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リー=クアンユー

シンガポール独立の父といわれる政治家。華僑の家系に生まれ、戦後イギリスに留学、帰国後、人民行動党を率いて1963年、マレーシア独立時に一州として加わる。1965年、中国系住民の多いシンガポールをマレーシアから分離独立させ、以後、首相として長く政権の座にあり経済成長を実現、1990年まで在任した。

西洋とアジアのはざまで

リー=クアンユー

リー=クアンユー

 リー=クアンユー Ree Kuan Yew 李光燿 1923-2015 は名前か判るように中国系。曾祖父は客家の出身で19世紀中頃、華僑としてシンガポールに来たという。その後一家は海運会社や石油会社で働き、中国人(華人)社会でも比較的富裕な階層となった。父は1930年の大恐慌で資産を失ったが、リー=クアンユーは父祖たちと同じように英語教育を受け、シンガポールのエリート校ラッフルズ学院で学んだ。このように彼は華人の中でも英語教育集団(クィーンズ・チャイニーズ)といわれる中で育ち、イギリスの教養を身につけていった。
(引用)リーは、種族的には中国人だが、その社会意識はもはや「中国人」ではなかった。それはアジア人に西洋の思考を吹き込んだ新しいタイプの人間であった。よくいえば、アジアと西洋の二つを理解できるが、悪くいえば、どちらの集団からも仲間として数えられない存在だった。それがゆえにというべきか、シンガポール国家形成の担い手の強力な一団は、この(英語教育)集団から生まれたのである。<岩崎育夫『リー=クアンユー 西洋とアジアのはざまで』現代アジアの肖像15 1996 岩波書店 p.30>

シンガポール「建国の父」

 リー=クアンユーは日本軍による占領期に少年・青年期を過ごし、イギリス・ケンブリッジ大学を卒業。1954年に人民行動党(PAP)を結成、独立運動を指導した。独立後はPAPの一党支配体制を確立、多数派の華人に、マレー系、インド系からなる多民族国家をまとめるため、他民族の母語を公用語として認める一方、共通語として学校教育をすべて英語で行う言語政策を進めた。
 また、東京23区より一回り広いだけの島国シンガポールで、資源もないことから、外国資本の誘致による工業化政策を主導した。魅力的な税優遇などで投資環境を整備。海外の有能な人材を引きつけることで、アジア有数の金融センターの構築にも成功した。これによってシンガポールは一人あたり国内総生産(GDP)で日本をしのぐ土台を築いた。
 外交面では、中国の鄧小平とも人脈を築き、1993年に初の中国・台湾民間交流窓口機関のトップ会談をシンガポールで実現させるなど、中国と台湾の仲介役としても活躍した。
 リー=クアンユーは、シンガポールの経済開発を最優先し、異論を許さない政治手法は「独裁」との批判を浴びることはあったが、資源の少ない小国で急成長を実現したことから「建国の父」と呼ばれている。2015年3月23日、91歳で死去した。<朝日新聞 2015年3月23日夕刊を再構成>
 他の開発独裁の多くが、大衆の生活を犠牲にしたことから反発を受けて途中で倒されたのに比べて、リー=クアンユーが「建国の父」としたわれながら、しかも高い国際的な評価を維持して天寿を全うしたことは希有なことである。しかし、その長男のリー=シェンロンが首相をつとめるなど、一族政治の傾向はその死後に明らかになっており、その弊害が出始めているとも言われている。

日本軍占領下で

 ラッフルズ学院2年の時に日本軍がシンガポールを占領、軍政が始まる。3年8ヶ月に及んだ日本軍の占領下では、華僑は特に敵視され1942年には「華僑虐殺」が起こった。強制命令で集められた華僑は検査が行われ、共産主義者やイギリス共謀者とされると連行されて多数が虐殺された。このときリー=クアンユーも集合場所に集められたが、危険を感じ機転を働かせて間一髪助かったという。また華僑に対しては日本軍が軍事費の一部として5000万海峡ドルの寄付を強請した。戦後、リー=クアンユーはこの補償を日本に求める運動を起こした。

