アヘン
ケシから得られる麻薬。イギリスはインド産のアヘンを中国に密輸出し巨利を得、銀の流出が続いたため清朝はアヘン禁輸に踏みきり欽差大臣林則徐がアヘンを廃棄した。イギリスはその賠償を要求、清朝が応じなかったため、1840年にアヘン戦争となった。清朝は敗れ南京条約を締結、香港割譲などに応じ半植民地状態が始まった。アヘンはその後も蔓延が続き、ようやく20世紀初め国際的なアヘン貿易禁止が合意されたが、中国政府のもとで黙認され、さらに中国に侵出した日本軍もアヘン密売を行い利益を上げた。中華人民共和国の成立に伴い、1950年代に根絶された。
18世紀以来、イギリスは中国との貿易において、一方的に茶を輸入するのみで、中国に売りつけるものがなく著しい輸入超過であった。産業革命後、工業製の綿織物を売り込もうとしたが、中国の綿織物・絹織物に対抗できず、振るわなかった。そこで考えられたのがインド産のアヘンを中国に売り込むことであった。アヘン(阿片、鴉片)※はケシ(罌粟、芥子)の実からとれる麻薬で、吸飲すると気分が高揚するなどの薬効があったが、習慣化して次第に人体に害を及ぼし廃人としてしまう。アヘンが中国にもたらされると、役人など富裕層から貧民層にいたるまで、急速にひろまった。1780年、イギリス東インド会社がベンガル地方のアヘン専売権を獲得、本格的な中国への輸出に乗り出した。
※ケシをギリシア語で opion 、ラテン語で opium といい、そこから英語の opium がアヘンの意味になった。オピウムの音に漢字の阿(ア)片(ピエン)があてられ、日本ではアヘンの文字の音からアヘンと言われるようになった。
ケシの花が終わった後の果実(ケシ坊主)が未熟なうちに傷つけると、白い乳液がしたたり落ちる。それを集めて乾燥させたものが、いわゆるアヘンである。アヘンには10%のモルヒネが含まれ、蘇生のままで十分な薬効を示すため、その効果は極めて古くから知られていた。スイスの新石器時代の遺跡からケシ栽培の痕跡が見つかっているから、その歴史は5000年もさかのぼることになる。メソポタミアで見つかった粘土版には楔形文字でアヘンの採取法が記されており、ケシは「喜びの植物」と書かれているという。紀元前1500年頃のパピルスにはケシの医薬としての利用法が記されており、キプロス島からは前1200年頃のアヘン吸引用のパイプが出土している。
古代ギリシア文学の最高峰ホメロスの『オデュッセイア』には、悲しみを忘れさせる薬というのが登場し、ローマの五賢帝の一人マルクス=アウレリウス=アントニヌスにもアヘンをたしなんでいた形跡がある。しかしローマ時代の文献にはアヘンの毒性についても警告しているものも見られ、一般に広がっていたとは言えないようだ。その後、中世になって十字軍の遠征によるイスラーム文明との接触によって、アヘンがヨーロッパにもたらされ、その効用が見直されるようになった。16世紀の錬金術師で医者でもあったパラケルススは、アヘンをベースとした丸薬を開発し、万病に効く万能薬として推奨している。17世紀後半にはイギリスで、アヘンを赤ワインなどの酒に溶かしたアヘンチンキが開発され、風邪やコレラなどの感染症に対して広く処方されるようになった。多くの医学者はアヘンの使用を奨め、乳児から老人まで、何かと言えばアヘン製剤を使うようになったが、18~19世紀にかけて、アヘン中毒患者の増加も問題とされるようになった。
1803年、弱冠20歳の薬剤師フリードリヒ=ゼルチュルナーは、アヘンに酸と塩基を順次加えることで不要物を除去し、有効成分だけを結晶として取り出すことに成功し、その成分にギリシア神話の眠りの神モルフェウスにちなみ、モルヒネと名付けた。これは薬学と有機化学のスタートを示す大きな発見だった。19世紀半ばには皮下注射器が開発され、モルヒネを注射で投与できるようになった。アメリカの南北戦争では南軍側だけで1000万錠のアヘン錠剤と、200万オンス以上のアヘン製剤品が売られたとされる。そのため耽溺者が続出し、中毒者は「兵隊病」と呼ばれるようになった。「万能薬」としてもてはやされたアヘンは、徐々に危険な麻薬としての素顔をむき出しにし始めた。
モルヒネも医薬用だけではなく、アヘンの代用品として麻薬として売買された。さらにモルヒネを精製して純度を高めたのがヘロインであり、現在にいたるまで中毒者が跡を絶たず、反社会的勢力の財源になっている。
1624年、台湾島を占領したオランダ人を通し、インドネシアからアヘン喫煙の習慣がもたらされ、18世紀には大陸沿岸でその習慣が伝わり、薬効とともに中毒性も知られるようになった。しかしこれらは後にイギリスが持ち込んだインド産のアヘンとは別で、質は悪く、蔓延することはなかった。
