シリア
現在は中東のアラブ諸国の一つとして、トルコ、レバノン、イスラエル、ヨルダン、イラクに囲まれた内陸国家であるが、世界史上のシリアは、それら周辺諸国を含む広大な地域を意味していた。つまり、シリアという地名は、世界史上での範囲と、現在の国家としての範囲とが異なることに注意する必要がある。
英仏によって画定された国境線
現在のシリア GoogleMap
歴史的シリアと現在のシリア シリアは本来は現在のシリアだけでなく、レバノン・ヨルダン・パレスティナを包括する広い地域をさしていた(「大シリア」と言われる場合もある)ので注意を要する。
(引用)「シリア」という地名は「アッシリア」から派生したギリシア語で、ヘロドトス『歴史』(巻1,105など)が初出である。セレウコス朝(前305~前63年)などでは地方州の名称になっていた。国名としてシリアが採用されたのは、第一次世界大戦後に、フランスの委任統治が決まった1920年だった。 歴史的シリアは現在のシリア・アラブ共和国の版図よりずっと広く、北方はトルコ共和国南東部から南方はシナイ半島まで、西方は地中海から東方はシリア砂漠に囲まれた地域にあたる。現在のシリアのほかに、トルコ共和国、レバノン共和国、ヨルダン・ハシム王国、パレスチナ自治区、そしてイスラエル国が含まれる。<小林登志子『古代オリエント全史』2022 中公新書 p.77>シャームの意味 また、中心都市ダマスクスもラテン語の地名なので、現在、現地ではアラビア語で「シャーム」 al‐Shām と呼ばれることが一般的である。シャームはダマスクスのことだが、ダマスクス地方をさすこともあり、シリア全土を指すこともある。
シリア(1) 古代の大シリア
東地中海岸の北部から内陸のユーフラテス川流域にいたる地域。歴史上のシリアは現在のシリアより広い地域をさしている。
メソポタミア文明のシリア
いわゆる「肥沃な三日月地帯」の一角を占め、生産力が豊かであり、かつ南に隣接するパレスチナとともに、メソポタミア文明とエジプト文明の双方の影響がおよび、東地中海世界とも結びついたオリエント世界の十字路の役割を果たした。ミタンニがこの地に国家を形成したが、前15世紀にはさらに小アジアからのヒッタイト、エジプトからのエジプト新王国が進出して抗争するようになった。前13世紀には、エジプト新王国のラメセス2世はヒッタイトとシリア・パレスティナの覇権を争い、前1286年、交易の要衝カデシュで衝突、カデシュの戦いとなった。両国は引き分け、戦後、世界最古と言われる平和条約を締結している。
その後、前1200年ごろから、シリアにはセム系民族のアラム人が陸上交易活動を展開するようになり、ダマスクスを建設した。オリエントの統一期を迎え、アッシリア、次いでアケメネス朝ペルシア帝国に支配された。
アレクサンドロス大王からセレウコス朝へ
前333年にアレクサンドロス大王がシリア北部のイッソスの戦いでペルシア帝国ダレイオス3世軍を破り、アレクサンドロスの大帝国の一部となった。その死後はヘレニズム三国の一つセレウコス朝シリアが前312年に成立した。セレウコス朝は305年にはセレウキアを、300年にはアンティオキアを建設して複都とした。またイラン高原からバクトリアにかけて支配を及ぼし大帝国となったが、前305年にはインドに侵攻を試みたが、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王に敗れて撤退した。ローマの属州に
前2世紀にはローマの勢力が東地中海にも及び、セレウコス朝シリアは小アジアのポントス王、アルメニア王などとともに抵抗したが、前64年に、ローマの将軍ポンペイウスの攻撃に敗れ、ローマの属州シリアとなった。ナバテア王国とペトラ遺跡 前2世紀ごろから後106年にローマに併合されるまで、シリア南部からアラビア半島北西部の砂漠地帯で活動していたアラブ系遊牧民は、隊商交易に従事して富を貯え、ペトラを首都にナバテア王国をつくった。現在のヨルダンに含まれる世界遺産ペトラ遺跡にその繁栄の様子を伝えているが、この王国も106年にローマに服属した。
