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シンガポール

マレー半島先端にある島。1824年からイギリス殖民地支配の拠点とされ、第二次大戦後の1963年にマレーシアの一部として独立したが、1965年に分離独立した。華僑の占める割合が高い。

シンガポール GoogleMap

マレー半島の最南端に位置する交通の要地。ジョホール水道をへだてて陸地に近い一つの島で、面積はほぼ淡路島ぐらい。イギリス東インド会社員のラッフルズ1819年に現地を支配するジョホール王国のスルタンから、この地に商館を建設することを認めさせた。ラッフルズが上陸したときのシンガポールは人口300ほどの貧しい漁村だったという<鶴見良行『マラッカ物語』 p.179>
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・関連ページ

シンガポール(1) イギリス植民地化

ラッフルズの上陸

 イギリス東インド会社のラッフルズがこの地に目をつけたのは、インドから中国に向かう貿易船の寄港地として最適と考えたからだった。マレー半島南部一帯を支配するジョホール王国は特にこの地を重視していなかったので、初めは租借であったものを、ラッフルズの求めに応じ、1824年には割譲を認め、正式にイギリス東インド会社領となった。ラッフルズは、この地に「商業の自由」の原則に立った自由港を建設した。この島は住民の間ではかつて「テマセク(海の街)」と言われていたが、14世紀末以来、「シンガプーラ(ライオンの街)」と呼ばれるようになっていた。ラッフルズが1819年1月28日に最初に上陸したのは、現在のシンガポール中心地を流れるシンガポール川河口、観光名所となっているマーライオン像から300mほどさかのぼった右岸で、そこには今、威風堂々と腕組みをするラッフルズの銅像が建っている。

イギリスの海峡植民地となる

 ラッフルズの上陸とイギリスへの割譲を機にイギリス領マラヤの一部としてのシンガポールは急速に貿易港として発展、もともとの住民マレー人にくわえ、中国系(華僑)商人やインド人労働力が多数流入し、一大都市となった。1826年にはペナンマラッカと共にイギリスの海峡植民地の一部となり、イギリスはマラッカ海峡を抑え、アジア進出の拠点とした。

人口の増大と人種構成

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリス植民地のマレー半島一帯では、スズ(錫)の産出とゴムのプランテーションの開発が急速に進み、シンガポールはその積み出し港として賑わうと同時に、労働力として中国の福建人や広東人、インドの南部タミル人などの受け入れ港として人口も急増していった。人口は1821年に5000人だったのが、19世紀中頃には5万人、1871年に10万人、1901年に23万人、シンガポールの建設が始まって約100年後の1921年には約42万まで膨張した。この時点で人口比は中国人が72%に上り、シンガポールの現在の人口構成と同じになった。少数のイギリス人支配者は、分割統治を行ったので、中国人・インド人・マレー人の居住区をべつにした。現在も、市の中心部にはチャイナタウン、リトル・インディアの区別があり、マレー人は郊外に住むことが多い。中国人地区では中国語(さらに福建語や広東語)が話され、道教や仏教の行事が守られ、インド人地区ではヒンドゥー語やタミル語が話されヒンドゥー教の祭りがあり、マレー人はマレー語をはなしイスラム教を信仰するという文化的なモザイク状態が形成された。もちろんシンガポール語というのはなく、シンがボール人という意識もまだ形成されていなかった。

