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北京条約(清-露)

1860年、アロー戦争の後、清とロシアの間で締結。ロシアが沿海州に領土を拡大し、ウラジヴォストークを獲得、日本海・朝鮮方面への拠点とした。

 アロー戦争の終結に伴い、清朝が講和条約として英仏と北京条約を締結したが、1860年11月、それを仲介したロシアがその報酬として清とのあいだに結んだ条約も北京条約という。
 ロシアは清に対し、黒竜江左岸の領有の確認と、沿海州の領有を認めさせた。このときの国境線が、現在のロシア中国の東部国境線となっている。またロシアは獲得した沿海州の海岸部に新たにウラジヴォストーク港を建設、不凍港を獲得し、日本海に進出することとなった。

ロシア・中国の国境確定

 ロシアはピョートル1世の時代から東アジアへの侵出を開始し、特にシベリアの資源を積極的に獲得しようとした。そのため、清との国境策定が問題となり、まず康煕帝のあいだで1689年7月 ネルチンスク条約を締結したが、それは黒竜江の北の外興安嶺を国境とするもので、ロシアが大きく譲歩したものだった。19世紀になって再びロシアの東アジア侵出が強まり、特に日本海への出口の獲得を課題とするようになり、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で窮地に立つ清朝に迫り、1858年アイグン条約を締結し、黒竜江左岸の広大な地域の領有が認めさせ、沿海州(ウスリー川以東)は両国の共同管理とした。続いて締結されたこの北京条約で、ロシアは沿海州を獲得、念願の日本海への進出を可能としたのだった。
 なお、中央アジア方面でも国境をめぐる問題では1727年キャフタ条約の後、イリ事件などの紛争があったが、それらは1881年イリ条約で解決された。
POINT  中露の東アジアにおける国境確定は、ネルチンスク条約→アイグン条約→北京条約という三段階をへることとなったが、それはロシアの東アジア侵出の過程である。歴史地図で国境線変遷と、ロシアが拡大した領域の変遷を抑えておこう。

ロシアと朝鮮の国境接触

 忘れてはならないのは、1860年の北京条約でロシアが沿海州を獲得したことによって、ロシアと朝鮮が国境を接するようになったことである。ロシア領はウラジヴォストークより南に設定され、豆満江(トマン江)をはさんで朝鮮王朝と接することになった。ロシアは満州進出と共に、ウラジヴォストークよりもさらに南方に完全な不凍港を獲得したいという領土的野心を持ち、朝鮮王朝に対しても圧力を加えるようになる。それが朝鮮半島をめぐる、清・ロシア・日本の三国の対立という19世紀末以降の東アジア国際情勢の緊迫の背景となっていく。

ソ連・中国の国境紛争へ

 この北京条約で中国とロシアの両国はほぼアムール川とウスリー川の河川を国境とすることとなったが、河川内の中州はほとんどロシアが占有しそれをソ連が継承したため、1960~70年代の中国とソ連の中ソ国境紛争が起きることとなる。

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