イギリス留学と人民行動党の結成

 戦争が終わった後、1946年9月からリー=クアンユーはイギリス留学に向かった。ケンブリッジ大学で法律を学びながら、同じようにイギリスに留学した同世代のゴー・ケンスィー、トー・トンチャイ、ラジャラトナムらのナショナリズムに目覚めた若者と知りあい、反植民地意識を持つとともに、イギリス労働党の選挙を手伝うなど政治的経験を積んだ。イギリス植民地支配が復活したシンガポールではマラヤ共産党の反英独立を掲げた武装蜂起が起こっていた。マラヤ共産党は日本占領期にも抗日ゲリラ活動をおこなっていたが、イギリス支配の復活に対し、一気にマレーシアとシンガポールの独立させようと武装蜂起し、それに対してイギリス植民地当局は非常事態宣言を発して共産党を非合法化し武力鎮圧に乗り出したため、解散に追いこまれていた。
人民行動党を結成 1950年8月、留学から帰ったリー=クアンユーは弁護士活動をしながら、イギリス植民地支配を終わらせる政治活動に入ることを決意した。その中で同志を増やし、1954年11月21日、人民行動党を結成した。当初、この党はリー=クアンユーのような英語教育集団とされる華人と、共産党系の華人のグループが反英という点で協同して結党し、31歳のリーは書記長となり、彼自身も55年の選挙で当選して議員となった。
自治州首相となる 1957年8月、マラヤ連邦が独立、翌58年にシンガポールはイギリス連邦内の自治州となり、完全自治権が付与された。そのために1959年5月、総選挙が実施されると人民行動党は広い支持を受けて第一党となり、リー=クアンユーは35歳の若さで首相に就任した。こうして人民行動党は結成からわずか5年でシンガポールの権力を握ることとなり、次の段階として完全な独立を目指すこととなった。

マレーシアに加わり独立

 この頃になるとマラヤ連邦の指導者ラーマン首相はマレー半島の共産化を阻止するため、シンガポールを合併して取り込むことを意図するようになり、リーもそれに賛成して、人民行動党内の共産主義者グループの排除を始めた。共産系は反共を掲げるマラヤ連邦との統合に反対し、ここに党内抗争が激化する背景があった。両派の対立は1961年、共産系が脱党して社会主義戦線を結成したことで決定的になった。
 共産勢力と決別したリー=クアンユーは、シンガポールのマラヤ連邦との併合を押し進め、62年9月の国民投票で合意を取りつけ、1963年9月16日、マラヤ連邦、ボルネオの二州(サラワクとサバ)とともにマレーシアに加わり、その一州となった。 こうしてマレーシアの一州としてシンガポールの独立は達成された。

マレーシアからの分離

 しかし、マレーシアの中でのシンガポールは、併合による利点よりも、その経済力が未開発のマレーシアに流れていくという不満がまもなく現れ、またマレー人意識を強めようとする連邦政府に対してシンガポールの華人の中に差別されている感情が生まれ、両者の食い違いは次第に大きくなっていった。リー=クアンユーは併合に反対した共産系や労働組合を叩くことに力を注いでいたが、マレーシアのラーマン首相がシンガポール分離を決意したことを受けてやむなく合意し、1965年8月9日、自ら独立宣言を読み上げてマレーシアからの分離に踏み切った。記者会見に臨んだリーは分離の決断は「私には苦悶の瞬間だ」と涙で何度も中断させた。

開発独裁政策の推進

 シンガポールは、1965年のマレーシアからの分離独立によって、それ以前と以後とでまったく異なる産業構造をもつようになった。以前のシンガポールは中継貿易によってもたらされた富に依存した、貿易・海運・金融・商業・サービス業によって支えられていた。今もシンガポールや香港を中継貿易と説明するのは誤っており、いずれも70年代以降に工業化に成功し、自国の工業製品を輸出し、原料・食糧を輸入するという産業構造となっている。
 それを安定し独裁政権を維持するリー=クアンユーが指導する人民行動党が、国家機構の官僚と一体となってすすめたのが、シンガポールの開発独裁である。シンガポールの場合は議会制度が定着し人民行動党以外の政党も認められているが、巧妙な選挙管理と反政府的結社や言論を認めない党勢によって、事実上の一党独裁が続いている。
 リー=クアンユーが人民行動党による一党支配を強烈にすすめた背景には、シンガポールが華人(中国系)が多数を占めながら、少数派のマレー人・インド人を抱えた多民族国家でありことがまず第一に上げられる。しかし彼は華人のナショナリズムではなく、シンガポールの単一性を英語を公用語とすることにおいた。また資源の全くない国として、従来の中継貿易ではなく、大胆な工業化による製品輸出国家へと産業構造を転換させ、それを厳重な国家管理による成長政策でやりとげた。同時に他からの批判を許さないためにも、開発と成長は常に実現しなければならず、リーはその課題をイデオロギーにこだわらず、合理的・効率的、プラグマティックにすすめた。その手足となったのがエリート集団の人民進歩党であった。

