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劉永福

客家出身で、太平天国に加わった後、ベトナムに行き、黒旗軍を組織して清仏戦争でフランス軍に抵抗した。清が敗れてからは台湾に渡り、日清戦争では日本軍とも戦った。

 劉永福は、中国南部の広東省欽州(現在は広西省に属す)の客家の出身で、太平天国に呼応して始まった秘密結社天地会の蜂起に参加して、清朝軍と戦った。太平天国の天京が陥落してから、1865年にベトナムに逃れ、中国との国境付近で開墾に当たりながら独立した勢力を築き、黒旗軍を組織した。

フランスのインドシナ出兵と戦う

 そのころ、フランスのインドシナ出兵(フランス=ベトナム戦争、仏越戦争)が始まり、ベトナムに対するフランスの侵攻が激しくなった。1873年には劉永福と黒旗軍はベトナムの阮朝の要請を受けてハノイに赴き、フランス軍と戦った。このとき、フランス軍の高級将校ガルニエを戦死させるという功績を挙げ、劉永福はベトナム王より「三宣副提督」に任じられた。1883年5月、劉永福は黒旗軍を指揮して、ハノイの西郊の紙橋(シキョウ)で再びフランス軍と戦い、それを撃破した。フランス軍は200ばかりの戦死者を出し、最高指揮官リヴィエールも戦死した。この戦いはフランスを震撼させた。

清仏戦争でフランス軍を破る

 1884年清仏戦争の宣戦が布告されると、劉永福は清国政府の統制と指揮を受け入れ、ベトナム北部で清国軍と協力して戦い、しばしばその侵攻を阻止する勝利をあげた。しかし、清朝政府は翌85年6月に一方的に講和に踏み切り、ベトナム保護国化が確定し、劉永福もやむなく台湾に渡った(客家で台湾に移住する者が多かった)。

台湾で日本軍に抵抗

 1894年、日清戦争の結果、下関条約台湾が日本に割譲されることになると、請われて日本に対する抵抗運動の先頭に立つことになった。1895年5月に台湾民主国が樹立されると、台湾巡撫の唐景崧と並び、劉永福は大将軍に任じられた。6月4日に日本軍が上陸、11月に初代台湾総督の樺山資紀が平定を宣言するまでに1万4千人が殺害された。この間、劉永福は、台北が日本軍に降伏した後も南部に拠って抵抗を続けたが、戦況は次第に追い込まれ、10月19日、厦門に脱出した。
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