中継貿易で繁栄

 19世紀のイギリス植民地シンガポールは、中継貿易の港として、香港と並んで繁栄した。特に1869年年のスエズ運河の開通は、ロンドン━シンガポール間は帆船で喜望峰を回るルートより、蒸気船でスエズ運河を通るルートは半分の50日に短縮された。シンガポールから中国に向かう船はアヘンなどを満載し、大きな利益を獲得した。帰りの船では広東や福建からの多くの中国人を運び、彼ら華僑はクーリーといわれ、マレー半島のスズ鉱山やゴム園の労働力として広がっていった。
からゆきさん シンガポールに出稼ぎに来たアジア人の中には、日本人もいた。主に小商人や農民、漁民だったが、「からゆきさん」と呼ばれる売春婦として渡ってきた若い日本人女性も多かった。彼女たちは主に九州の貧しい農漁村の娘たちで、単身で出稼ぎに来ている男性労働者の集まるマニラ、バンコク、ジャカルタなどの港や、マレー半島、ボルネオ島の北東部のサンダカンなどの日本人経営の娼館で働いていたが、最も多かったのがシンガポールだった。シンガポールのからゆきさんは1877年にはわずか14名だったが、1903年には585人に達している。シンガポールの都心部、官庁街の東のミドル・ロードは、現在ではまったく面影はないが、日本人経営の売春宿が両側に軒を連ね、客を目当てに様々な商店や旅館、医院が建ち並んでいた。しかし、第一次世界大戦を堺に、彼女たちの姿は消えていった。それは日本が戦勝国の一員として世界の大国になると、からゆきさんは日本の恥であるとの声が出て、1920年に日本領事館が日本人売春婦の追放を決定したからだった。日本に帰れば冷たい目で見られたため、彼女たちは領事の目の届かない街でひっそりと暮らすしかなかった。今ではシンガポール市街地のやゝ北東の住宅街の中に、1891年に作られた日本人墓地があり、その一角にからゆきさんの簡素な墓が残っているだけである。<岩崎育夫『物語シンガポールの歴史』2013 中公新書 p.2-31>
 からゆきさんの存在は戦後日本で忘れられ(あるいは消され)ていたが、1972年に山崎豊子が小説『サンダカン八番娼館』を発表し、74年に熊井啓が映画化、からゆきさんだった老女を田中絹代(若い頃は高橋洋子)、彼女から聞き書きした女性史研究者を栗原小巻が演じて話題となり、広く知られるようになった。シンガポールにからゆきさんが最も多く生きていたことをスルーするのでなく、改めて考えておこう。

シンガポール(2) 日本軍の占領

太平洋戦が開始され、イギリス拠点のこの地は日本軍の目標となり、1942年2月15日、占領された。抵抗した華僑が多数虐殺されるなど、苛酷な占領は3年8ヶ月に及んだ。

日本軍の攻撃

 1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾攻撃を実行、アメリカとの開戦に踏み切り、それが太平洋戦争、日本の第二次世界大戦への参戦とされているが、実際には真珠湾攻撃の1時間ほど前、日本軍はマレー半島の南シナ海に面したタイの町パタニとイギリス領マラヤのコタバルに上陸し、同時にシンガポールの空港を空爆している。 → 日本軍のマレー半島占領
 同日、日本はアメリカ・イギリスと開戦し、太平洋戦争が開始され、10日にはマレー沖海戦でイギリスの戦艦2隻を沈めるなどの戦果を挙げ、日本軍の勝利が続いた。日本軍の勢いは止まらず、12月25日には香港占領、翌42年正月2日にはマニラに入城1942年2月15日、シンガポールを占領、イギリス軍は降伏した。

日本軍のシンガポール軍政

 1942年2月からシンガポールは日本軍の軍政下に入った。日本軍は重慶の蔣介石政権=国民政府とつながる存在として華人たちを警戒の目でみており、「華僑に対しては、蔣介石政権より離反し、わが政策に協力同調せしむものとす」(実施要領)としていた。シンガポール攻防戦で、華人の義勇軍がもっとも勇敢に戦ったことは著名であり、日本軍のシンガポール入城後の華人虐殺事件はそれが遠因であったといわれる。協力の証として求めたのは資金供出であり、シンガポールを中心とするマラヤの華人に対して、5000万ドルの日本軍への寄付が強要された。華人たちは土地を売り、借金をして集めたが2800万しか集まらず、不足額は横浜正金銀行から華僑協会に貸し付け、その結果、5000万ドルの小切手が山下奉文軍司令官に「奉呈」された。<小林英夫『日本軍政下のアジア』1993 岩波新書 p.126>

