マラーター戦争
1775~1818年の間のイギリスとマラーター同盟との3度に及ぶ戦争。マラーター同盟はインド中部のヒンドゥー勢力でムガル帝国の実質的後継国家だったが、南インドのマイソール王国がマイソール戦争でイギリスの支配下に入ったのに続いて敗退した。残ったシク王国が19世紀中頃にシク戦争で制圧されたことで、イギリスのインド亜大陸の大部分の植民地支配が完成した。
マラーター同盟とは、デカン高原一帯のヒンドゥー教徒の勢力であり、17世紀にシヴァージーによって一つの政治勢力となってイスラームのムガル帝国と対立するようになった。ムガル帝国の第8代皇帝アウラングゼーブの時代には26年にわたる戦いを展開し、その死後は独立した地方政権となっていた。特に宰相バージー=ラーオ(1720~1740年)の時期にデカン高原の周辺に遠征を行い、その勢力を広げるとともに、征服地の諸侯との同盟関係を結び、大きな政治勢力となった。1751年にはデリーに入城してムガル帝国皇帝を保護下に置き、事実上のムガル帝国の後継国家として権威を高めた。しかし、1761年に、北インドに侵出を図ったマラータ同盟軍は、アフガンから南下したドゥッラーニー朝とのパーニーパットの戦いの戦いに大敗し、一時勢力を後退させた。そのため、1760年代に入ると宰相の後継問題などから諸侯間に対立が起こり、同盟の求心力が低下していった。すると、イギリスはマラーター同盟の内紛に介入し、宰相の地位を争う有力諸侯のいずれかに領土の割譲を条件に兵力を提供して介入するようになった。
南インドのマイソール王国は、マラーター王国を宗主国として従属するヒンドゥー教の地方勢力であったが、1761年にイスラーム教徒の武将ハイダル=アリーが権力を奪い、イスラーム教国となったため、マラータ同盟との対立するようになった。南インドに勢力を伸ばそうとしたイギリスがマイソール王国を攻撃、1767年に第一次マイソール戦争が始まると、マイソール王国はイスラーム教国として敵対しているため、マラーター同盟はイギリス(東インド会社軍)に協力する形となった。
そのためイギリスの対マラーター戦争は干渉の成果がほとんどなく終わった。このように、イギリスはアメリカ独立戦争の時期に並行して第1次マラーター戦争と第2次マイソール戦を戦うことになり、インドにおいても危機に陥ったが、82年にはマラーター戦争を終結させ、83年にパリ条約でアメリカの独立を認め、フランスが戦線から撤退したため翌84年にマイソール戦争も終結した。その後マイソール王国ではハイダル=アリーの死後王位を継いだティプー=スルタンが1790年、第3次マイソール戦争、1799年に第4次マイソール戦争をイギリスと戦ったが、このときはマラーター同盟はイギリスに同調し、イスラーム教政権のマイソール王国を攻撃した。マイソール王国はその結果、1799年にティプー=スルタンが戦死して抵抗を終えた。
1803年、ベンガル総督ウェルズリーはマラーター同盟に宣戦布告、次々と諸侯軍を破っていったが、その膨張政策が多額の戦費を必要とすることから本国政府はウェルズリーを解任し、戦闘は終わった。そのため戦争は中途半端に終わったが、イギリスはマラーター同盟を構成する有力諸侯との間で軍事保護条約を個別に結び、保護国化(藩王国)することによって、北インドの中枢部を支配下に収めるのに成功した。
この3回にわたるマラーター戦争の結果、イギリスはインドの中央部を制圧し、1818年でイギリスによるインド征服は基本的に完了したことになる。インドの重要な地域は、イギリス東インド会社の直轄領(英領インド)か、あるいは軍事保護条約で宗主権をイギリスに譲り渡した藩王国かのいずれかになった。残る反英勢力は北西部のシク教徒のシク王国だけになった。<中里成章他『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 1998 中央公論社 p.273>
イギリスとの戦争
