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ジャーディン=マセソン商会

1832年、広州で設立されたイギリスの貿易商社。アヘン貿易などで大きな利益をあげた。

 中国では怡和洋行(いわようこう)という。1832年に広州(の近くのマカオ)で、スコットランド人のW.ジャーディンとJ.マセソンが設立したイギリスの貿易商社で、茶や生糸の買い付け、アヘンの密貿易などに従事し、いわゆる三角貿易で大きな利益を得た。1834年に東インド会社の中国貿易独占権廃止によって、民間の商社として急速に活動範囲を広げ、船舶を所有して運輸業を行い、建設や銀行業にも進出した。

香港と上海で開業

 アヘン戦争の最中に、当時ほぼ無人島だった香港に本店を移転し(香港で認可された最初の外国商社となった)、さらに上海にも支店を開いて大陸に進出(上海租界で最初に土地を取得し、建物を建てた。1920年に改築された同社ビルは現在も残っている)、清朝政府に対して借款を行うまでになった。その後、中華民国となってからも鉄道の敷設権や営業権を得て、深くその経済に関わった。中華人民共和国成立後は活動を香港だけに限定していたが、中国の改革開放以降は本土との取引を再開し、現在でも活発な貿易、金融活動、ホテル経営などを展開している。

Episode 医者からアヘン商人に

(引用)ジェームズ=マセソンとウィリアム=ジャーディンの2人は、1828年に提携し、もともと広東にあった中国最初の外国商社を買い取り、「ジャーディン・マセソン商会」を作った。中国語では「怡和洋行」という。扱う商品はほとんどがアヘンであった。ジャーディンはもと東インド会社の外科医だったが、アヘン貿易があまりに儲かるのに目をつけて、貿易商に転身した経歴を持つ曰く付きの人物だ。人の命を救うはずが医師が、人の命を縮める商売に鞍替えしたのである。まったく呆れた話である。<譚璐美『阿片の中国史』2005 新潮新書 p.83>

幕末日本でも活動

 ジャーディン=マセソン商会は横浜にも支店を出し(日本で活動した外国資本の最初。その商館は山下町の現在のシルクセンターのところにあって「英一番館」と言われていた)、幕末の日本でも活動した。1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。坂本竜馬もジャーディン=マセソン商会から支援を受けている。長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し、利益を上げている。19世紀から現代に至るイギリス商人の代表的な存在であり、大英帝国の典型的な「尖兵」的商社だったといえる。
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