上海
アヘン戦争の講和条約である南京条約で1842年に新たに開港された港の一つ。イギリス、アメリカ、日本などの租界が置かれ、商業と貿易で発展、二〇世紀には中国最大の国際都市となった。五・三〇運動、上海クーデタ、第1次と第2次の上海事件など、中国近現代史の重要な舞台となった。
南京条約で開港
上海が貿易港として急速な発展をはじめるのは、アヘン戦争の敗戦後の1842年、南京条約によって開港された港の一つされてからであった。そのころの上海は、長江河口に近い一小都市で、上海県城があったところにすぎなかった。イギリスはその年のうちに上陸し上海県を占領した。租界の設置 1845年11月に上海土地章程が締結され、城内に隣接する周囲6キロほどの土地が、治外法権の認められる「租界」とされ、イギリス人が居住するようになった。この租界は、これ以降、中国官憲も立ち入ることが出来ない事実上のイギリス領として、その中国進出の重要な拠点となっていく。
1850年に太平天国の乱が勃発し、太平天国軍の南京進出に呼応して、1853年に上海でも小刀会という秘密結社が蜂起し、上海県を占領した。イギリス領事のオールコックは租界に外国人からなる自治政府を設け、行政機関として参事会を設け、関税を徴収し自治を行った。1860年には李秀成の率いる太平天国軍が江南地方に進出すると、その地の有力者はみな上海租界に逃げ込み、上海ではイギリス軍人ゴードンらが常勝軍を組織し、租界を拠点として太平天国軍と戦った。
Episode 高杉晋作の見た上海
太平天国軍が迫り、騒然としていた1862年の上海を目の当たりにしたのが、幕末の長州藩士で、後に誰よりも早く倒幕の兵を挙げた高杉晋作であった。高杉は幕府が貿易の実情の調査のために上海に派遣した千歳丸(せんざいまる)に長州藩から選ばれて(というより、危険人物だったので江戸から遠ざけられてというのがあたっているようだが)乗り組んでいた。薩摩藩の五代才助(後の友厚)も水夫として乗り組んでいた。高杉は上海に1862(文久2)年5月から約2ヶ月滞在し、鎖国中の日本人としては最も早く、太平天国の乱の最中の上海を見、租界のイギリス人やアメリカ人と接触した。1862年5月6日、上海港に着いた高杉晋作は、その第一印象を『航海日録』に記している。「上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり。」
5月21日の記事では「この日は終日閑座、そこでつらつら上海の情況を観るに、支那人はことごとく外国人の使役である。英・仏人が街を歩くと、清人はみな傍らに道を譲る。実に上海の地は支那に属すというものの、英仏の属領といってもいい。」と観察している。
また高杉の日記には、銃声・砲声が聞こえたことが何度か記され、5月10日の項には「黄昏、オランダ人が来て、長髪族が上海から三里の地に来ている。明朝は砲声が聞こえるだろう、という」とある。長髪族とは太平天国軍のことで、当時、上海西郊の虹橋付近まで迫っていた。しかし六月には天京が曽国藩の軍に攻められたため、天京を支援するため上海から引き上げている。
このように高杉晋作は、上海の半植民地化の実態と太平天国の戦いを目の当たりにして、7月5日に長崎に向かった。長州に帰った高杉は翌63年に奇兵隊を組織し、1864年末に馬関で倒幕の兵を挙げ、1867年4月14日に大政奉還を見ることなく、29歳で没した。<丸山昇『上海物語』2004 講談社学術文庫(初版は1987)p.44-48 / 他に奈良本達也『高杉晋作』1965 中公新書を参照>
五・三○事件、上海クーデタ、上海事変
太平天国の乱の後、上海の重要性は増し、中国最大の貿易港として発展、また辛亥革命の際には革命派の拠点の一つとなり、後には1921年に中国共産党結成大会も上海のフランス租界で開催されるなど、歴史の震源地の一つとなっていく。1925年には上海の在華紡工場でのストライキに端を発した大規模な反帝国主義運動である五・三○運動の舞台となった。上海を中心とした労働運動の昂揚は、国共合作の下で、中国共産党系の活動家に指導されていたため、民族資本と外国資本は警戒を強め、国民党右派の蔣介石を動かし、1927年の上海クーデタで、大規模な共産党排除、弾圧事件が起こった。
