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ジャワ島

インドネシア中心部の島。仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教文化が交替しつつ独自の文化を発展させた。16世紀末からオランダが進出し、その植民地支配を受ける。第二次大戦後にインドネシア独立の中心地となる。

ジャワ島

ジャワ島 Yahoo Map をもとに作図



 ジャワ島は東南アジア島嶼部を国土とする現在のインドネシアの中心となる島で、大きさは日本の本州の半分強。面積ではインドネシア全体の7%にすぎないが、人口では60%を超える約1億人が集中している。ジャワ原人の化石が見つかったトリニールもジャワ島にある。現在も人口密集地帯である。ジャワ島はおよそ三分の一ずつ、西部・中部・東部に分けられ、それぞれ違った歩みをしているので注意しなければならない。住民も西部はスンダ人、中部・東部をジャワ人として区別する(民族系統はいずれもマレー人)。

ジャワ島(1) シャイレーンドラ朝・古マタラム朝

インドのグプタ文化の影響を受け、仏教・ヒンドゥー文化が伝わる。8世紀から、シャイレーンドラ、マタラム、11世紀にクディリ、13世紀にシンガサリの諸王朝が興亡した。

仏教文化とヒンドゥー文化

 5世紀頃からインド商人の渡来によってインドのグプタ文化が伝えられ、仏教・ヒンドゥー教が信仰されるようになった。またスマトラ島・マレー半島のシュリーヴィジャヤ王国とも関係があった。
 8世紀の中部ジャワにシャイレーンドラマタラム王国(古マタラム王国)という二つの国生まれた。シャイレーンドラでは大乗仏教が信仰され、仏教寺院としてボロブドゥール寺院が建設され、マタラム王国ではヒンドゥー教(シヴァ神に対する信仰)が信仰されていてプランバナンというヒンドゥー寺院が建設された。同じジャワ島中部のほぼお同じ8世紀に、仏教寺院とヒンドゥー寺院が建造されていることは注目すべきことである。
 シャイレーンドラ朝の方は、一時はスマトラ島のシュリーヴィジャヤと婚姻関係を結び、インドシナ半島のベトナムやカンボジアにも進出した記録があるが、はっきりしたことはわからない。10世紀ごろ、シャイレーンドラもマタラムも衰え、ジャワ島中部の文化は忘れ去られてしまった。原因はよくわかっていないが、大規模な噴火などの自然災害ではないか、という説もある。
 その後、ジャワ島東部には11世紀にクディリ王国が起こった。1222年にはシンガサリ王国が興ったが、元軍の侵攻を受けることとなった。

ジャワ島(2) 元の来寇とマジャパヒト王国

元の艦隊の来航

 1292年、元のフビライ遠征活動の一環として大艦隊を派遣して来たときはシンガサリ王国は抵抗した。しかし内紛が生じ、国王が殺害されるという事態となった。そのとき、元と結んだ王家の一族がマジャパヒト王国を立て、権力を握るという王朝交替が起こった。マジャパヒト王国は巧みな交渉で元軍を撤退させ、独立は維持した。
フビライの意図 フビライの南方遠征は軍事的目的より、通商圏の拡大の意図が強く、しかもその実行にはイスラーム商人勢力が強く関わっていた。
(引用)その実態は、「遠征軍」とは名ばかりで、ほとんどムスリム海洋商人の主導による貿易船団であった。国家と特権を持つ海上企業とがタイ・アップした貿易振興事業といってもいい。中央にいて、南方の「出先」からの申請を認可したクビライとそのブレインたちは、そのつもりだったのだろう。ところが、ジャワ島についてみると、現地の紛争に出動を要請され、不用意に陸戦部隊が山ごえして国内戦争に介入してしまった。内戦に利用されたあげく、けっきょく撤退となった。クビライが怒ったのは当然である。敗戦に怒ったのではなく、沿岸部での通商活動という予定を逸脱して、無用の混乱を招いたことに怒ったのである。なお一万五千ほどの兵員をのせたこの船団でさえ、南シナ海からジャワ島を「航洋」した艦隊としては、史上おそらく最大であった。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.214>

