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中ソ国境紛争

中ソ対立の過程で1969年、ウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)で両国軍が衝突した事件。中ソ開戦の危機は回避されたが、問題解決は長期化し、2004年まで持ち越した。

清朝とロシアの国境策定

 ソ連と中国の国境は全長7400kmに及ぶ、世界で最も長い国境である。この国境策定はロシアと清朝の間で結ばれた、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約で始まり、19世紀後半の1858年の愛琿条約、1860年の北京条約、さらに1881年のイリ条約などの国境条約と20世紀初めの協定にもとづいて形成されたが、中国側は「ロシアが武力で押しつけた不平等条約」とみなしていた。

中ソ対立が表面化

 また黒竜江やウスリー川など河川国境では中州の島々の多くがソ連側に占有されていた。1950年代後半に始まった中ソ対立は60年代にさらに深刻化する中で国境での緊張も高まり、毛沢東の中国と、ブレジネフ政権に交代したソ連との間で、1969年3月のウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)事件、中央アジアの新疆地区などでの武力衝突が起こった。
 すでに1964年中国は核実験に成功していたことから、中ソ間の核兵器の使用も危惧された。当時中国はプロレタリア文化大革命の渦中にあり、ソ連に対するイデオロギー的批判も強められていった。毛沢東は、ソ連のスターリン批判以降の方向転換を修正主義と非難し、また平和共存路線をアメリカ帝国主義に屈服するものとして否定、並行して国内で資本主義の復活を策謀する勢力を実権派、走資派として打倒することを目指して1966年から発動したのがプロレタリア文化大革命であった。その過程で人民解放軍を背景とした軍人の林彪が台頭、珍宝島事件の翌月の党大会で毛沢東の後継者に指名されていた。毛沢東=林彪は、珍宝島事件が全面的な戦争になることを覚悟し、中国全土に防空壕の建設を命じるなど、危機が深刻となったが、9月にコスイギン=周恩来の会談で全面的な武力衝突は回避された。

中ソ国境問題の解決

 その後、武力紛争の再発はなかったが、中ソの長大な国境線をめぐるにらみ合いは、1970ねんだいにも続いた。しかし、70年代後半に入り、毛沢東の死去、文化大革命の終了、ゴルバチョフ政権の登場など情勢が大きく変化し、解決の方策が練られることとなった。
 1989年にソ連のゴルバチョフが訪中して中ソ対立が解消され、国境交渉も始まった。その年はネルチンスク条約締結の1689年から300年目にあたっていた。両国の国境交渉は1991年東部国境協定が成立、さらにソ連の解体という劇的な変化の後、曲折を経ながら進展し、2001年には善隣友好条約が成立した。細部の調停が行われた結果、2004年10月、北京を訪問したプーチン大統領と胡錦涛主席が会談、「国境問題は最終的完全に解決した」と宣言し世界を驚かせた。<岩下明裕『北方領土問題』2005 中公新書 p.51,107,111>

珍宝島事件/ダマンスキー島事件

1969年3月、中ソ対立の過程で国境紛争が深刻化し、ウスリー川中の珍宝島で中ソ軍が衝突。ダマンスキー島事件とも言う。全面戦争は避けられたが、中ソ国境の問題はその後も続いた。

 1969年3月、中ソ国境のウスリー川(黒竜江の支流)の珍宝島(ダマンスキー島)で両国が軍事衝突した中ソ国境紛争の中の一事件。珍宝島(ロシア側ではダマンスキー島)はウスリー川の中州を形成する島(面積はわずか0.74平方キロ)。国際法の一般原則では、河川国境は主要航路の中央線とすることになっており、それによれば珍宝島は中国側に入っていたが、事実上ソ連に占有されていた。
 1960年代後半、中ソ対立が激しくなる中で、たびたび衝突が起こっていたが、文化大革命でソ連を修正主義として批判するようになった中国で、ますます反ソ感情が強まり、1969年に大規模な衝突に発展した。3月2日、中国側の待ち伏せ攻撃によりソ連の国境警備隊32名が戦死、25日にはソ連側が反撃して中国側に68名、ソ連側に58名の戦死者が出た(数字は異説もある)。その後もにらみ合いが続き、さらにアムール川(黒竜江)流域や新疆地方でも衝突が起こった。しかし、9月、ホー=チ=ミン・ベトナム大統領の葬儀の帰り、北京空港で急遽ソ連首相コスイギンと中国首相周恩来の話し合いが行われ、当面の危機を回避した。<岩下明裕『北方領土問題』2005 中公新書 p.39-44>

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岩下明裕
『北方領土問題』
2005 中公新書