も急速に勢力を拡大した「イスラム国」に戦力を集中したので、クルド人の支配地域での自治区設立にたいしては黙認している。クルド人の独立運動が波及することを恐れるトルコ政府は、そのようなシリア政府を非難した。
シリア内戦の混迷
シリア政府軍と戦闘中の反政府軍の中に、民主化と世俗化を掲げる勢力と、イスラーム主義を掲げるイスラム国、ヌスラ戦線などが入り乱れて内戦が繰り返されることになった。その中でイスラム国(IS)はカリフ制樹立を掲げたスンナ派国家の樹立を標榜し、シリア政府軍だけでなく、シーア派系組織、クルド人とも敵対しながら、最も勢力を拡大した。ISは占領地域で非スンナ派住民を迫害し、さらに2015年8月にはパルミラを占領、後にその歴史的遺産を破壊するなどの行動によって国際的な批判を浴び、アメリカのオバマ政権も空爆に踏み切った。ロシアの参戦
ロシアのプーチン大統領は、2015年9月30日、シリア内戦介入を開始し、空軍による反アサド政権派に対する積極的な空爆を行った。プーチン大統領はISなどのテロ組織との戦いという国際的な連携に加わるためであると参戦の理由を挙げているが、ロシアにとって特に中央アジア地域へのISの浸透を強く警戒していることが背景にあるものと思われる。プーチンはその前年の2014年 3月にクリミア併合を強行しており、シリア内戦への軍事介入もその強硬な外交姿勢が現れている。ISの崩壊
2017年に登場したアメリカのトランプ政権は、アサド政権打倒という方針を転換、全面的なIS殲滅を宣言した。しかし、4月、政府軍が化学兵器を使用した疑いが強まると、政府軍基地を爆撃した。このころまでにISの支配領域は最大に広がったが、そのころからシリアの反政府勢力軍とクルド人勢力が共同して設立したシリア民主軍が攻勢に出て、同年10月にはISが首都としていたラッカが陥落し、ISは急速に解体に向かった。シリアの混迷続く
ISはほぼ後退したが、政府軍と反政府軍の戦闘はさらに続いた。しかし、2018年4月、反政府軍の拠点であった首都ダマスクス近郊の東ダーク地区が政府軍に制圧され、反政府勢力は大きく後退し、内戦は事実上鎮静化している。しかし、政府が直接支配するのは国土の西南部を中心としたほぼ3分の1ぐらいで、北東部のトルコ・イラクとの国境地帯ではクルド人の自治政権が事実上成立し、また他にも反政府勢力の一部が抵抗を続けている。また、隣接するトルコとイスラエルは常に軍事介入の姿勢を崩して折らず、情勢は依然として不安定である。さらにISの残党と思われるテロリストが世界に拡散したのではないか、と見られている。アサド政権が世襲の独裁政権でありながら存続出来ている最大の理由は、アメリカとロシアの対立、アラブのスンナ派・シーア派・キリスト教などの宗教対立、クルド人などの民族問題など、あまりにも複雑な対立関係の中で、シリア人の真の自由と主権が確立出来ないでいるとことによるのであろう。
ISを軍事的に制圧した力は、アサド政権の政府軍ではなく、もっぱらクルド人の武装組織「人民防衛軍」(YPG)であった。彼らがアメリカ軍と協力したことでISを壊滅することに成功したが、次ぎに彼らがアサド政権に対してシリア北西部(彼らが実効支配している)における自治を要求したが、アサド政権は拒否した。それはアサド政権に協力していたトルコが同じように国内にクルド人の独立運動をかかえていたからであった。2019年にはアメリカのトランプ大統領がシリアからの撤退を表明したことを受け、トルコ軍がシリアに越境してクルド人勢力を攻撃するという事態となった。
アサド政権シリアのアラブ連盟復帰 アラブ諸国の国際連帯機構であるアラブ連盟は、内戦勃発を機にシリアの加盟資格を停止していたが、アサド政権の軍事的優位が回復したことを受け、アサド政権との関係修復に動き、ついに2023年5月にはシリアのアラブ連盟復帰を承認した。これに対してアメリカ・バイデン政権は非難しているが、それ以上の動きは見られない。