華僑虐殺事件

 華僑が人口の多数を占めるシンガポールでは、抗日意識が強く、中国への献金ばかりでなく、日本軍の後方攪乱などを行った。日本軍はシンガポール占領後、「抗日」華僑7万余を検挙し、数千あるいは数万といわれる多数を処刑した。その処刑の仕方も残虐な手段がとられた。おびただしい多数の人々について短時間に正確な有罪の認定のできたはずがなく、報復的な大量虐殺という非難は免れない。<家永三郎『太平洋戦争』1986 岩波書店 p.214>
 日本軍は、占領直後の1942年2月18日、治安確保のためと称し、市内数カ所に18~50歳の中国人男性を集合させ、反日主義者、共産主義者の割り出しを行った。3日間にわたり憲兵隊が一人ひとりを検査しチェック、疑いのあるものはそのままトラックに乗せられてシンガポール島東海岸や、現在は観光地となっているセントサ島に運ばれ、海岸に大きな穴を掘らされた後に、機関銃などで銃殺された。後にシンガポールの首相となるリー=クアンユーは当時18歳、集合所から機転を利かせて脱走し、死を免れた。
 第二次世界大戦後、関与した日本軍関係者はシンガポールで裁判にかけられたが、日本側証人は犠牲者の数を5千~6千と証言した。それに対して虐殺を追求する側は4万~5万人という数をあげ、隔たりが大きかった。当時の混乱もあり、現在までその正確な数は判っていないが、この日本軍による虐殺は日本に対する怨嗟の的とされ、現在もシンガポールの人々に記憶されている。シンガポールの中心部には、現在、日本軍による虐殺の犠牲者を悼む大きな記念碑が建設されている。<岩崎育夫『物語シンガポールの歴史』2013 中公新書 p.46 などによる>

シンガポール(3) 独立

日本軍撤退後、イギリス植民地支配が復活。1957年、イギリスはマラヤ連邦の独立を認めたがシンガポールは分離し、自治権付与に留めた。1959年、人民行動党リー=クアンユーを首班とする自治政府が成立、1963年にマレーシアに加わりその一州として独立した。しかし1965年にマレーシアと分離し、単独の主権国家となった。

 日本軍敗戦後、イギリスはシンガポール・マレー半島の植民地支配イギリス領マラヤを復活した。東南アジアのベトナム、インドネシアでは日本軍撤退後、すぐに独立のための武装蜂起が始まり、ベトナムではフランス軍が、インドネシアではオランダ軍が敗れて撤退したが、ここではイギリス軍に対する武装蜂起はすぐには起こらなかった。

イギリス植民地支配の復活

 1946年、イギリスはマレー半島の九つの州とペナン、マラッカを併せて「マラヤ連合」とし、シンガポールはそれから切り離して直轄植民地とした。これはシンガポールの経済発展がたの地行きと異なっていることに対応し、分割統治するためのものであり、これによって後のシンガポールのマレーシアからの分離独立の素地が作られた。さらにイギリスは、アジア各地の独立の動きがお及ぶことを想定し、シンガポールには1948年に立法評議会を設け、その議員を一部選挙で選ぶことにした。1955年にはそれが一定の自治権を持つ立法議会となり、定員32名のうち25名を選挙で選ぶことにした。ただしこの議会の権限は財政・法務・外務・治安・軍事には及ばないという、はなはだ限定された議会であった。それでもシンガポール人から議員が選ばれることになったので、それに備えて政党が組織されていった。
共産党の独立闘争 また、抗日ゲリラ闘争を続けていたマラヤ共産党は、戦後合法化されると、徐々にその矛先をイギリスに向け、独立に向けての大衆運動を組織し、1948年6月にマレーとシンガポールで武装闘争を開始した。しかしイギリス植民地当局は非常事態宣言を発し、共産党を非合法化して武力鎮圧に乗り出したため、共産党の蜂起は失敗し、地下に潜ることになった。非常事態宣言はその後、1960年まで継続される。
人民行動党 人民行動党 People's Action Party PAPは、シンガポール立法議会の議員選挙に備えて組織された政党の一つだった。1954年に、リー=クアンユーら華人(中国系)でイギリス留学を経験し、西欧的議会政治・福祉社会を目指す勢力と、同じ華人ながら日本占領時代に抗日運動を戦っていた共産党系の勢力が、シンガポールの独立をめざすという一点で協力して結成した政党であった。リー=クアンユーらは華人の英語教育集団を基盤としており、それに対して共産主義グループは華語(中国語)教育集団という基盤の違いがあったが、シンガボールの中国系住民の中のナショナリズムを掲げることで一つの政党として結成され、幅広い支持を受けた。その後、シンガポールがマレーシアとの統合、さらに分離独立を遂げる過程で両派の違いは明確になり、リーらは明確に共産主義グループを排除して主導権を握り、経済発展を旗印に掲げるとともに反対派が生まれるのを巧みに防止して、選挙で常に議席をほぼ独占しつづけ、それによってリー=クアンユーは1990年まで首相をつとめ、人民行動党政権は現在に至るまで長期政権を維持している。