参考 「アジア四小龍」の一つとしてのシンガポール

 エズラ=ヴォーゲルは、1970年代から急速に工業化を遂げた韓国、台湾、香港にシンガポールを加え、「アジア四小龍」と名付けた。かれはその中で、リー=クアンユーによるシンガポールの経済成長の特徴を、次のように説明している。
  • リー=クァンユーのカリスマ的指導が成功した。建国当初の困難を克服しテクノクラートとしても優れ、堅実な発展の目指す包括的ビジョンを持っていた。
  • イギリス留学経験を持ち、英語でのディベートに慣れたゴー=ケンスイら経済官僚が中枢となった経済開発庁が主導権を握った。
  • 資源のない小国であるため、多国籍企業の投資に誘因を作り、海外市場への接近を可能にした。その選別には注意を払い、先端技術を持ち安定した投資先を認可し、ジュロンに最初の大工業団地を建設した。
  • ベンチャー企業に対しても官僚を経営に参加させた。エリート校ラッフルズ校出身者が政府官僚となり、商業的鋭敏さと効率性で企業を指導した。
  • 労働者の賃金と雇用者から半分ずつ負担させ、中央積立基金とし、それによって工業発展への資本を創出した。労働者は住宅購入や医療、大食などの福祉支出が必要なときに資金をそこから引き出すことができた。その結果、持ち家比率はアジアで最も高くなった。
(引用)手短にいって、シンガポールの工業化は、カリスマ的な国民的指導者、能力主義の政治家、公開討論にたけた官僚、政府官僚である資本主義企業家、健全な財政基盤の上にたてられた十分な福祉計画、外国人経営者たちなどの「混合」によってつくりだされたということができる。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.115>
 現在のアジア四小龍は、国際的な金融センターとして特化した香港とシンガポールと、電気器機・IT技術に特化した台湾と韓国、というような違いがはっきりしてきている。 → シンガポール(4) 経済成長

その生涯の四つの敵

(引用)この間、リ-・クアンユーは四つの敵と戦ってきた。第一には植民地政府。第二は共産系グループ、第三はマレーシア中央政府、そして第四が自立的な国家形成の戦いである。リーは、第一の植民地政府を倒すために、第二の共産系グループと組み、それに成功すると今度は、第三のマレーシア中央政府の力を一部借りて、共産系グループを倒す。第三の敵であるマレーシア中央政府には敗れたが、皮肉にも結果的にそれが、第四の戦いの成功要因になった。このうちでリーが最もエネルギーを注いだ戦いが、自立的な国家形成の戦いであるが、ある意味では、この戦いはまだ終わってはいない。
 ともかくもリーは、絶えざる戦いを通じて国家を作り上げたが、彼の望みは、多くの国の政治指導者のように、最高権力者となって権力の座を享受したり、私的蓄財を計ることはできなかった。この点で彼は、潔癖とも無頓着ともいえる。<岩崎育夫『リー・クアンユー 西洋とアジアのはざまで』現代アジアの肖像15 1996 岩波書店 p.218>