ローマとササン朝の抗争
3世紀にはイラン方面からササン朝ペルシアの勢力が伸びてきたため、シリアはローマ帝国とササン朝の争奪の対象となったが、間隙をついて隊商都市パルミラが女王ゼノビアのもとで繁栄した。しかしパルミラは272年にローマ帝国の攻撃を受けて破壊された。ローマ帝国の東西分裂後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配を受け、エジプトと並んでその重要な穀倉地帯となった。この間、ネストリウス派と単性派のキリスト教がこの地域に広がった。シリア(2) イスラーム化以後
イスラーム教の勢力が及び、シリア総督ウマイヤ家がダマスクスを都にウマイヤ朝を建てる。
イスラーム化とウマイヤ朝
7世紀初めにアラビア半島に興ったイスラーム教勢力が聖戦(ジハード)を展開して急速に勢力を拡大した。第2代カリフのウマルは636年にシリアに進出し、ヤルムークの戦いでビザンツ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊を破って後退させた。イスラームの勢力圏に入ったシリアは、シリア総督としてウマイヤ家が統治、661年にはダマスクスを都としてウマイヤ朝が成立した。750年にアッバース朝が成立するとイスラーム世界の中心はダマスクスからバグダードに移り、シリアは興亡したいくつかのイスラーム王朝の支配を受けた後、11世紀にはエジプトに興った起こったファーティマ朝の支配を受けることになった。しかしまもなく、中央アジアから進出してきたセルジューク朝がシリアに入り、さらにパレスチナも征服、それに対して危機感を強く持ったビザンツ帝国皇帝がローマ教皇に要請して十字軍運動が始まった。
アイユーブ朝とマムルーク朝
セルジューク朝が衰退してダマスクスにはザンギー朝という地方政権が生まれたが、その配下にあったクルド人のサラーフ=アッディーンはエジプトにわたり、アイユーブ朝を建て、1171年にファーティマ朝を倒し、さらにシリアにその勢力を及ぼしてダマスクスを征服し、エジプト・シリアを共に支配した。サラーフ=アッディーンは1187年、ヒッティーンの戦いで十字軍に大勝し、さらに第三回十字軍も撃退した。しかし、13世紀中頃にはエジプトに興ったマムルーク朝に取って代わられた。そのころ、モンゴル帝国のフラグの征西軍が1260年、シリアにも進出して、ダマスクスは占領されたが、エジプトへの進出はマムルーク朝に阻止された。フラグはイラン西部のタブリーズを都にイル=ハン国を建国、シリアも支配したが、次第にイスラーム化していった。オスマン帝国の支配
小アジア西部に起こったオスマン帝国が、16世紀にシリアに進出した。古来、交通の要衝にあたっていたので、様々な民族、文明が交錯する地域であった。形式的にはオスマン帝国の一州であるが、実質的にはほぼ独立したシリア総督が統治していた。平野部の大都市ダマスクス、アレッポ、ベイルートなどではアーヤーンと言われる地方名望家が後背地の農村部を支配していたが、中央権力の及ばないレバノン山岳地帯には、イスラーム教ドゥルーズ派とマロン派キリスト教徒(共にアラブ人)などの特異な信仰・慣習をもつ集団が有力家系の下で結束していた。シリア(3) 近代のシリア
19世紀、オスマン帝国領のもとでアラブ人の自覚が高まる。第一次世界大戦後にイギリス・フランスによって分割され、シリアはフランスの委任統治領となった。
エジプト=トルコ戦争
エジプト州の総督ムハンマド=アリーはナポレオンのエジプト遠征軍と戦ったことから力を付けてしだいにオスマン帝国からの分離を目指すようになった。ギリシア独立戦争でオスマン帝国を助けて戦ったことを口実に、シリアの行政権を要求し、1831年に第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。ムハンマド=アリーは息子イブラーヒームをシリアに派遣し、その占領に成功、講和後もその支配権を認められた。オスマン帝国のメフメト2世はシリア奪還を目指して軍を派遣、1839年に第2次エジプト=トルコ戦争がはじまると、ムハンマド=アリーは緒戦ではオスマン帝国軍を破ったものの、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンがオスマン帝国支援に回ったため孤立して敗北、1840年、列強のロンドン会議によって、ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの総督の世襲権を認められたが、シリアの行政権はオスマン帝国に返還した。