シンガポール自治政府の成立

 1957年8月、イギリスはマラヤ連邦の独立を認めたが、シンガポールは除外され、翌1958年にイギリス連邦内の自治州となり、外交と国防を除いた完全自治権が付与された。1959年5月には自治政府選出のための総選挙が実施され、人民行動党は定員51のなかの43議席を獲得、リー=クアンユーも当選して首相に就任した。人民行動党が多数を占めたのは、この時から20歳以上の普通選挙となって中国系住民(華人)が投票権を得たためであった。
 1959年6月3日、シンガポールは高度な自治権のもと、リー=クアンユーを首相とする人民行動党が議会の多数を占めて政権を発足させた。しかし、人民行動党内ではリーを中心とした英語教育集団と、共産主義をめざす華語(中国語)教育集団のイデオロギー的な対立が次第に明確となり、リーのグループは共産主義グループを実力で排除し、中国系英語教育集団を支持基盤とすることを次第に明確にしていった。
 また、この頃になるとマラヤ連邦の指導者ラーマン首相はマレー世界を統合し、共産化を阻止するため、シンガポールを合併して取り込むことを意図するようになり、リーもそれに賛成して、人民行動党内の共産主義者グループの排除を始めた。共産系は反共を掲げるマラヤ連邦との統合に反対し、ここに党内抗争が激化する背景があった。両派の対立は1961年、共産系が脱党して社会主義戦線を結成したことで決定的になった。

マレーシアとの併合

 1962年9月、マレーシアとの併合についての国民投票が行われると、政府提案の合併案が73.8%で承認された。こうして、シンガポールは1963年9月16日、正式にマラヤ連邦ボルネオの二州(サラワクとサバ)と並ぶ一州としてマレーシアに加わった。それまでシンガポールは自治政府に過ぎなかったものが、マレーシアに加わるという形で完全な独立を達成した。
 マレーシアへの併合を主導したのは、シンガポールのイギリス連邦自治州首相であったリー=クアンユーの率いる人民行動党であった。しかし、マレーシアとの併合に反対して国民投票をボイコットした社会主義戦線は、政府の弾圧にもかかわらず健在で、併合後9月に行われた総選挙でも人民行動党の37議席に対し、13議席を確保していた。リー=クアンユー政権は社会主義戦線の基盤となっている労働組合や学生組織を徹底して弾圧し、その行動の手足を奪っていった。マレーシアと合併していた2年間は、リー政権と社会主義戦線が激しく対立した時代であり、それに勝利したことが、リー=クアンユーがシンガポールの分離独立後の人民行動党による一党支配、管理政治とそのもとでの経済成長を可能にしたと言える。

マレーシアからの分離独立


シンガポールの国旗
 連邦国家であるマレーシアの一州となったシンガポールにとっては苦渋の2年間となった。リー=クアンユーはマレーシアに加わることによってシンガポール経済にとって得るところが大きいと考えていたが、現実にはシンガポールは連邦の中の唯一の先進地域であり、その富は他のマレーシア地域に流れていくこととなった。またシンガポールは中国系(華人)が圧倒的に多く、経済も主導していたが、マレーシアはマレー人の世界であったため、両者の意識のズレは大きかった。マレーシアでは「ブミプトラ」(土地の子、の意味)といわれるマレー人優遇政策を執っていたので、次第に両者の対立が表面化していった。リー=クアンユーらシンガポール側はマレーシア中央政府が華人を排除しようとしていると批判すると、マレーシア側はシンガポールがマレー人を差別していると逆に非難、感情的な対立が強まっていった。その状況の中でマレーシアのラーマン首相はシンガポールを連邦から追放することを決断、それをうけたリー=クアンユーは、1965年8月9日、シンガポール独立宣言を読み上げ、ここに分離独立が実現した。独立宣言では「シンガポールは永久に、自由と正義の理念に基づく独立の民主的主権国家であり、常に国民の福祉と幸福を希求し、より公正で平等な社会をめざすものであることを宣言する」と述べた。<岩崎育夫『リー=クアンユー 西洋とアジアのはざまで』現代アジアの肖像15 1996 岩波書店 p.71-72>
 シンガポールの分離はマレーシアから追放されたというのが実情であるが、シンガポールでは暴動も反対運動も起きなかった。
(引用)その理由は、誰もが考えなかった分離独立が、シンガポールのすべての人々に電撃的なショックを与えたことにある。まさに国家だけでなく社会そのものの、存亡の危機であった。そのため逆説的になるがショック療法的に、国民の間にリーと人民行動党への求心力を生んだのである。ほとんどの国民は、今は政府を批判しているときではない、とにかく何としてもシンガポールは生きなければならない、今できることは、現実を動かし変えることではなく、自分たちを現実に合わせることだ、と考えたのだ。当時の状況の中で、普通の国民にはこれ以外の選択肢はなかったのである。<岩崎育夫『同上書』 p.71-73>
 一方で、数年前までリーと対立していた社会主義戦線など共産勢力はその基盤である労働組合とともに、数年に及ぶ人民行動党の弾圧によて政治行動を組織する力を失っており、リーの反対勢力は皆無となっているという状況がすでにできていた。
 マレーシアからの分離独立により、シンガポール共和国となり、大統領にはマレー系のユソフ=シャイクが議会で選出され、首相はリーが継続した。人口200万足らずのミニ国家であったが、国際連合にも加盟した。しかし、スカルノ体制のインドネシアはシンガポールとの貿易禁止をつづけており、国際環境は厳しかったが、かえってその中で指導者リーに対する一致した支持が集まり、確固たる長期政権の基盤を作っていった。