首相退陣後のリー=クアンユー

 リー=クアンユーは1959年から31年間も続いたシンガポール首相の座を、1990年末に降り、同じ人民行動党のゴ-=チョクトンに譲った。リーは首相の座を退いたものの、まだ67歳であり「上級相」というポストについて内閣を支え、いわば「ゴー率いるリー体制」と得るもので、実質的にはリー=クアンユー政権が続いた。60年代から80年でまでの世界は東西冷戦の時代であり、その中でリー=クアンユーの反共を柱とした強権的な開発主義も可能であった。しかし、ソ連・東欧の社会主義国家が崩壊して、自由や民主主義とともにグローバルな市場主義が世界を覆うようになると、いわばアジア的な開発独裁は国際社会から非民主的な体制として批判されるようになった。<岩崎育夫『物語シンガポールの歴史』2013 中公新書 p.156>
 事実、80年代末から、フィリピン、台湾、韓国、ビルマ、タイなどで民主化運動が起こり、中でも89年の中国の天安門事件(第2次)はアジア諸国にも衝撃を与えた。ゴー首相も当初は自由主義的改革をめざし、国民もそれに期待したが、リーはそれを許さず、1990年代も人民行動党に対する批判勢力は法律で抑えられ、言論も制約される状態が続いた。リーと人民行動党を支える保守的な中間層も力を維持し、またリーは新たな経済政策として、鄧小平の改革開放路線と手を組んだ中国への投資、さらにインドへの投資など外国への資本投資路線を選び、成功させた。

Episode 首相の子は首相、ミニ・リー・クアンユー

 2004年、リー=クアンユーの長男リー=シェンロンが首相となり、リー自身は「顧問相」として閣内に残り、シェンロンの兄弟や夫人も政府系企業の要職に就き、シンガポールは「リー王朝」となったと批判する声も起こった。それに対して人民行動党は、シンガポールは能力の秀でたものが国家運営を担うのであり、リーの息子が首相となったのは血縁ではなく能力のゆえであると反論、世論も納得とあきらめの混じり合った感情で受け止めた。リー「新」首相は就任にあたり、今までと違う国民に開かれた政治を目指し、成長一本槍の開発主義から「ゆとり」を重視する路線に転換すると表明した。しかし、リー首相のソフト路線の演出にもかかわらず、多くの国民は、超エリートの首相のは、父親と同じ権威主義的統治スタイルに依拠する「ミニ・リー・クアンユー」というイメージで受け止めた。

引退と死去

 2011年の総選挙ではそれまで実質的に議席を独占していた人民行動党に対して、初めて野党の労働者党が6議席(87議席中)を獲得した。人民行動党の得票率も過去最低となった。これは衝撃を以て迎えられ、人民行動党はリー時代のままでは国民の支持を維持できないのではないか、との危機感を持った。それをうけてリー=クアンユーは、閣僚ポストだけでなく、政府海外投資公社会長などの一切の政府機関ポストから退くことを表明した。31年にわたって首相をつとめ、退任後も20年にわたって国家運営に関わってきたリーは88歳でようやく引退した。
 2015年3月23日、リー=クアンユーは91歳で死去した。地元の新聞社は、公用語の英語、中国語、マレー語、タミル語でそれぞれ「建国の父」の功績を振り返る特集号を発行。駅の売店などで新聞を買い求める市民の列ができた。海外では、リー=クアンユーは先祖を中国出身の華人であることから、中国と台湾双方でその功績を大きく評価し、「仲介役」を惜しむ声が多かった。
 中国はシンガポールを一党支配下での社会制度改革のモデルの一つとしてきた。死去を受けて習近平国家主席以下の首脳は弔電を打ち、二国関係を重視していることを示した。リー=クアンユーは2007年の訪中で党最高指導部入り間もない習近平と会談し、帰国後、その人物を高く評価する談話を発表している。一方、彼は共産主義には反対し、もともとは蔣経国ら台湾首脳とも関係が深く、90年代に中国との交流を深めてからも台湾との関係を維持、93年には中国と台湾の民間窓口機関の初会合をシンガポールで開催するなど、中台関係の促進に尽力した。中国、台湾の双方から「両岸の平和的対話と安定した交流の道を開いた」と評価されている。<朝日新聞 2015年3月24日朝刊記事により構成>
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書籍案内

岩崎育夫
『リー・クアンユー
西洋とアジアのはざまで』
現代アジアの肖像15
1996 岩波書店

岩崎育夫
『物語シンガポールの歴史』
2013 中公新書

エズラ・フォーゲル
渡辺利夫訳
『アジア四小龍―いかにして今日を築いたか 』
1993 中公新書