このエジプトのムハンマド=アリーがシリアを支配した時期は短かった(1832~1840)が、シリアの近代化の転機となり、生糸・繭の生産が増加して商品経済が発展した。
アラブの覚醒
しかし、シリアの内部矛盾はレバノンにおけるイスラーム教ドゥルーズ派とマロン派キリスト教徒の宗教的対立となって現れ、さらにフランスがマロン派キリスト教徒を支援し、イギリスが対抗上、ドゥルーズ派と結び、さらにロシアがギリシア正教徒の保護に乗り出すという列強の介入が始まり、国際問題化した。このような外国勢力の進出という危機の中から、シリアのアラブ人マロン派キリスト教徒の中から「アラブの覚醒」と言われるアラブ文化復興運動が起こった。第一次世界大戦後のシリア分割
もともと「シリア」は地中海東岸の広い地域を示し、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ(以上を大シリアとも言う)を含んでいた。第一次世界大戦が勃発すると、メッカのハーシム家の首長フセインは、イギリスの支援を受けてオスマン帝国からの独立を宣言して「アラブの反乱」に起ち上がってヒジャーズ王国を建国した。この「アラブの反乱」に協力したのがイギリス人のロレンスだった。各地でオスマン軍を破ったヒジャーズ軍は、その最大の目的であるアラブ人による「大シリア」の再現をめざし、フセインの三男ファイサルがイギリス軍の協力を得てダマスクス攻略に向かい、1918年9月30日に占領した。大シリア立憲王国 ダマスクスにアラブ政府を樹立したファイサルは、1919年のパリ講和会議に出席し、大戦中にフセイン=マクマホン宣言で約束されたアラブ国家の承認を求めたが、イギリス・フランスはそれを拒否し、ウィルソンの民族自決の原則もアラブには適用されなかった。イギリス・フランスは、大戦中のサイクス=ピコ協定の密約を優先し、シリアの分割にのりだした。ファイサルは「大シリア立憲王国」の独立を宣言し、1920年3月8日にダマスクスでアラブ民族会議を主催、自らがシリア王となることを承認された。 しかし、イギリス・フランスはすでに第一次世界大戦中にサイクス=ピコ協定を結んでおり、同年4月にはイギリス・フランスなど戦勝国はサン=レモ会議で大シリアを分割してイギリス・フランスの委任統治とすることで合意した。7月にフランス軍はダマスクスを攻撃してファイサルを追い出し、ここに大シリア立憲王国は崩壊した。
イギリスは、フセイン=マクマホン協定でアラブ国家の樹立を約束した経緯があるので、ファイサルを保護し、バグダードに移してイラクの国王とした。ヒジャーズ王国は、さらにアラブのもう一つの勢力、ワッハーブ教団を背景としたサイード家のイブン=サウードとの争いに敗れ、1924年に滅亡した。もう一人のフサインの子のアブドゥッラーはトランスヨルダンの首長とされたが、イラクのファイサルともイギリスの委任統治のもとでの名目的な主権に過ぎなかった。 → オスマン帝国領の分割
フランスの委任統治
1920年8月にイギリス・フランスはセーヴル条約をオスマン帝国と結び、大シリアのうち、狭い意味のシリア(レバノンを含む)はフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領とされることになった。すでに7月、ダマスクスのファイサルを軍事力で追放したフランスのシリア委任統治は、22年7月に国際連盟で承認された。フランスは、委任統治に当たって、多数派のスンナ派イスラーム教徒を抑えるために、シーア派やドゥルーズ派のイスラーム教徒、マロン派キリスト教徒などの少数派の宗教対立を利用して4分割して形式的な国を置いた。ヨーロッパ近代主権国家(それらは宗教的な対立を克服していた)は中東やインドは宗教的な「モザイク社会」であるという偏見を持っていたが、フランスがシリアに持ち込んだのもそのような偏見から来る「分割統治」であり、それまで共存していた様々な宗教のあいだに、宗派対立から内戦に発展する構造を持ち込んだのはフランスだったと言うことができる。
