東インド会社の中国貿易独占権廃止
自由貿易主義の高まりにより、イギリス東インド会社のインド貿易独占権廃止に続いて1833年に廃止された。
東インド会社の中国貿易の開始
イギリスでは1660年代から茶の飲用が宮廷で始まり、徐々に民間にも広がっていった。しかしこの段階では東インド会社は茶を直接中国から買い付けるのではなく、中国商人がジャンク船でもたらした茶をバタヴィアで買って本国に運ぶだけであった。国内での茶の需要が増大したため、東インド会社は直接中国との取引に乗り出し、1697年、厦門に2隻の商船を派遣して茶の輸入を開始した。1704年からは清朝の公認の貿易港である広州(広東)での貿易の権利を得、1717年からは広東で中国茶の定期的船積みを開始した。こうして供給ルートが確立したため、イギリス国内では茶が爆発的ブームとなった。イギリスの対中国貿易は従来の絹ではなく茶が主力となり、貿易額の80%をしめることとなった。また、茶の流行に伴って、喫茶用の陶磁器の需要も増大した。しかし、イギリスから輸出する毛織物は中国では売れなかったので、イギリスにとって著しい輸入超過となり、対価としての銀がどんどん中国に流入することとなった。東インド会社は中国の茶以外にも、アラビアのコーヒーの輸入を開始し、それとともに砂糖の需要が増えたので、西インド諸島での砂糖栽培を開始した。砂糖が大量にイギリスにもたらされると、茶の飲み方も緑茶ではなく、紅茶が主となった。いずれにせよ、東インド会社はこれらの貿易権を独占して利益を上げたため、株価も上昇したが、一方でその利益に預かろうという密貿易も盛んになり、次第に東インド会社の独占に反対し、自由貿易を求める声が強まっていった。
東インド会社のアヘン貿易の開始
対中国茶貿易の独占権を与えられていた東インド会社は、1773年にインドでのアヘン専売権、さらに1797年にはアヘン製造独占権を獲得し、主としてベンガル地方でアヘンを製造し、「会社アヘン」として売り出し、中国にも独占販売を行った。しかし利益の大きいアヘン貿易には私貿易商人ものりだし、1820年代から密貿易も増大した。彼らは東インド会社の特許延長に反対し、対中国貿易の自由化を要求した。東インド会社の貿易独占に対する反発
19世紀にはいると産業革命の進行によって台頭した産業資本家は、自由貿易主義を強く要求するようになり、1813年に東インド会社のインド貿易独占権は廃止され、インド貿易は自由化された。このときは東インド会社の茶の貿易権と中国との貿易権はそのまま残されていた。マンチェスターなどの綿織物製造業者やリヴァプールなどの貿易商は、東インド会社の中国貿易独占に反対し、1827年に中国貿易の開放を要求する誓願を下院に提出し、1829年4月にはマンチェスターの市役所に商工業者が集まって東インド会社の茶貿易の独占廃止、中国貿易の全面開放を要求する決議を出した。対中国貿易の自由化
すでに1825年6月に東インド会社重役会は、中国商人との契約は1834年に終了する短期契約のみとすることを指示していたので、その廃止は事実上決定的であったが、1833年8月28日、中国の茶貿易についての東インド会社の独占権は廃止を決定し、翌34年の契約終了をもって商業活動を停止した。これらは1820~30年代のイギリス本国における一連の自由主義的改革の一環として進められた。東インド会社の変質
1813年のインド貿易の独占廃止、1833年の中国での茶貿易の独占廃止の結果、東インド会社は商業活動全般を停止して、インド領土をイギリス国王に委譲し、東インド会社は特許会社としての性格から、いわばインドにおける植民地統治請負業者へと変質した。<以上、浅田實『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.158-164,205-206>アヘン貿易
対中国貿易が自由化された結果、イギリスの多くの商社や貿易商は、インド産のアヘンを中国に密輸出し、茶を輸入して利益を上げようという三角貿易を盛んに行うようになったが、清朝は依然として広州のみに貿易港を限定し、公行に取引を独占させていたので、イギリス側は密貿易が主になっていった。そのような情況を打破するため、1834年にネイピアを中国駐在貿易監督官として広州に派遣した。しかし清朝政府によって交渉を拒否され、次第に武力に訴えてでも自由貿易を実現させよ、という声も強くなった。それが1840年のアヘン戦争となって現実となる。一方、インドにおいては東インド会社は植民地統治業者として徴税権を認められたが、インド人の反発はますます強まり、1857年にインド大反乱(セポイの乱)が勃発する。結局は、その責任をとらされる形で、1858年にイギリス東インド会社解散させられることになる。