イギリスの三角貿易 1600年に東インド会社を作ったイギリスは、17世紀前半、中国との貿易を開始したが、イギリスの主要な輸入品となったのが中国の茶であった。イギリスでは茶の大ブームが起こったが、熱帯原産の茶はヨーロッパでは育たないので、輸入にたよるしかなく、貿易赤字はたちまち膨れ上がった。代わりに中国に輸出するものを探したが、当時の中国=清王朝は、食料、飲料、衣服、工芸品などすべてを自給できており、売り込む必需品がみつからない。イギリスの産業革命によって生産された綿織物はインドでは売れたが、中国ではほとんど売れなかった。そんなとき、1773年にイギリスがインドのベンガル州を征服したことによって、その地で生産されているアヘンを清に売り込むというチャンスが生まれた。これによって、本国イギリスとインド、中国を結ぶ三角貿易が19世紀イギリスの世界帝国としての発展を支えることとなった。
アヘンの専売制 イギリスの初代ベンガル総督ウォーレン=ヘースティングスはインドにおけるアヘンを専売制としてその生産と輸出を管理した。それは利益を独占する狙いと、アヘンが「中毒性のある嗜好品」であることからインドおよび本国イギリスで蔓延することを防止するためであった。そのためインドではアヘンは商品作物として生産され、インド農民の手に渡ることはなかった。一方では本国イギリスへも医薬原料以外のアヘンの流入は慎重に規制された。
イギリスはアヘンを専売品とし、産業革命で培った工業技術で、品質と規格を厳密にコントロールして大量生産を行い、タバコにヒントを得てアヘンを火であぶって煙を吸引するという、中国人好みの新商品まで開発して「ビジネスチャンス」をひろげた。
アヘンの密輸 インド産のアヘンはひとたび中国にもたらされると、政府高官から庶民に至るまで、ひとたまりもなく虜として人々を蝕んでいった。アヘンは一度買ってしまえば必ず二度三度と買わざるを得なくなる恐るべき商品であった。清朝政府も、王族の中にもアヘン中毒者が出たのをみて、早くも1729年にはじめて阿片禁令を発布していたが、これは薬用としての阿片を禁制としなかったため、「薬」と称して輸入したり吸引するものを取り締まることは出来なかった。イギリスも当初は公式にはアヘンを貿易品とすることはさけ、東インド会社所属船ではない取引免許を与えた船で、清朝政府から検査免除の優遇措置を受けているポルトガル船に荷を積み替え、マカオで売りさばくという方法を採っていた。1794年からイギリスは広東省広州の黄埔港に船を入れ、マカオの南の雲雀湾にアヘンを貯蔵する船を設置するようになった。
急増するアヘン密輸 アヘン貿易が軌道に乗ると、イギリスの貿易赤字は急速に減少し、逆に黒字に転じた。また国内では紅茶消費税が新設され、インド植民地から吸い上げるアヘン税もあって、イギリス国内・植民地ともに莫大な利益を上げるようになった。中国に密輸されたアヘンは、1765年には200箱から300箱であったものが、1821年には4,000箱、1837年には34,000箱へと爆発的に増加した。
清朝の度重なる輸入禁止令は効果がなかった。貿易は清朝の輸入超過に転じ、国内の銀は流出する一方となった。この状況を何とかしなければならないと立ち上がったのが清朝の官吏、林則徐であった。<譚璐美『阿片の中国史』2005 新潮新書 などにより構成> → アヘン戦争
1920年代から世界的なアヘン禁止の動きは、同時期のアメリカにおける禁酒法と同じようにキリスト教団体による運動が背景にあった。それをうけてイギリス政府と1912年に発足した中華民国政府もアヘン禁止に動き出した。しかし、禁酒法がかえって酒の密売を増やしたと同じように、アヘンも価格が高騰し、利益が大きくなったため、闇社会でのビジネスとしてかえって取引が盛んになり、吸引者も増えていった。需要が高まって輸入アヘンでは不足するようになると、中国各地の農村でケシが栽培され、アヘンも自給されるようになっていった。中華民国の統治は地方に及ばず、各地方に割拠した軍閥は、アヘン売買を財源とし、支配下の農民にケシの栽培を奨励した。
第一次世界大戦後、アヘン・麻薬(特にアヘンから精製されるヘロイン)の被害が欧米でも深刻となり、1920年に国際連盟が成立すると国際アヘン条約の実施について連盟が監督の権限を持つことになり、アヘン諮問委員会が設置された。その後、国際連盟主導で、1925年、31年にも国際アヘン会議が開催され、国際アヘン条約は生アヘンとヘロインの製造・輸出入も禁止するよう強化された。日本は1912年以来のすべての国際アヘン条約に調印・批准している。<江口圭一『日中アヘン戦争』1988 岩波新書 p.24,24>
イギリス政府が公式にはアヘン取引を禁止したため、それまで共同租界でアヘン取引を一手に引き受けていた潮州商人がアヘンから撤退、その秘密組織の紅幇は力を失い、代わって新興勢力の青幇(チンバン)が台頭するようになった。この20世紀の20年代以降の上海を牛耳ったのは、青幇のメンバーである吐月笙のようなギャングだった。<譚璐美『前掲書』 p.172>