一方、イギリスは1757年、プラッシーの戦いと1764年のブクサールの戦いで東インド会社軍がムガル皇帝・ベンガル太守などの連合軍を破り、ベンガルのディーワーニー(地税徴収権と行政権)を獲得して最初に植民地として組み込み、さらにその支配をインド全域に及ぼそうとしたが、そのときにイギリスに抵抗したのが、南のマイソール王国、西のマラーター同盟、北のシーク教徒などであった。以後、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、イギリスとインドの諸国との戦争が展開される。南インドのマイソール王国は、マラーター王国を宗主国として従属するヒンドゥー教の地方勢力であったが、1761年にイスラーム教徒の武将ハイダル=アリーが権力を奪い、イスラーム教国となったため、マラータ同盟との対立するようになった。南インドに勢力を伸ばそうとしたイギリスがマイソール王国を攻撃、1767年に第一次マイソール戦争が始まると、マイソール王国はイスラーム教国として敵対しているため、マラーター同盟はイギリス(東インド会社軍)に協力する形となった。
・第1次マラーター戦争 1775年~82年
1775年~82年 イギリスがマラータ同盟の宰相の後継者争いに介入した戦争。イギリス東インド会社はマラーター同盟の内紛が起きると、領土の割譲などを条件に一方の側を支持し、介入した。しかしかえってマラーター同盟側は抵抗を強め、イギリスの意図は失敗した。この開戦の年にアメリカ独立戦争が始まっており、1778年にフランスが参戦を宣言した。それを受けてマラーター同盟もフランス軍とともにイギリス軍と戦った。一方、マイソール王国のハイダル=アリーもイギリスとの戦争に踏み切り、1780年に第2次マイソール戦争(1780~84)が始り、マドラス(現チェンナイ)を攻撃、一時は陥落寸前までいった。そのためイギリスの対マラーター戦争は干渉の成果がほとんどなく終わった。このように、イギリスはアメリカ独立戦争の時期に並行して第1次マラーター戦争と第2次マイソール戦を戦うことになり、インドにおいても危機に陥ったが、82年にはマラーター戦争を終結させ、83年にパリ条約でアメリカの独立を認め、フランスが戦線から撤退したため翌84年にマイソール戦争も終結した。その後マイソール王国ではハイダル=アリーの死後王位を継いだティプー=スルタンが1790年、第3次マイソール戦争、1799年に第4次マイソール戦争をイギリスと戦ったが、このときはマラーター同盟はイギリスに同調し、イスラーム教政権のマイソール王国を攻撃した。マイソール王国はその結果、1799年にティプー=スルタンが戦死して抵抗を終えた。
・第2次マラーター戦争 1803~1805年
1798年にベンガル総督となったウェルズリーはイギリス支配を拡張することを強く勧めようとした。その頃マラーター同盟では再び宰相後継問題が起こり、有力諸侯のシンディア家・ホールカル家が争い、宰相バージー=ラーオ2世は首都プネーを追われるという事態になっていた。彼はベンガル総督ウェルズリの支援によってプネーに復帰した。その時イギリス東インド会社軍の領内への永久駐留を認めるなど屈辱的条件を飲んだが、諸侯は一斉に反発、同盟軍は対英戦争に踏み切った。1803年、ベンガル総督ウェルズリーはマラーター同盟に宣戦布告、次々と諸侯軍を破っていったが、その膨張政策が多額の戦費を必要とすることから本国政府はウェルズリーを解任し、戦闘は終わった。そのため戦争は中途半端に終わったが、イギリスはマラーター同盟を構成する有力諸侯との間で軍事保護条約を個別に結び、保護国化(藩王国)することによって、北インドの中枢部を支配下に収めるのに成功した。
・第3次マラーター戦争 1817~1818年
マラーター同盟の諸侯の反英感情はなお強いものがあり、1817年11月にマラーター同盟の宰相の指揮下の同盟軍はイギリス東インド会社を攻撃し、第3次マラーター戦争が始まった。しかし、両軍の軍事力の差は大きく、翌1818年6月に降伏した。短期間でイギリス軍に敗れた同盟の宰相は、年金を支給されて北インドのカーブルに流された。それ以後は再起できず、こうしてマラーター同盟、マラーター王国は滅亡した。イギリスのインド征服の完了
マラータ同盟の宰相の領地のほとんどは翌年、イギリスのボンベイ管区に編入され、他の諸侯は藩王国として名目上の自立は認められたが事実上はイギリスの保護下に入った。この3回にわたるマラーター戦争の結果、イギリスはインドの中央部を制圧し、1818年でイギリスによるインド征服は基本的に完了したことになる。インドの重要な地域は、イギリス東インド会社の直轄領(英領インド)か、あるいは軍事保護条約で宗主権をイギリスに譲り渡した藩王国かのいずれかになった。残る反英勢力は北西部のシク教徒のシク王国だけになった。<中里成章他『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 1998 中央公論社 p.273>