マジャパヒト王国

 元の来寇を機会にジャワ島の東部、スラバヤの南東の現在のモジョケルトを都として成立したマジャパヒト王国は、14世紀にハヤム・ウルク王のもとで繁栄し、ジャワ(闍婆)国として中国の明王朝に朝貢した。ジャワ島とバリ島を中心に、現在のインドネシア共和国と同じ範囲を勢力圏とし、インドネシア共和国の歴史的な前身として位置づけられている。この時期にジャワ島の農業生産力が増大して人口が増えたことを背景に、ジャワ島のヒンドゥー教文化は全盛期を迎え、バティク(ジャワ更紗)、ワヤン=クリ(影絵劇)、ガムラン音楽などインドネシアの民族文化が完成したのがこの時期である。
 しかし、15世紀中頃から、イスラーム教勢力はジャワ島に及び、海岸にイスラーム商人が来航し、交易のための港市が造られるようになった。そのためマジャパヒト王国は次第に内陸においやられ、幾つかの地方政権に分裂し、16世紀にはほとんど衰退した。

ジャワ島(3) イスラーム化とオランダ東インド会社の進出

イスラーム化

 マジャパヒト王国はヒンドゥー教を奉じていたが、16世紀から西部にバンテン王国、東部にマタラム王国というイスラーム勢力が生まれ、東南アジアのイスラーム化が進んだ。この地がイスラーム化したのは、東南アジア最初のイスラーム国家で港市国家として栄えていたマラッカ王国が、1511年ポルトガルによって征服されたことが理由である。マラッカ海峡を通るとポルトガルの関税が課せられることになったムスリム商人は、それを避けてスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通ろうとするようになり、スンダ海峡に面したジャワ島西部がまずイスラーム化してバンテン王国が成立した。ついでジャワ島西部ではヒンドゥー教国のマジャパヒト王国は衰えており、代わってイスラーム教国マタラム王国が起こった。

オランダ東インド会社

 1596年、オランダ艦隊がバンテンに来航してオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の進出が始まり、オランダ東インド会社の植民地経営の拠点として1619年バタヴィア(現在のジャカルタ)が建設された。その後オランダはモルッカ島の香辛料などを獲得してジャワ島をその集積地として中継貿易を展開、1623年にはアンボイナ事件でイギリスを排除することに成功したが、17世紀後半から18世紀にかけてイギリスが海洋帝国として隆盛期を迎えると次第に衰えていった。

オランダ東インド会社の解散

 オランダは次第に貿易から領土支配へとその関心を変化させていった。香料などの奢侈品の交易から、コーヒーサトウキビなどのプランテーション経営に方針を切り替え、ジャワ島の領土化をはかり、バンテン王国、マタラム王国を事実上の保護国として、オランダ領東インドを拡大した。フランス革命の余波でネーデルラント連邦共和国が滅亡したため、1799年にオランダ東インド会社も解散した。


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ジャワ島(4) オランダ統治と民族運動

イギリスの一時占領とオランダの直接統治

 さらに本国がナポレオンに占領されると、フランスと戦っていたイギリスが1811年にジャワ島を攻撃し占領した。イギリス東インド会社はラッフルズを派遣してジャワ島植民地化を進めたが、ナポレオンの敗北後にイギリス本国はフランスとの緩衝国家としてオランダ立憲王国(連合王国)の独立を認めるとともにジャワ島の返還を決定したため、イギリスの支配は短期間で終わり、それ以後はオランダがオランダ領東インドとして直接支配をすることとなった。その後、1824年のイギリス=オランダ協定でイギリスはマレー半島、オランダは現在のインドネシア島嶼部を領有することが確定した。