1927年4月12日、上海で起こった大規模な共産党弾圧である上海クーデタのとき、蔣介石と財閥に協力し、その手先となって虐殺行為を行ったのが吐月笙ら青幇だった。青幇は非合法ないわばマフィアのような存在であったが、租界の治安維持に協力した見返りとして、非合法であるはずのアヘン取引や賭博場の経営を堂々と認められていた。1928年に北伐を完了して中国統一をとげた蔣介石は国民政府禁煙委員会を設置、9月に禁煙法を制定した。禁煙とはアヘンの製造、販売などを禁じるとともに段階的に中毒者を減らす方策のことだった。
日清戦争によって獲得した台湾ではアヘンが常用されていたが、その統治に当たった後藤新平はアヘン漸禁政策(段階的に禁止する)と専売制度を提案、それが実施され、アヘン吸煙の特許料は台湾総督府の財政を支える収入源となった。さらに日露戦争で関東州の租借権を得、1910年の韓国併合で朝鮮を植民地化、第二次世界大戦でも大陸への勢力拡大を進めた。日本は当初はアヘンをインドやペルシアから日本にいったん輸入し、山東、満州に再度輸出する形を取っていたが、次第に日本国内や台湾、朝鮮、満州でケシ栽培を増加させ、後には内モンゴル、新疆地区でも行うようになった。
日本はアヘンの代用品としてのモルヒネも扱った。はじめはイギリス・ドイツから輸入していたが、第一次世界大戦でドイツから輸入できなくなり、1917年にはイギリス議会が日本への輸出を禁止したので、アメリカ、フランス、オランダ、ベルギー、スウェーデン、イタリア、デンマークなど世界中から買いあさり、中国に輸出した。明治末から大正初めに急増し、1920年には最高の約77万5千オンスに達した。この輸出入は財閥系の大商社が行った。中国では慈善団体を装った「宏済善堂」を通じて小売り販売された。モルヒネは中国語で「白粉」といわれ皮下注射かアヘン用の混ぜ物と一緒にキセルで吸う方法がとられたが、上海では銀紙の上にのせて焙って吸うというモダンなスタイルも好まれた。モルヒネはアヘンよりも簡便で効果が大きかったので人気を呼んだ。
このようなモルヒネやアヘンの中国への輸出は日本だけでなく、イギリスの香港、シンガポール、フランスのインドシナなどの植民地でも同じように行われていた。アヘンは世界中の植民地支配のためにあふれかえり、国際通貨の役割を果たしていた。
1932年に樹立された満州国でも同年11月にアヘン法を制定した。それによってアヘン吸煙は禁止とされたが、未成年でない中毒者は療養上の必要があれば吸煙をみとめて段階的に漸減させるというもので、同時にアヘンの製造・販売を政府の統制下に置くという専売制を定めたものであった。その実態はアヘン(及び麻薬)の公認であり、拡大を防止することではなく、狙いは専売にすることによって利潤を満州国の財源に充てることだった。
関東軍はさらに内蒙古自治運動を利用して内モンゴルから華北への進出を目指し、1935年に冀東防共自治政府を樹立、そのもとでもケシの栽培、アヘンの製造が行われた。これらの日本占領地域で生産されたアヘンは天津などに運ばれて売りさばかれ、莫大な利益を得ていたが、同時に中国軍との利害の対立は大きくなり、日中の戦争は「日中アヘン戦争」の様相を呈していった。
日本軍の華北分離工作は中国側の激しい反発を呼び起こし、1935年年の北京などでの十二・九学生運動、中国共産党による八・一宣言など、抗日民族統一戦線の結成の動きが強まり、1936年12月の西安事件をきっかけに翌1937年9月に第2次国共合作が成立するが、その直前の7月に盧溝橋事件で日中両軍が衝突、日中戦争が勃発していた。
1938年12月、日本政府の対中国中央機関として興亜院が設置され、39年9月には蒙古連合日政府が張家口に樹立された。これは通称「蒙疆政権」といわれ満州国と同様な日本による内モンゴル支配のための傀儡政権であった。この興亜院と蒙疆政権によって内モンゴルでのアヘンの生産と管理が一元的に実行されていった。内モンゴル産のアヘンは、日中戦争の勃発で減少した中国国内産のアヘンに代わって盛んに輸出された。そしてそれは中国国民政府支配地域産のアヘンと競合したのであり、まさに「日中アヘン戦争」が展開された。
華中・華南でも日本軍は占領した地域でのアヘンの生産と管理、販売に関与し、上海では阿片王と言われた吐月笙とも手を組んで大規模なアヘン密輸を行ったことが疑われている。1938年3月に南京に傀儡政権「中華民国維新政府」をつくり、そのもとで日本は政府、軍、財閥系大商社(三井・三菱)が一体となって、国際的な取引禁止品目であったアヘンの密貿易を行っていた。この件は後の東京国際軍事裁判でも問題とされた。日本のアヘン密貿易で、現地での販売を請け負った商人は興亜院が組織した「宏済善堂」に組み込まれ、慈善事業を装いながらアヘンの販売を行った。1940年3月、南京に汪兆銘政権が成立してからも、興亜院はアヘン行政を指導し続けた。
しかし、1941年12月の太平洋戦争への突入は状況を一変させた。それまで日本の中国におけるアヘン政策は、多くの部分を海外から(イランなど)の密輸入に依存していたが、大西洋戦争勃発により海外からの密輸が出来なくなった。そのため興亜院は、内モンゴルでのアヘン生産を督励することになったが、その苛酷な取り立てはモンゴル人の反発を受けるようになった。また、東南アジアの日本占領地域でのアヘン生産に力を注いだ。