そのころ魯迅などの文学者が上海で活動し、新しい文学運動の拠点ともなったが、国民党政府からは激しい弾圧を受けた。また、中国最大の商業都市で、租界には外国人が居住するという国際都市であったので、ここで起きたことは全世界に知られるという特性があったあめ、国際的な紛争がしばしば起こった。満州事変の翌年の1932年1月には、日本軍が上海に戦火を拡大させ、第1次上海事変が起こっている。日本人僧侶が租界で殺害されたことを口実に、居留民保護を理由に陸軍が海兵隊を上陸させ、激しい戦闘となったが、おりからジュネーヴ軍縮会議が開催されて日本軍の行為が非難され、また中国の反日感情も強まったため、日本軍は撤退した。
1937年7月7日、北京郊外で日中両軍の軍事衝突、盧溝橋事件が起きると、同じように直ちに上海に飛び火した。海軍の陸戦隊員が射殺されたことから、1937年8月13日に日本軍が上海に上陸、第2次上海事変へと飛び火した。日本政府は盧溝橋事件で始まった日中衝突を北支事変と言っていたが、衝突が上海に広がったことによって支那事変と呼称を変えた。事変とは言うものの、それは実質的な日中戦争への拡大であった。
文化大革命と上海
1966年からほぼ10年間、中国全土を揺るがし、その後も深い爪痕を残しているプロレタリア文化大革命の震源地の一つは上海だった。1965年11月10日、上海の新聞『文匯報』で、姚文元は歴史劇『海瑞免官』は暗に大躍進運動を批判した彭徳懐を弁護し、毛沢東を批判してると論じた。これが毛沢東が文化大革命を号令する直接のきっかけとなったのだが、姚文元にその論文を書かせたのは毛夫人の江青だった。江青は1930年代に上海で活躍していた女優で、1937年に延安に行き毛と結婚、建国後は映画や演劇での中国共産党の理念を徹底する仕事に就いていた。大躍進政策の失敗で落ちかけた毛沢東は、権力を回復するための奪権闘争をもくろみ、そのとりかかりとして江青と組んで文化革命を上海で始めたのだった。1966年、文化大革命が本格的に始まると、毛沢東を支持する造反派と紅衛兵が激しい街頭運動繰り広げ、劉少奇・鄧小平らを走資派・実権派として攻撃した。上海でも江青と関係の深い張春橋や王洪文らが上海市の実権を握ろうとして共産党上海市委員会を攻撃した。1967年1月、王洪文らは上海の造反派労働者を組織し、北京から派遣された紅衛兵とともに蜂起して、2月初めに市の権力を掌握して上海人民公社(上海コミューン)を樹立した。中央文革小組の陳伯達、江青らは上海コミューンを支持、毛沢東も上海の造反派を称賛したため、上海と同じような造反派の武装蜂起は各地でおこり、奪権闘争が広がった。上海コミューンは2月23日、上海市革命委員会に改称され張春橋が主任となった。
このような急進的な造反派を批判する労働者は、上海ディーゼル機械工場を拠点に連合組織を作って抵抗した。両派はそれぞれ武装して闘争を繰り広げた。造反派を率いる王洪文は8月4日、ディーゼル機械工場に対する総攻撃を決行し、クレーン車や放水車を動員してようやく鎮圧した。この上海で始まった「一月の嵐」と言われた武装闘争の波は全国の造反派に広がり、労働者どうしが殺し合うセクト闘争へと変質していった。一部では機関銃や迫撃砲まで使用されて犠牲者が増加、内戦さながらの武装闘争は1970年ごろまで各地で続き、無数の犠牲者が出た。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.31-50>
その後、江青、張春橋、姚文元、王洪文の上海出身グループは、文化大革命を推進する理論構築・宣伝部門の中枢を担い、資本主義の復活をめざすブルジョワ修正主義との階級闘争という文化大革命を原理的に押し進めた。1971年に林彪事件で林彪が失脚すると、この四人が政権を握ることとなり、「四人組」と言われるようになった。彼らの拠点はいずれも上海にあったので、1976年の毛沢東の死によって彼らが逮捕されたときも、上海で中央に対する反乱が起きるのではないかと懸念されていたので、華国鋒らは事前に上海の四人組系勢力を抑え、混乱を防止した。
その後も中国共産党政府にとって上海を抑えることは重要な課題であり、同時に上海を抑えたものが中央でも評価されることが多くなっている。1980年代後半に上海市長として実績を上げ、89年の天安門事件(第2次)で鄧小平に抜擢されたのが江沢民だった。