今世紀最大の人道危機
イギリスで活動している反体制派NGO「シリア人権監視団」によると、シリア内戦での死者は2023年3月現在で50万人を越え、国連難民高等弁務官事務所などによると、シリアの内外に家を追われた人たちは1300万人以上に上り、「今世紀最大の人道危機」と呼ばれている。アラブ首脳会議のサウジアラビア・ムハンマド皇太子はアサド政権の復帰が内戦終結につながることを期待すると述べているが、非人道的な弾圧の責任を問われることなくアサド政権が国際社会に復帰することに対しては、多くの難民、民主化運動団体から強い非難が起こった。<朝日新聞 2023/5/21 による>
NewS シリア、アサド政権倒れる
2024年12月8日、シリアの反政府勢力は首都ダマスクスを制圧し、バッシャール=アサド大統領は逃亡した。これによって2011年から続いたアラブ内戦は終結し、アサド父子に受け継がれた独裁政権は約50年ぶりに終わった。アサド大統領の動向は不明であったが、9日にはロシアに空路でノバレ、亡命したことが判明した。→ afpBB 国際ニュース BBCNewsJapan 解説
シリア内戦は2011年1月のアラブの春の動きが波及して始まったが、アサド政権は頑強に反政府運動と戦い、シーア派のイラン=イスラーム共和国や、中東に勢力を伸ばしたいロシアの支援を家手勢力を維持し、アル=カーイダ系の反政府軍と戦った。シリア内戦は多数の難民を出現させながら膠着し、2014年からスンナ派原理主義集団がイスラム国(IS)を組織し、三つ巴の内戦となった。さらに北西部のクルド人も自立を求めて蜂起し、さらに混迷した。しかし2017年にイスラム国は急速に衰退、その後は、ロシア・イランが支援するアサド政権の政府軍と、アメリカ・トルコなどアラブ諸国が支援する反政府軍の抗争という形で内乱が続いた。この間、政府軍は化学兵器の使用などで国際的な非難が強まったが。戦闘は政府軍の優位のまま続いていた。
状況が大きく変化したのは2024年の後半であり、その要因はまずアサド政権を支援していたロシアが、2022年に開始したウクライナ戦争が長期化し、シリア支援の余裕がなくなったこと。またイランも、2023年からのイスラエルのガザ侵攻とハマスとの戦争が始まり、ハマスを支援するレバノンのヒズボラとも戦うこととなったことで、イスラエルとハマス・ヒズボラの背景になるイランとの関係が悪化、緊張が高まったことで、イランのアサド政権への支援の余裕がなくなったこと、などが考えられる。
反政府勢力は、政府軍の弱体化をうけて反撃に転じ、12月初めにシリアホクボのアレッポを攻略し、急速に南進し、南部からも反政府軍が迫り、わずか1週間で首都を攻略した。アサド政権を守る政府軍にはほとんど抵抗する力がなかったようだ。反政府勢力の本体は、「ハヤト・タハリール・アル・シャーム(シャーム解放機構、HTS)」という武装勢力であり、アサドが逃亡した後のシリア政府も政権委譲に協力すると言っているが、新政権がどのような方針をもち、民主化を実現し安定させるかどうかは、現時点ではまだ見えていない。
アサド政権の崩壊は、約50年続いた独裁政治による非人道的な人権抑圧が終わって、民主政治と安定した政権が樹立される道が開けたことで、国際社会に広い歓迎の声が上がっている。しかし、中東の勢力関係では、アサド政権と関係の深かったロシアの後退と、関係の悪かったトルコの影響力が強まることが想定され、同時にイラン-ヒズモラ-ハマス-イエメンのフーシ派という親パレスチナ勢力が対イスラエル戦争でさらに苦境に立たされることが予想され、それに対する反撃があれば、中東情勢はさらに情勢の悪化も考えられる。<2024/12/10>