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愛琿条約/アイグン条約

東方侵出を活発にしたロシアが、1858年、清との間で締結した国境協定。清が黒竜江左岸を割譲、沿海州は両国の共同管理とした。

 1858年5月、ロシアと清朝の代表が黒竜江(アムール川)の右岸の町愛琿(アイグン)げ交渉、ロシアの黒竜江左岸の領有が認められ、沿海州(ウスリー川以東)は両国の共同管理とした。ロシアは、東シベリア総督ムラヴィヨフが強く清朝に迫り、アロー戦争で窮地に立つ清が屈辱的な内容を呑まざるを得なかった。清は後にこの条約を否認したが、1860年の北京条約で内容を追認し、さらに領土を失うこととなる。

ロシアの東方侵出

 ロシアと清の国境策定は1689年7月 、ロシアのピョートル1世と清の康煕帝のあいだでネルチンスク条約が締結され、黒竜江の北の外興安嶺を国境とすることで合意が成立したが、19世紀になって再びロシアの東アジア侵出が活発になった。アロー戦争で窮地に立つ清朝に迫り、愛琿条約で国境は外興安嶺から大きく南に移り、黒竜江までロシアが領有したことは清にとって大きな譲歩だった。さらにイギリス・フランスとの講和を斡旋した見返りとして1860年北京条約を締結、愛琿条約で共同管理とされていた沿海州の単独での領有を認めさせた。 → イリ条約  中ソ国境紛争
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