1943年末、南京などの華中の都市で学生の反アヘンデモが起こり、アヘン商やアヘン窟が襲撃された。それは日本のアヘン政策に打撃を与えたが、戦後になって汪兆銘政権が仕掛けたものとの見方が出ている。<江口圭一『前掲書』p.196>
日本のアヘン政策は日中戦争の敗北とともに終わり、その内状を伝える史料の多くが失われたが、それとともに中国が本格的なアヘン絶滅に乗り出したことはあきらかである。
中国ではアヘン中毒者がかなりの数で広がっていたので、その撲滅は困難を極めたと思われるが、1952年までの3年間で、全国で総数約22万件が摘発され、密売した8万人あまりが実刑判決を受け、8百人以上が死刑になった。強制的に禁煙させられた重症のアヘン中毒患者は、約200万人にのぼったという。中国は新国家建設という困難な課題の中で、初めてアヘン禁止に成功した。<譚璐美『前掲書』 p.206>
※ケシをギリシア語で opion 、ラテン語で opium といい、そこから英語の opium がアヘンの意味になった。オピウムの音に漢字の阿(ア)片(ピエン)があてられ、日本ではアヘンの文字の音からアヘンと言われるようになった。
銀の流出
清朝政府はアヘン輸入を禁止したので、密貿易という形で広州に運ばれ、中国は巨大なアヘン市場と化し、イギリスは大きな利益を上げるに至った。19世紀に中国で急速にアヘン密貿易が増大し、中毒者が蔓延、また代価としての銀が流出したため、清朝政府も無視できなくなり、広州などでのアヘン密貿易取り締まり乗りだし、イギリスとの対立が強まって、ついに1840年のアヘン戦争勃発となる。なお、当時、アヘンは東南アジアのイギリス領マラヤやオランダ領東インドのスズ鉱山で働く中国人労働者(苦力)に対して売りつけられ、それぞれ専売制度によって植民地当局の利益となっていた。アヘンの密貿易
アヘンはふつうインドでケシから抽出された生アヘンを、ソフトボール大の球状の煙膏に固められて、それを40個、133ポンド1/3(百斤)がマンゴ材の箱に詰められて輸入された。品質によって等級があり、ベンガル産が最高級で公班土(コンパンド。コンパンはカンパニー、つまりイギリス東インド会社を意味する。)と言われた。アヘンの輸入量は密輸品であるので正確な統計はないが、1817年(嘉慶22年)3698箱(価格約400万スペインドル)が約20年後の1838年(道光18年)には28307箱(価格1980万スペインドル)になった。インドからのアヘンだけでなく、主にアメリカ商人によってもたらされたトルコ産やイラン産のアヘンを加えれば、1835年にすでに3万箱とも言われている。<陳舜臣『実録アヘン戦争』中公新書 p.45-47>アヘンの世界史
現在用いられている現役の医薬の中で、最も古くからあるものは、鎮痛剤としてのモルヒネであるらしい。モルヒネは「人類が手にした最強の鎮痛剤」として今も用いられているが、痛みを取り去るだけでなく、心の憂さを晴らす効果も大きいため、優れた鎮痛剤であると同時に、人生を破壊する麻薬でもる。そのモルヒネはケシの未熟な果実から得られる。ケシには種々の品種があり、園芸種のヒナゲシからはモルヒネは作れない。モルヒネを生産するのはケシでもソムニフェルム種やセティゲルム種と呼ばれるもので、日本では無許可での栽培は違法とされている。<以下、佐藤健太郎『世界史を変えた薬』2015 講談社現代新書 p.60~ などにより構成>ケシの花が終わった後の果実(ケシ坊主)が未熟なうちに傷つけると、白い乳液がしたたり落ちる。それを集めて乾燥させたものが、いわゆるアヘンである。アヘンには10%のモルヒネが含まれ、蘇生のままで十分な薬効を示すため、その効果は極めて古くから知られていた。スイスの新石器時代の遺跡からケシ栽培の痕跡が見つかっているから、その歴史は5000年もさかのぼることになる。メソポタミアで見つかった粘土版には楔形文字でアヘンの採取法が記されており、ケシは「喜びの植物」と書かれているという。紀元前1500年頃のパピルスにはケシの医薬としての利用法が記されており、キプロス島からは前1200年頃のアヘン吸引用のパイプが出土している。
古代ギリシア文学の最高峰ホメロスの『オデュッセイア』には、悲しみを忘れさせる薬というのが登場し、ローマの五賢帝の一人マルクス=アウレリウス=アントニヌスにもアヘンをたしなんでいた形跡がある。しかしローマ時代の文献にはアヘンの毒性についても警告しているものも見られ、一般に広がっていたとは言えないようだ。その後、中世になって十字軍の遠征によるイスラーム文明との接触によって、アヘンがヨーロッパにもたらされ、その効用が見直されるようになった。16世紀の錬金術師で医者でもあったパラケルススは、アヘンをベースとした丸薬を開発し、万病に効く万能薬として推奨している。17世紀後半にはイギリスで、アヘンを赤ワインなどの酒に溶かしたアヘンチンキが開発され、風邪やコレラなどの感染症に対して広く処方されるようになった。多くの医学者はアヘンの使用を奨め、乳児から老人まで、何かと言えばアヘン製剤を使うようになったが、18~19世紀にかけて、アヘン中毒患者の増加も問題とされるようになった。
