台湾民主国
1895年、日清戦争による日本の台湾併合に対抗して独立宣言を行った国。日本軍に敗れ同年中に消滅した。
台湾の歴史の中で注目すべきはこの台湾民主国の存在である。日本の教科書で触れられることは少ないが、日本の台湾併合に反対する現地台湾で1895年(明治28)年5月23日に、独立政権である台湾民主国が建国されていたことに留意しておこう。この国はわずか148日間しか存続できなかったが、台湾最初の独立国家であり、さらに辛亥革命での中華民国の成立(1912年)に先立つ、アジア最初の共和政国家であった。しかし、日清戦争と日本軍の台湾侵攻によって短期間で消滅せざるを得なかった理由は、その内部に脆弱なものがあったことと国際的な条件がなかったためであった。 → 台湾の日本領化
台湾民主国の陣容は、総統に唐景崧(台湾省巡撫)、副総統に邱逢甲などで、南部の守備は客家出身で台湾に移住していた、かつて黒旗軍を率い、ベトナムでフランス軍を破ったことで知られる劉永福将軍があたることとなった。その独立宣言には、「わが台湾同胞は誓って倭に屈せず、戦って死を選ぶ・・・決議を経、台湾は自立して民主国を樹立す」とあり、藍色の地に虎を描いた国旗、「民主国之寶印」を刻んだ国璽、「永清」の年号などを決めた。
台湾民主国の切手とスタンプ
伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』 p.75
台湾民主国は拙速であったことは確かであるが独立の発想は唐突なものではなく、当時の情勢下では当然の選択でもあった。しかし、結局日本軍の侵攻によって消滅してしまったのは、国際的な環境が好転しなかったことがある。まず期待していたフランスの支援が得られなかったこと、その他の国際世論も関心は三国干渉での遼東半島還付問題に移り、台湾民主国の諸外国の承認がないまま、消滅してしまった。しかし何よりも大きな原因は台湾民主国の指導層が清朝の官吏だったものが多く、台湾のために戦う自覚がなかったことである。また、台湾人の資産家や外国人商人、宣教師たちも台湾民主国が日本の侵略を阻止できないと見て、財産や既得権を守るために積極的に日本軍に協力したこともあげられる。彼らは日本軍の進撃の道案内を努め、日本統治時代に高い地位を与えられた。<以上 伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書 による>
下関条約
日本は日清戦争の戦争目的の一つとして台湾の併合を意図していた。それに対してはイギリス・フランスが反対していたので、下関で講和会議が開始されていたにもかかわらず、1895年3月、日本軍は台湾と大陸の間にある澎湖諸島を占領して既成事実をつくった。4月17日に講和条約下関条約が締結され、台湾・澎湖諸島は日本に割譲されることが決まったが、そのことは現地の台湾には一切知らされていなかった。台湾民主国の独立宣言
当時台湾は、台湾省として清国が統治し、巡撫以下の官吏が清から派遣され、大陸からの移住者も増えていたが、その産業育成策もあって、台湾人の社会も一定の成長が見られていた。台湾の官民は、自分たちが知らないところで日本への割譲が決められたことに憤激し、悲嘆にくれながら、対抗の手段を考えた。そこで急浮上したのが、台湾を独立国とすれば清が台湾を譲渡することできなくなるとの考えであった。そこで急ごしらえではあったが、5月23日、「台湾民主国」の独立宣言を行った。台湾民主国の陣容は、総統に唐景崧(台湾省巡撫)、副総統に邱逢甲などで、南部の守備は客家出身で台湾に移住していた、かつて黒旗軍を率い、ベトナムでフランス軍を破ったことで知られる劉永福将軍があたることとなった。その独立宣言には、「わが台湾同胞は誓って倭に屈せず、戦って死を選ぶ・・・決議を経、台湾は自立して民主国を樹立す」とあり、藍色の地に虎を描いた国旗、「民主国之寶印」を刻んだ国璽、「永清」の年号などを決めた。
日本軍の侵攻
台湾の情勢悪化を懸念した日本は占領を急ぎ、6月、かつて台湾出兵を指揮した樺山資紀を台湾総督に任命した。台湾に向かった樺山資紀は、6月2日、清国側代表と台湾受け渡しの手続きをおこなったが、それは清国代表が台湾が不穏で上陸できないため、洋上で行わざるを得なかった。日本軍は台湾北部に上陸、艦砲射撃の支援を受けて基隆港を占領、敗走する本土から来ていた湘勇などの兵士は台湾人に対する略奪を行った。台北の商人や外国商人は日本軍の侵攻を歓迎し、その船頭を務めるものもあったという。それに対して総統の唐景崧は早くも6月4日に前線視察と称して台湾を離れ、親衛隊に守られドイツ汽船で厦門に逃げてしまった。このように台湾民主国の幹部で大陸人であった面々はいち早く大陸に逃れてしまい、6月17日には樺山資紀は台北で「始政式」の式典を行い統治を開始した。台湾南部での抵抗
たやすく北部を平定できたので、南部平定も容易であると思われたが、予想外の強い抵抗に遭い、8月には混成第4旅団を増派し、高島鞆之助中将を副総督、南進軍司令官に任命、さらに10月には乃木希典の率いる第二師団を増派、総計約5万(当時の日本陸軍の3分の1)と連合艦隊を動員しなければならなかった。当時台湾の人口は先住民45万、大陸からの移住民255万、計約300万といわれるが、そのうち南部の住民は移住民が多く、すでに何代もすぎて土着しており、日本の侵攻に対する抵抗も激しかった。彼らは女性も含めてゲリラ戦術で日本軍に抵抗した。台湾民主国の副総統兼民兵司令官となった劉永福は南部のゲリラ戦を指揮し続けたが、近代的な装備の日本軍に次第に圧迫され、劉永福自身もついに10月19日、イギリス汽船で厦門に脱出し、台湾民主国は指導者を失って消滅した。しかし、台湾民主国の消滅後のほうが台湾人と土着した漢人の抵抗が強くなり、台湾南部や山岳地帯を中心に、日本の植民地支配に対する反乱を継続していった。日本の総督府は彼らを「土匪」と称して弾圧に努めた。短命に終わった理由
台湾民主国の切手とスタンプ
伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』 p.75
Episode まぼろしの台湾民主国切手
総統の唐景崧、副総統の邱逢甲ら指導者のあいつぐ逃亡で、台湾民主国は土台から崩れようとしていたが、資金調達のために民主国の紙幣や、郵便切手は発行されていた。このころに発行された「台湾民主国士担帋(スタンプ)」の切手は、今日、収集家の間で高値を呼んでいる。<伊藤潔『同上書』 p.76>