国際情勢の変化

 シンガポールが生存のために目指したことは経済面、国防面での自立的できる国家であった。そのためには政府に対する反対行動を徹底して取り締まることで国内政治を安定させるとともに、安定した国際関係を築くことが必要だった。シンガポールにとって有利な動きとしては、1965年9月30日、インドネシアで九・三〇事件の反共クーデタが起こり、シンガポールを敵視していたスカルノが退陣したこと、ベトナム戦争本格化に伴い、反共産主義を掲げる諸国によって、1967年8月8日東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成されたことであった。リー=クアンユーはそれを主導したインドネシアのスハルトと良好な関係を築いていく。
イギリス軍の撤退 国際環境の危機は続き、1968年にはイギリスウィルソン内閣が、スエズ以東からの撤兵を表明、それに従って1971年までにシンガポールからもイギリス軍が撤退、シンガポールは独自の国防態勢作りを余儀なくされて徴兵制を実施するとともに、同時に大国に依存しない独自の国防力を育成するためにも、工業化を急ぐ理由としてあげられるようになった。

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シンガポール(4) 経済成長

アジア四小龍

 1960年代から1990年代にかけて、アジアで著しい経済成長を遂げた香港、シンガポール、台湾韓国は「アジア四小龍」Four Asian Tigers と言われた。この四国(地域)は、いずれも自前の資源には恵まれないものの、外国資本を税制優遇などで巧みに導入し、市場経済原理を徹底し、金融や技術の開発に成功し、60年代まで世界をリードした高度経済成長期の日本に代わって世界市場に大きな地位を占めることとなった。香港と台湾は中国との関係という国家主権に関わる問題を抱え、韓国は北朝鮮との軍事的対立とそのことを背景とした政治不安を抱えているのにくらべ、シンガポールはリー=クアンユー政権の下、最も安定した成長を遂げた。<エズラ=フォーゲル『アジア四小龍- いかにして今日を築いたか』1991年 中公新書> → 新興工業経済地域(NIEs)