1803年、弱冠20歳の薬剤師フリードリヒ=ゼルチュルナーは、アヘンに酸と塩基を順次加えることで不要物を除去し、有効成分だけを結晶として取り出すことに成功し、その成分にギリシア神話の眠りの神モルフェウスにちなみ、モルヒネと名付けた。これは薬学と有機化学のスタートを示す大きな発見だった。19世紀半ばには皮下注射器が開発され、モルヒネを注射で投与できるようになった。アメリカの南北戦争では南軍側だけで1000万錠のアヘン錠剤と、200万オンス以上のアヘン製剤品が売られたとされる。そのため耽溺者が続出し、中毒者は「兵隊病」と呼ばれるようになった。「万能薬」としてもてはやされたアヘンは、徐々に危険な麻薬としての素顔をむき出しにし始めた。
モルヒネも医薬用だけではなく、アヘンの代用品として麻薬として売買された。さらにモルヒネを精製して純度を高めたのがヘロインであり、現在にいたるまで中毒者が跡を絶たず、反社会的勢力の財源になっている。
アヘンの中国史
中国で最も古い時代にアヘンを用いたのは、後漢末の名医・華陀とされ、『三国志演義』には毒矢を受けた関羽の肘を切開し、骨を削る大手術を行った話で登場する。しかし年代的には華陀の死後のことであり、事実では無い。華陀は麻沸散という麻酔薬を用いて開腹手術をしたと伝えられており、それがアヘンではないか、とも言われているが、ケシがその頃中国で栽培されていたとは思えない。唐になるとケシに関する記録が出てくるが、まだ観賞用の花として育てられていただけのようで、明代の1596年に刊行された、本草学者の李時珍が編纂した『本草綱目』は漢方薬を集大成した一冊だが、アヘンに関する記述は伝聞で記されているだけである。西洋ではあれだけ広く利用されていたアヘンが、中国では長い間ほとんど知られていなかったのはちょっと不思議なことだ。1624年、台湾島を占領したオランダ人を通し、インドネシアからアヘン喫煙の習慣がもたらされ、18世紀には大陸沿岸でその習慣が伝わり、薬効とともに中毒性も知られるようになった。しかしこれらは後にイギリスが持ち込んだインド産のアヘンとは別で、質は悪く、蔓延することはなかった。
イギリスの三角貿易 1600年に東インド会社を作ったイギリスは、17世紀前半、中国との貿易を開始したが、イギリスの主要な輸入品となったのが中国の茶であった。イギリスでは茶の大ブームが起こったが、熱帯原産の茶はヨーロッパでは育たないので、輸入にたよるしかなく、貿易赤字はたちまち膨れ上がった。代わりに中国に輸出するものを探したが、当時の中国=清王朝は、食料、飲料、衣服、工芸品などすべてを自給できており、売り込む必需品がみつからない。イギリスの産業革命によって生産された綿織物はインドでは売れたが、中国ではほとんど売れなかった。そんなとき、1773年にイギリスがインドのベンガル州を征服したことによって、その地で生産されているアヘンを清に売り込むというチャンスが生まれた。これによって、本国イギリスとインド、中国を結ぶ三角貿易が19世紀イギリスの世界帝国としての発展を支えることとなった。
アヘンの専売制 イギリスの初代ベンガル総督ウォーレン=ヘースティングスはインドにおけるアヘンを専売制としてその生産と輸出を管理した。それは利益を独占する狙いと、アヘンが「中毒性のある嗜好品」であることからインドおよび本国イギリスで蔓延することを防止するためであった。そのためインドではアヘンは商品作物として生産され、インド農民の手に渡ることはなかった。一方では本国イギリスへも医薬原料以外のアヘンの流入は慎重に規制された。
イギリスはアヘンを専売品とし、産業革命で培った工業技術で、品質と規格を厳密にコントロールして大量生産を行い、タバコにヒントを得てアヘンを火であぶって煙を吸引するという、中国人好みの新商品まで開発して「ビジネスチャンス」をひろげた。
アヘンの密輸 インド産のアヘンはひとたび中国にもたらされると、政府高官から庶民に至るまで、ひとたまりもなく虜として人々を蝕んでいった。アヘンは一度買ってしまえば必ず二度三度と買わざるを得なくなる恐るべき商品であった。清朝政府も、王族の中にもアヘン中毒者が出たのをみて、早くも1729年にはじめて阿片禁令を発布していたが、これは薬用としての阿片を禁制としなかったため、「薬」と称して輸入したり吸引するものを取り締まることは出来なかった。イギリスも当初は公式にはアヘンを貿易品とすることはさけ、東インド会社所属船ではない取引免許を与えた船で、清朝政府から検査免除の優遇措置を受けているポルトガル船に荷を積み替え、マカオで売りさばくという方法を採っていた。1794年からイギリスは広東省広州の黄埔港に船を入れ、マカオの南の雲雀湾にアヘンを貯蔵する船を設置するようになった。