反オランダ闘争と強制栽培制度

 1825年~30年にはディポネゴロを中心とした反オランダ蜂起であるジャワ戦争が起こったが、それを鎮圧した後、オランダの総督ファン=デン=ボスは強制栽培制度によるコーヒーサトウキビ、藍の生産を強制した。ジャワ島は耕地がコーヒー、サトウキビ、藍栽培用の大農園(プランテーション)に切り替えられたため、米不足となって飢饉が発生した。

インドネシアの独立運動

 20世紀に入り、インドネシア民族運動が始まり、ジャワ島もその中心地として、カルティニを先駆者として、サミンの民が生まれ、さらに1908年5月20日にブディ=ウトモが結成されて本格化した。1911年には、ジャワの古都スラカルタ(ソロ)で特産のジャワ更紗(バティック)業者が、同業種に侵出してきた中国人(華僑)に対抗して互助組織としてサレカット=イスラム(イスラーム同盟)を設立(正式には1912年9月10日)した。その活動は次第にムスリムの地位向上などの要求を掲げるようになり、地域を越えた民族運動に成長していった。
 第一次世界大戦後には、世界的な動向の中で、1920年インドネシア共産党の結成、1927年スカルノらによるインドネシア国民党など、明確なインドネシアの民族意識を持った自由と独立を目指す運動が起こり、特にジャワ島のバタヴィア(後のジャカルタ)、バンドン、ジョクジャカルタ、スラバヤなどの都市が民族運動の中心となっていった。オランダ植民地政府はこれらの運動を厳しく取り締まり、スカルノなどもたびたび投獄、流刑になった。

日本による軍政

 太平洋戦争が始まると、日本軍は3月1日にジャワ島に上陸、5日に首都バタヴィアを占領し、9日にはオランダ軍を降伏させた。日本の軍政はインドネシアを三分割し、ジャワ島には陸軍第16軍が進駐し、軍政を行った。ジャワ島を中心とした日本の軍政は、石油・ゴムなどの資源の確保とともに、島民に課税し、労務者として徴発するなど、苛酷な支配を行った。スカルノなどの民族指導者で日本軍によって解放され、独立を期待して日本軍に協力するものも多かった。
 1943年になると日本の東条内閣は大東亜共栄圏の構想に基づき、フィリピン、ビルマなどの独立を認め、大東亜会議を開催したが、インドネシアに対しては独立を認めず、その資源を直接支配する体制を続けた。


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ジャワ島(5) インドネシア独立の中核に

インドネシアの独立

 日本の敗北が1945年8月15日に表明されると、ただちにスカルノらによってインドネシア共和国の独立が宣言されたが、オランダは植民地支配を復活させ用としたので、インドネシア独立戦争が戦われることとなった。オランダは当初、インドネシア共和国をジャワ島を中心とした地域だけに限定し、外島にいくつもの共和国を作り、それらとオランダ本国から構成されるインドネシア連邦をつくることで実質的支配を継続しようとしたが、インドネシアのオランダ排除と統一の願いは強く、結局、1950年に単一のインドネシア共和国が成立し、ジャワ島のバタヴィアが首都ジャカルタとして政治経済の中心地となった。

ジャワ島の人口集中

1955年4月にはジャワ島のバンドンで、第1回のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)が開催され、東西冷戦の中での第三世界の結束の中心地となった。
 ジャワ島のジャカルタが一貫してインドネシアにおける先進都市、政治都市、経済の中心都市として栄え、スカルノ時代が1965年の九・三〇事件によって権力を奪ったスハルト時代に交替してからも状況は変わらなかった。そのため、ジャワ島には人口の集中が急速にすすみ、人口過密とその他の島々(外島という)の経済格差がの拡大などが問題とされるようになり、ジョコ=ウィドド大統領は2024年までに首都をジャワ島のジャカルタから東カリマンタンへ遷都することを掲げて大統領選挙で当選した。

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