スマトラ島
インドネシアの西部、マレー半島に添って横たわる大きな島で日本の1.3倍。7世紀にはシュリーヴィジャヤ王国の下で仏教文化が栄えた。13世紀以降、北西部にはイスラーム国家も成立。17世紀以降はオランダの植民地支配を受ける。太平洋戦争下では1942年から日本軍が軍政を行った。戦後、インドネシア共和国の一部となった。
スマトラ島 Google による
・東南アジアの諸島部(島嶼部)にある島。インドネシアでボルネオ島に次いで大きく、世界で6番目に大きな島。面積約47万3506平方kmである。メルカトル図法の世界地図では日本の方が広く感じるが、実際にはスマトラ島の方が日本の1.3倍であることに注意しなければならない。北西から南東に長く横たわり、ほぼ中央を赤道が横切る。
マレー半島と同じ民族
マラッカ海峡を挟んでマレー半島があり、スマトラ島の東には大スンダ列島といわれるジャワ島が連なる。西側海岸沿いに山脈が連なり、東側に平地が広がるが、多くは密林や沼地であり、生産性は低かった。原住民はマレー半島と同じくマレー人で、7世紀には南西部のパレンバンを中心にしたシュリーヴィジャヤ王国が港市国家として栄え、仏教が信仰されて唐僧義浄がインドに往来する途次に滞在したことが有名である。10~14世紀には三仏斉が宋など中国王朝に朝貢したことが史料に現れるが、これもスマトラ島・マレー半島の海岸部にあった港市国家群であったと思われる。イスラーム化
その後、ジャワ島に起こったシャイレーンドラ朝の支配を受け、13世紀頃からは東南アジアのイスラーム化が始まり、まず島の北部のサムドラ=パサイ王国が最も早くイスラーム化した。15世紀には島の一部はマレー半島のイスラーム教国マラッカ王国の支配を受けた。その後、西北部のアチェ王国や、中部のミナンカバウなどイスラームの地方政権が生まれた。ヨーロッパ勢力の進出
16世紀のポルトガルを初めとするヨーロッパ諸国の進出が始まると、スマトラ島には初めオランダが進出、ついでイギリスも進出した。特にオランダはオランダ東インド会社によってジャワ島を中心に香辛料貿易の独占をねらってスマトラ島にも進出した。19世紀にはいると、マラッカ海峡に面しているスマトラ島は対岸のマレー半島とともに、イギリスとオランダの激しい競合の場となった。最終的には、1824年のイギリス=オランダ協定でスマトラ島はオランダ、マレー半島はイギリスの植民地とされた。オランダ領となる
オランダはオランダ領東インドの一部として植民地支配を続けたが、イスラーム教徒を主力とした反オランダ闘争が相次いだ。1821年ごろにはイスラーム改革派が蜂起してパドリ戦争を起こした。島のインド洋側、パダンを中心とした反乱は1837年にオランダ軍によって包囲され、食糧をたたれたために降伏した。さらに1873年には、島の北西部のアチェ王国がオランダに対して抵抗してアチェ戦争を開始し、それはほぼ1904年まで続いた。日本軍の侵攻と軍政
1942年1月10日、日本軍のオランダ領東インドへの侵攻が開始され、2月14日には落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下、一気に占領した。パレンバンは油田地帯の中心にあり、東南アジアの資源獲得を目指す日本軍の最重要攻撃目標の一つだった。前年の12月8日のハワイ真珠湾攻撃とマレー半島作戦に次ぐ勝利として喧伝され、「空の神兵」ともてはやされた。スマトラ島の油田地帯を占領したことは日本の戦略上、大きな勝利とみなされたのだった。日本軍と行動を共にする石油技術者はただちに破壊された油田の復興作業に着手した。日本軍は東南アジア占領地域をいくつかの軍政部にわけ大東亜共栄圏の一部として統治した。同年2月23日、マラヤ軍政部が置かれ、スマトラはその管轄下に入った。同時に軍票(紙幣)の流通が宣言されたが、マラヤ(マレー半島)はイギリス植民地としてドル(海峡ドル)、スマトラはオランダ植民地のギルダーという異なる通貨を使用していたので、混乱が生じたため、43年4月にはマラヤ軍政部から分離してスマトラ軍政部とした。<小林英夫『日本軍政下のアジア』1993 岩波新書 p.85,86,96,111>
日本軍政下においては、日本向けの石油資源の開発と食糧(米)・衣料(綿花・黄麻)の増産が求められたため、かつて東南アジアで世界市場むけに生産されていた、ゴム・砂糖・コーヒー・茶といったプランテーションは次々に栽培転換させられていった。スマトラでは、ゴムやタバコのプランテーションが陸稲やトウモロコシ畑に栽培転換させられ、その他に衣料原料として綿作が奨励され、飛行機の潤滑油に使われるヒマシ油を採るためのヒマの栽培が行われた。しかし、肥料や農機具の不足で、需要を満たすような生産は出来なかった。<小林英夫『前掲書』p.129-130>
インドネシアとアチェ紛争
第二次世界大戦後、インドネシアが独立し、スマトラ島もその一部となるが、その北西部のアチェは分離独立を主張して武装蜂起し、特にスハルト政権下の1976年12月にハッサン・ディ・ティロを指導者とする自由アチェ運動(GAM)が組織され、アチェ紛争(アチェ独立運動)が深刻化した。これは、アチェ地方のイスラーム教勢力の文化的な独立心だけでなく、石油や天然ガス資源をインドネシア政府が独占したことに対する反発でもあった。スマトラ地震 アチェ紛争が長期化する中、2004年12月26日に北部スマトラで大地震が発生、津波によってアチェ地方で大きな被害があったことを契機に、闘争よりも復興を、という気運が強まって2005年8月15日に和平が実現した。
こうしてアチェ紛争が終息したが、広大なスマトラ島は、インドネシア共和国にとってゴム・石油・天然ガスの産地としてますます重要になっている。