急増するアヘン密輸 アヘン貿易が軌道に乗ると、イギリスの貿易赤字は急速に減少し、逆に黒字に転じた。また国内では紅茶消費税が新設され、インド植民地から吸い上げるアヘン税もあって、イギリス国内・植民地ともに莫大な利益を上げるようになった。中国に密輸されたアヘンは、1765年には200箱から300箱であったものが、1821年には4,000箱、1837年には34,000箱へと爆発的に増加した。
清朝の度重なる輸入禁止令は効果がなかった。貿易は清朝の輸入超過に転じ、国内の銀は流出する一方となった。この状況を何とかしなければならないと立ち上がったのが清朝の官吏、林則徐であった。<譚璐美『阿片の中国史』2005 新潮新書 などにより構成> → アヘン戦争
アヘン公認とアヘン税
アロー戦争の過程の1858年に締結された天津条約において、清朝政府はアヘンを「洋薬」と呼び替え、輸入を合法化した。これによって実際に輸入第一位を占めながら密輸扱いであったアヘンは公認された。そのねらいは、合法化することでアヘンに輸入税を課し、関税収入を増やすことだった。1887年には「アヘン厘金」という税を導入したことで税収を2倍に増やし、アヘン税は海関収入の39.3%を占めるほどになった。これは清朝財政を補填するだけでなく、日清戦争、義和団事件などの賠償金支払いの財源となった。朝日新聞社『世界史を読む辞典』1994 朝日新聞社 p.261上海とアヘン
上海は南京条約によって開港場となり、一挙に大都会に変貌した。その経済を支えていたのはアヘンの取引であった。上海が開港した当初から、アヘンの取引を独占していたのが広東省の潮州出身の商人であり、彼ら中の秘密組織である紅幇(ホンバン)が結成された。ジャーディン=マセソン商会やサッスーン商会などの外国商社によって上海に運ばれたアヘンは、闇組織である紅幇の手によって末端のアヘンを吸引できる店や個人に販売された。アヘンは街のいたるところで合法的に売られ、客はいつでも手軽に買うことが出来た。アヘンはまず煙膏店で生アヘンから小口にわけられ、包装して煙館に卸されるか、一般客に販売される。煙館はアヘンを喫煙するための、いわゆるアヘン窟であるが、高級店から中級、一般店までランクがあり、最高級店では紫檀や黒檀で彫刻の施されたベッドで象眼細工の施された銀製のキセルで吸引する。暗いアヘン窟のイメージはここにはない。ピーク時の1872年には上海だけで高級煙館は約千七百軒あったという。この時期にはアヘン吸引は一つの社交のための嗜好品となっていり、男性のたしなみの一つともなっていた。アヘン貿易の禁止へ
しかし20世紀に入ると、国際世論でも中国でのアヘンの害が問題にされるようになり、1909年には世界最初の国際アヘン会議が上海で開かれ、アメリカなどがイギリスを厳しく非難した。1912年にはハーグの世界アヘン会議でハーグ国際アヘン条約が調印された。この条約ではアヘン煙膏の輸出入が禁止、もしくは制限されたが、生アヘンの生産・輸出入は禁止されず、批准国も少ないという不十分なものだった。1920年代から世界的なアヘン禁止の動きは、同時期のアメリカにおける禁酒法と同じようにキリスト教団体による運動が背景にあった。それをうけてイギリス政府と1912年に発足した中華民国政府もアヘン禁止に動き出した。しかし、禁酒法がかえって酒の密売を増やしたと同じように、アヘンも価格が高騰し、利益が大きくなったため、闇社会でのビジネスとしてかえって取引が盛んになり、吸引者も増えていった。需要が高まって輸入アヘンでは不足するようになると、中国各地の農村でケシが栽培され、アヘンも自給されるようになっていった。中華民国の統治は地方に及ばず、各地方に割拠した軍閥は、アヘン売買を財源とし、支配下の農民にケシの栽培を奨励した。
第一次世界大戦後、アヘン・麻薬(特にアヘンから精製されるヘロイン)の被害が欧米でも深刻となり、1920年に国際連盟が成立すると国際アヘン条約の実施について連盟が監督の権限を持つことになり、アヘン諮問委員会が設置された。その後、国際連盟主導で、1925年、31年にも国際アヘン会議が開催され、国際アヘン条約は生アヘンとヘロインの製造・輸出入も禁止するよう強化された。日本は1912年以来のすべての国際アヘン条約に調印・批准している。<江口圭一『日中アヘン戦争』1988 岩波新書 p.24,24>
イギリス政府が公式にはアヘン取引を禁止したため、それまで共同租界でアヘン取引を一手に引き受けていた潮州商人がアヘンから撤退、その秘密組織の紅幇は力を失い、代わって新興勢力の青幇(チンバン)が台頭するようになった。この20世紀の20年代以降の上海を牛耳ったのは、青幇のメンバーである吐月笙のようなギャングだった。<譚璐美『前掲書』 p.172>
