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シク王国

1799年、インドのパンジャーブ地方に樹立されたシク教徒の国家。イギリスの支配に1849年まで抵抗した。

 パンジャーブ地方のシク教徒は17世紀にムガル帝国のアウラングゼーブ帝のイスラーム教強制政策による圧迫を受けたことによって大きく変貌した。第10代のグル=ゴービンド=シングは一種の宗教改革をおこない、創始者のナーナクの平和主義、平等主義を転換させ、戦闘的で強固な教団組織に変貌させた。信徒はつねに武器を携行しカールサーといわれる共同体に属してグルに従い、教団を守った。その多くは農民や職人などの下層カーストに属する人々だった。彼らは北西インドにおける反ムガル勢力として、1675~1708年の間、ムガル帝国と戦った(シク教徒の反乱)。さらに18世紀中頃にはアフガニスタン方面からのナーディル=シャーのアフシャール朝軍や、アフマド=シャーのドゥッラーニー朝の北インド侵攻と戦った。

ランジット=シングの建国

ランジット=シング
シク王国を建国したランジット=シング
(1780-1839)
 これらの外敵との戦いのなかから、シク教徒を一代で統合したランジット=シングが現れる。かれは1799年ラホールで自立し、その後10年間でパンジャーブ地方のシク教徒の小王国を征服して、シク王国を築いた。シク王国はランジット=シングのもとで農業や商業の復興に力を入れて国力をつけ、近代的な銃や大砲、騎兵で武装し、ヨーロッパ人将校を雇い入れて軍事国家を作り上げていった。ランジット=シングはアムリットサールのシク教の総本山の聖堂を金のメッキを施した銅板で覆い、ゴールデン・テンプルと言われるようにした。シク王国は1839年にランジット=シングが死去すると内紛が生じ、そこをイギリスにつけ込まれることとなった。

イギリス東インド会社とのシク戦争

 すでに18世紀までにマイソール王国、マラーター同盟などの反英勢力を征服していたイギリス東インド会社は、インドに残る独立国家であるシク王国を倒す機会をねらっていたが、ランジット=シングの死後の内紛をとらえて挑発し、1845年に戦争に持ち込んだ。この第1次シク戦争に続き、1848年5月には、第2次シク戦争が続き、翌1849年3月にパンジャーブのシク教徒の反乱が鎮圧されて終結した。
 イギリス東インド会社はパンジャーブの旧シク王国を藩王国とはせず、併合して直接支配下に組み入れた。これはアフガニスタンに隣接する戦略的な重要性を考慮したと考えられる。<『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 中央公論新社 1998 中里成章執筆分より要約>