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ベトナム保護国化

1858~84年にフランスの侵略によってベトナムは段階的に保護国とされた。1885年、清仏間の天津条約で確定した。

 ベトナムは19世紀初めに阮朝によって初めて統一されたが、その時代は同時にヨーロッパ諸国のアジア植民地化が展開された時代だった。ベトナムには、阮朝の統一に関係したフランスが、他国に先駆けて侵出し、保護国化することによって実質的な植民地として支配するようになった。その植民地支配に対する民族的試練から近代ベトナムの歩みが開始された。
 1858年ナポレオン3世によるインドシナ出兵に始まるフランスのベトナム侵略は、1862年サイゴン条約によってコーチシナ(ベトナム南部)を植民地直轄領とし、1883年、84年の2次にわたるユエ条約でアンナン(ベトナム中部)とトンキン(ベトナム北部)の保護国へと進んだ。それに抗議した清朝を1884年清仏戦争で破り、1885年6月、清はフランスとの天津条約でベトナムへの宗主権を放棄し、ベトナムの保護国化は確定した。なお、厳密にはベトナム南部はフランスの直轄領であるので、保護国となったのはアンナンとトンキンの阮朝(形式的には1945年まで続く)のことである。

サイゴン条約でコーチシナ割譲

 フランスは1858年にインドシナ出兵を開始、ベトナムの抵抗を排除しながらベトナム南部を占領して、1862年のサイゴン条約でその一部(コーチシナ東部三省)を割譲させた。しかしコーチシナ東部三省でベトナム民衆の激しい反抗に直面し、そのゲリラ活動の拠点となっているコーチシナ西部の制圧に乗りだし、翌63年にカンボジアを保護国化して東西両方面から圧力を加え、1867年に全面的な軍事行動を行い、抵抗を排除してコーチシナ(ベトナム南部)全域を支配することをフエの阮朝政府に通告した。この一連の戦闘は、教科書では「フランスのインドシナ出兵」といわれるが、実態はフランス=ベトナム戦争(仏越戦争)と捉えるべき歴史的事項である。

フランスの北部侵出と黒旗軍の戦い

 1870年にナポレオン3世が没落し、次いでフランスは第三共和政の時代となったが、国内での共和政の進展に反して、植民地では次第に帝国主義的な拡大路線に転換していった。ベトナム南部(コーチシナ)を獲得したフランスは、メコン川探検隊を組織してメコン川を遡り、雲南方面との通商ルートを探索したが失敗し、ベトナム北部の紅河流域のルートを探ることに転じた。フエの阮朝政府はそれを認めず、1873年、探検を強行しようとするフランスとの間で衝突し、それに乗じてフランス軍はハノイを占領した。ところがその頃、中国で太平天国の乱(1851~64年)の残党の一部、劉永福が率いる黒旗軍がベトナムに入り、ベトナムの対仏戦争に加わって大きな戦力となった。黒旗軍はハノイを急襲してフランス人指揮官を戦死させた。1874年3月15日に講和条約を締結したが、そこではベトナム南部のフランス主権を認め、ハイフォン、ハノイの開港、紅河水路の開放などとともにフランス人の治外法権を認めた(第2次サイゴン条約)。

フエ条約とアンナン・トンキンの保護国化

 フランスのベトナム北部への侵出に対して、ベトナムの宗主国である清が反発し、1882年にベトナムに出兵、フランスも増派して対立は清国対フランスの様相となった。その間、フランス軍指揮官が再び黒旗軍との戦闘で戦死したことでフランス国内世論も強硬論に傾き(第三共和政のもとで、ほとんど国内ではインドシナ問題は関心がなかった)、ベトナムの都フエを攻撃した。ベトナムはここでも譲歩して、1883年にアンナン(ベトナム中部)・トンキン(ベトナム北部)を実質的に保護国とすることを認める仮条約を締結した(1883年8月25日条約=第1次フエ条約)。それを認めない清朝政府は黒旗軍をベトナム駐留の正規軍と認めてそれを支援した。しかしベトナム阮朝のフエ宮廷は和平派と抗戦派に分裂し、皇帝が毒殺されるという事件があいつぎで混乱していた。1884年6月には再び条約が締結され、「安南国はフランスの保護国であることを承認」し、「フランスは一切の対外関係において安南国を代表する」など、保護の内容が規定され、ベトナムは完全に保護国となった(1884年6月6日条約=第2次フエ条約)。安南国とは、阮朝が越南国という国号を嫌って自称していた国名。

清仏戦争

 フランスのベトナム保護国化にたいして清朝政府の李鴻章は直ちに抗議し、さらに西太后の厳命によって1884年6月、清仏戦争に突入した。しかし、同年12月、朝鮮で甲申政変が起きたために清は出兵し、日本との開戦の危機が迫ったため、李鴻章はベトナムでのフランスとの戦争を終結させる方針に転じ、現地軍の反対を押し切って講和に踏み切った。結局、翌1885年6月9日、天津条約を締結して、アンナン・トンキンにおけるフランスの保護権を承認し、ここに清朝のベトナムに対する宗主権は放棄され、ベトナムのフランス保護国化は確定した。
 フランスはその後、ベトナムに加えて、カンボジアラオスから構成される、1887年に「フランス領インドシナ連邦」を成立させた。さらに1899年ラオスをフランス領インドシナ連邦に編入し、フランスによるインドシナ半島植民地支配を完成する。
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