1927年4月12日、上海で起こった大規模な共産党弾圧である上海クーデタのとき、蔣介石と財閥に協力し、その手先となって虐殺行為を行ったのが吐月笙ら青幇だった。青幇は非合法ないわばマフィアのような存在であったが、租界の治安維持に協力した見返りとして、非合法であるはずのアヘン取引や賭博場の経営を堂々と認められていた。1928年に北伐を完了して中国統一をとげた蔣介石は国民政府禁煙委員会を設置、9月に禁煙法を制定した。禁煙とはアヘンの製造、販売などを禁じるとともに段階的に中毒者を減らす方策のことだった。
Episode 「阿片の帝王」が阿片取り締まる総監督に
蔣介石の国民政府も財政難であったから、アヘンを専売制にして利益を独占しようとした。しかし、国際的にはアヘン貿易を禁止するハーグ条約が1912年に締結されていたので、国民政府の財務部長宋子文(浙江財閥宋家の三姉妹の兄)は巧妙な「公売制度」を考案した。それは名目的にはアヘン禁止(禁煙)を打ち出し、三年間の禁煙を実行したものには政府公認の登録証を与えてアヘンを買うことが出来る、というものでその運用のために国の機関である国民禁煙局をつくり、アヘンの生産と管理を行う民間会社を監督する、というものだった。アヘン密売の実権を握り、「阿片の帝王」といわれていた吐月笙とは利害が対立することになるので、宋子文と吐月笙は関係が険悪となったが、なんと蔣介石は1931年春、吐月笙を阿片取り締まりの総監督への就任を要請、彼はそれを受けた。これは1927年に蔣介石が受けた借りを返すという二人の関係によるものだったが、「阿片の帝王」と呼ばれた犯罪者が「阿片取り締まるの政府総監督」という正義の職につくという「悪魔の密約」が交わされたのだった。<譚璐美『前掲書』 p.192>日本のアヘン政策
日本は中国におけるアヘン禍を知り、国内ではアヘンを禁止していたが、中国大陸に侵出すると、その勢力圏の拡大とともに、アヘンをどう扱うか判断を迫られることとなった。そこで採られた政策は、国内と同じようにアヘンを禁止するのではなく、むしろ中国でのアヘンの需要が多いことに目をつけ、アヘン蔓延を認めたうえで、その貿易に積極的に関わり、植民地支配の財源に充てようとするものであった。日本の中国進出も、他のヨーロッパ列強の植民地政策と同様な基本姿勢を持っていたということになる。日清戦争によって獲得した台湾ではアヘンが常用されていたが、その統治に当たった後藤新平はアヘン漸禁政策(段階的に禁止する)と専売制度を提案、それが実施され、アヘン吸煙の特許料は台湾総督府の財政を支える収入源となった。さらに日露戦争で関東州の租借権を得、1910年の韓国併合で朝鮮を植民地化、第二次世界大戦でも大陸への勢力拡大を進めた。日本は当初はアヘンをインドやペルシアから日本にいったん輸入し、山東、満州に再度輸出する形を取っていたが、次第に日本国内や台湾、朝鮮、満州でケシ栽培を増加させ、後には内モンゴル、新疆地区でも行うようになった。
日本はアヘンの代用品としてのモルヒネも扱った。はじめはイギリス・ドイツから輸入していたが、第一次世界大戦でドイツから輸入できなくなり、1917年にはイギリス議会が日本への輸出を禁止したので、アメリカ、フランス、オランダ、ベルギー、スウェーデン、イタリア、デンマークなど世界中から買いあさり、中国に輸出した。明治末から大正初めに急増し、1920年には最高の約77万5千オンスに達した。この輸出入は財閥系の大商社が行った。中国では慈善団体を装った「宏済善堂」を通じて小売り販売された。モルヒネは中国語で「白粉」といわれ皮下注射かアヘン用の混ぜ物と一緒にキセルで吸う方法がとられたが、上海では銀紙の上にのせて焙って吸うというモダンなスタイルも好まれた。モルヒネはアヘンよりも簡便で効果が大きかったので人気を呼んだ。
このようなモルヒネやアヘンの中国への輸出は日本だけでなく、イギリスの香港、シンガポール、フランスのインドシナなどの植民地でも同じように行われていた。アヘンは世界中の植民地支配のためにあふれかえり、国際通貨の役割を果たしていた。
日中アヘン戦争
敗戦時に資料の多くが焼却されたため、その全体像はあきらかではないが、日本は満州国や内モンゴルに建てた傀儡政権である蒙疆政権のもとで、組織的にアヘンの製造、流通を手がけることで利益を上げ、またそれには陸軍の関東軍と支那駐屯軍が深くかかわっていたことが徐々に明らかになっている。<以下は、江口圭一『日中アヘン戦争』1988 岩波新書 などによって構成>1932年に樹立された満州国でも同年11月にアヘン法を制定した。それによってアヘン吸煙は禁止とされたが、未成年でない中毒者は療養上の必要があれば吸煙をみとめて段階的に漸減させるというもので、同時にアヘンの製造・販売を政府の統制下に置くという専売制を定めたものであった。その実態はアヘン(及び麻薬)の公認であり、拡大を防止することではなく、狙いは専売にすることによって利潤を満州国の財源に充てることだった。