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シリア(4) シリアの独立
フランス委任統治に対する反発が強まり、1936年に事実上の独立が認められ、戦後の1946年に正式に独立。
ところが第二次世界大戦が勃発し、1940年6月14日にパリが陥落して22日に降伏、親独的なヴィシー政府が成立するという激変が起こった。シリア駐留フランス軍はヴィシー政府についたため、1941年、イギリス軍・自由フランス軍との間で戦闘が始まり、フランスの委任統治は事実上崩壊した。フランスは1941年にキリスト教の一派マロン派の多いレバノンをシリアから分離させた。
1944年1月に、フランスの委任統治は終了し、独立宣言、1945年3月にはエジプト王国などとともにアラブ連盟(アラブ諸国連盟)を結成した。フランス軍はその後も駐屯を続けた。
第二次世界大戦末期にはサンフランシスコ会議に参加し、1945年6月に成立した国際連合憲章の原署名国(50カ国)の一つとなった。正式には独立していなかったが、事実上の独立が約束されていると国際社会には認知されていた。
1946年4月17日、ついにフランス軍が完全撤退し、シリア第一共和国(通称シリア)として正式にフランスから独立した。しかしパレスチナの一部をシオニズムに与えてユダヤ人国家イスラエル(1948年)とされることとなり、レバノンもすでに分離していたので、新生シリアはかつての大シリアから大幅に国土面積を減少させることとなった。
シリア(5) アラブ連合共和国の結成と分離
1958年にエジプトとのアラブ連合共和国となったが、1961年に解消した。63年に民族主義政党のバース党がクーデタで政権を奪取、指導者アサドが権力を握り、独裁的体制を樹立した。その体制はその子に継承され、国号はシリア=アラブ共和国となった。
アラブ連合共和国の成立と解消
バース党はアメリカの圧力を避けるため、ナセルの率いるエジプトとの合同を働きかけ、1958年2月に両国は国家を統合してアラブ連合共和国が成立した。これは、独立以来の政情不安、民族対立を抱えるシリアが、エジプトのナセルの指導下に入ってアラブ民族主義の理念で統一を実現しようという理念の下で行われたことであった。しかし、実際には首都はカイロに置かれ、エジプト人の官吏が統治し、エジプトと同じ農地改革が実施されるなど統制が及ぶとシリア側の特に保守層には反ナセルの動きが早くも高まってきた。国家統合から約3年後の1961年9月28日に反ナセル派の軍人がクーデタでバース党政権を倒し、シリアはアラブ連合共和国から離脱し「シリア=アラブ共和国」となった。
バース党アサド政権
1963年にはバース党クーデタによって再びバース党政権が成立し、1970年からはアサド将軍(ハーフィズ=アサド)が権力を握り(71年から大統領)、独裁政治を始めた。そのころから隣接するイスラエルとの間で、ヨルダン川の水利を巡って対立が深まり、バース党政権は再びエジプトのナセルと提携し、イスラエルに対抗する必要が出てきた。1967年6月5日に第3次中東戦争が勃発すると、機動力を高めたイスラエル軍によってゴラン高原を占領されるという敗北を喫した。
1973年の第4次中東戦争ではエジプトとともにイスラエル占領地奪還をめざしたが、ゴラン高原の奪還には失敗した。1975年から西隣のレバノン内戦に介入し、レバノンの実権を奪った。
アサド大統領はアラブ民族主義の立場に立ちながら、巧みな外交で中東の力のバランスをとり、独裁政権を維持し、2000年に子のバッシャール=アサドにその地位を継承させた。現在はシリア=アラブ共和国と称している。