参考 開発主義を可能にしたシステム

 リー=クアンユーのもとでのシンガポールの開発主義はどのようにすすめられ、工業化はどのように達成されたのだろうか。リー=クアンユー時代は一般に開発独裁と言われるが、その内実はどのようなものだったのだろうか。そこには次のような、独自の方法とシステムがあったことが指摘されている。<岩崎育夫『同上書』などによって構成>
  • 外資の全面的な導入。島の西部を政府が開発し、大規模な工業団地(ジュロン)を建設、アメリカ、イギリス、日本などの外国資本の工場を誘致した。外資を受け入れる技能を持つ労働力を育成した。
  • 国家主導型の開発。自発的な企業ではなく、政府部内の部局がコントロールし、生産計画に基づいて資源の配分、技術の育成、インフラの整備を行った。外国資本の誘致も国主導で行った。
  •  国家主導型開発の原資はどのように調達されたのだろうか。そこにもシンガポール独自の次のような政策が立案されていた。
    • 賃金の国家管理。労働力不足から外資系企業での賃金の高騰は、外資の誘致に不利になると考えた政府は賃金の国家管理に乗り出した。それは政府と労働者、経営者の代表三者の協議機関で毎年の賃上げ額を決めて勧告する。その額は一律ではなく、産業政策と物価コントロールに結びつけられ政策目的のためにドライに使われた。つまり、賃金は労働市場で決まるのではなく、政府が開発と成長のためにコントロールしていた。
    • 中央積立基金。退職後の年金として労働者と経営者が毎月一定比率で拠出し労働者の口座に積み立て、中央積立基金庁はその基金で政府国債を購入、その資金が国庫に入り、開発予算に組み入れられ、住宅開発庁などに融資された。労働者は住宅購入する際には基金から必要額を引き出すことができる。この中央積立基金はシンガポールの開発の重要な自己資金の役割と果たし、たの発展途上国のように開発のために外国から借金をしなくても済んだ大きな要因の一つだった。
  • 人民行動党の一党支配。 国家主導型の開発を行う上で、リー=クアンユーが指導する人民行動党が官僚機構と一体となって権力を握り、実質的に反対党の存在が不可能な体制を作り上げた。反対党の活動を封じるために、選挙制度の工夫と、マスコミなど言論統制を巧妙に行った。
  • プラグマティックな統治スタイル。 人民行動党は優秀な頭脳と社会エリートを集めていることを公然と表明し、政治家・官僚として、行政運営における効率的・合理的なプラグマティズムに徹する。同時に汚職のないクリーンさは他の先進国・開発途上国のいずれにも劣らない。
  • 巧妙な一党独裁政治。 形の上では議会制であり、多党制による民主的選挙制度のもとにある。選挙も普通選挙でしかも義務投票制(投票しないと自動的に選挙人名簿から抹消され、公団住宅の購入権を失うなどの不利益を蒙る)である。しかし、現実には与党の人民行動党はシンガポール独立以来、現在まで議席の大半を独占し、一党独裁が続いた。
  • 国会議員選挙でのグループ代表選挙区。 政党は三名一組の候補者を出し、最も得票の多かった政党の三人が総取りで当選となる。しかも三人のうち一人はマレー人かインド人でなければならないという規定があり、人種間の平等のためとされているが、実際にはマレー人やインド人の候補者を出せない政党は除外されてしまう。
鄧小平の改革開放に影響 これらがシンガポールの開発独裁の特徴であるが、外国資本への開放、国家が管理する市場経済といった経済運営は、文化大革命後の中国で、大転換を遂げた鄧小平の「改革開放政策」さらに「社会主義市場経済」という経済政策を導入にとって、またとない先例であった。鄧小平の経済運営は、独創的なものではなく、シンガポールなどに典型的に見られる開発主義の手法をとりいれたものだった。事実、シンガポールのりー=クアンユーのもとで、産業・経済政策を一手に取り仕切っていたその盟友ゴー=ケンスィーは引退後、中国政府に招かれて、開発顧問に就任している。<岩崎育夫『同上書』 p.216>

リー=クアンユー時代の終わり

 リー=クアンユーは華人の英語教育エリートグループから生まれた人民行動党を率いて、1965年にマレーシアから「追放」されたシンガポールを、現在でも人口570万ほどの都市国家でありながら輸出指向型の工業国に転身させることに成功し、長くその政治権力を維持した。首相在任は1990年まで続き、その後も政界に影響力を持ち続け、2015年に死去した。その前年の2014年のシンガポールは一人あたり国民所得が5万5910ドルで、東南アジアで最も豊かな国になっていた。
 シンガポールの発展を支えた一つの要因は、外国資本の参入を自由化したことであったが、同時に専門知識を持った技術者や高い技能を持つ労働者が優遇されてきた。最近になって政府の外国人優遇策に不満を持つ層が、抗議のデモを行うなど、比較的政府に従順であると見られていたシンガポール国民にも変化の兆しが現れてきた。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.216>

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書籍案内

岩崎育夫
『物語シンガポールの歴史』
2013 中公新書
マラッカ物語 表紙
鶴見良行
『マラッカ物語』
1981 時事通信社

小林英夫
『日本軍政下のアジア』
1993 岩波新書

家永三郎
『太平洋戦争』
1986 岩波書店

エズラ・フォーゲル
渡辺利夫訳
『アジア四小龍―いかにして今日を築いたか 』
1993 中公新書

四小龍とは台湾、韓国、香港、シンガポール。NIEs諸国を論じて話題となった本。