関東軍はさらに内蒙古自治運動を利用して内モンゴルから華北への進出を目指し、1935年に冀東防共自治政府を樹立、そのもとでもケシの栽培、アヘンの製造が行われた。これらの日本占領地域で生産されたアヘンは天津などに運ばれて売りさばかれ、莫大な利益を得ていたが、同時に中国軍との利害の対立は大きくなり、日中の戦争は「日中アヘン戦争」の様相を呈していった。
日本軍の華北分離工作は中国側の激しい反発を呼び起こし、1935年年の北京などでの十二・九学生運動、中国共産党による八・一宣言など、抗日民族統一戦線の結成の動きが強まり、1936年12月の西安事件をきっかけに翌1937年9月に第2次国共合作が成立するが、その直前の7月に盧溝橋事件で日中両軍が衝突、日中戦争が勃発していた。
1938年12月、日本政府の対中国中央機関として興亜院が設置され、39年9月には蒙古連合日政府が張家口に樹立された。これは通称「蒙疆政権」といわれ満州国と同様な日本による内モンゴル支配のための傀儡政権であった。この興亜院と蒙疆政権によって内モンゴルでのアヘンの生産と管理が一元的に実行されていった。内モンゴル産のアヘンは、日中戦争の勃発で減少した中国国内産のアヘンに代わって盛んに輸出された。そしてそれは中国国民政府支配地域産のアヘンと競合したのであり、まさに「日中アヘン戦争」が展開された。
華中・華南でも日本軍は占領した地域でのアヘンの生産と管理、販売に関与し、上海では阿片王と言われた吐月笙とも手を組んで大規模なアヘン密輸を行ったことが疑われている。1938年3月に南京に傀儡政権「中華民国維新政府」をつくり、そのもとで日本は政府、軍、財閥系大商社(三井・三菱)が一体となって、国際的な取引禁止品目であったアヘンの密貿易を行っていた。この件は後の東京国際軍事裁判でも問題とされた。日本のアヘン密貿易で、現地での販売を請け負った商人は興亜院が組織した「宏済善堂」に組み込まれ、慈善事業を装いながらアヘンの販売を行った。1940年3月、南京に汪兆銘政権が成立してからも、興亜院はアヘン行政を指導し続けた。
しかし、1941年12月の太平洋戦争への突入は状況を一変させた。それまで日本の中国におけるアヘン政策は、多くの部分を海外から(イランなど)の密輸入に依存していたが、大西洋戦争勃発により海外からの密輸が出来なくなった。そのため興亜院は、内モンゴルでのアヘン生産を督励することになったが、その苛酷な取り立てはモンゴル人の反発を受けるようになった。また、東南アジアの日本占領地域でのアヘン生産に力を注いだ。
1943年末、南京などの華中の都市で学生の反アヘンデモが起こり、アヘン商やアヘン窟が襲撃された。それは日本のアヘン政策に打撃を与えたが、戦後になって汪兆銘政権が仕掛けたものとの見方が出ている。<江口圭一『前掲書』p.196>
日本のアヘン政策は日中戦争の敗北とともに終わり、その内状を伝える史料の多くが失われたが、それとともに中国が本格的なアヘン絶滅に乗り出したことはあきらかである。
国共内戦とアヘン
1931年、中国共産党が江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国を樹立すると、蔣介石の国民政府は百万の兵と200機の飛行機で猛攻撃を開始した。この国共内戦(第1次)における国民政府軍の軍事費はアヘンの公売制度による「特貨」、つまりアヘンを売って得た資金が充てられた。中国共産党は瑞金を追われていわゆる長征を行い、途中の遵義会議で毛沢東が権力を握った。紅軍と言われた中国共産党軍は厳しい軍律を設け、農民のものは針一本、糸一本借りても返さなければならない、と訓令し、実行していたが、土豪や地主の財産は奪い資金に充てていった。没収した中にはアヘンも含まれていた。国民政府の発行した紙幣が信用されないためアヘンは実際には国内通貨として通用しており、米や食べ物と交換が出来る。そのため共産党はアヘンを大事に持ち歩いていただけでなく、実際には短期間ながら支配地域においてアヘンを栽培していたという証言もある。それはトップシークレットとされているので、正確に規模や実態が明らかにされることはないであろうが、現在は事実として明らかにされている。中華人民共和国のアヘン禁令
1949年に建国された中華人民共和国では、1950年、「アヘン煙毒を厳禁する通令」を発布し、大々的なキャンペーンを開始した。全国の地方政府に「禁煙禁毒委員会」を設け、アヘンを没収し、密売を摘発し、農家のケシ栽培を禁止した。アヘン中毒者は禁煙施設に入院させて治療と指導を行い、重大な違反者には死刑か無期懲役、中度の違反者は5年以上、十年以下の実刑、軽度の違反者は三年以下の実刑とした。中国ではアヘン中毒者がかなりの数で広がっていたので、その撲滅は困難を極めたと思われるが、1952年までの3年間で、全国で総数約22万件が摘発され、密売した8万人あまりが実刑判決を受け、8百人以上が死刑になった。強制的に禁煙させられた重症のアヘン中毒患者は、約200万人にのぼったという。中国は新国家建設という困難な課題の中で、初めてアヘン禁止に成功した。<譚璐美『前掲書』 p.206>