ブハラ=ハン国
16~19世紀、西トルキスタンのウズベク人の国家の一つ。1868年、事実上、ロシアの保護国となる。
1500年、西トルキスタンに成立したウズベク人の国、シャイバニ朝が起源。16世紀中頃以降、ブハラを都とするようになり、1599年にジャーン朝に代わった。ジャーン朝とは、ヴォルガ下流のアストラハン朝からの亡命者ジャーンとシャイバニ家の王女との間に生まれた人物を初代としている。ジャーン朝は約200年、ブハラで存続したが、1740年、ウズベクの一部族であるマンギト族出身の武将によって滅ぼされ、以後マンギト朝が1920年まで続く。このシャイバニ、ジャーン、マンギトの三王朝は主としてブハラを首都としたので、一般にブハラ=ハン国と言われるようになる。その後、アム川下流のホラズム地方のヒヴァ=ハン国、シル川上流のフェルガナ地方のコーカンド=ハン国と中央アジアの覇権をめぐって激しく覇権を争った。なお、ブハラ=ハン国の最後の王朝マンギト朝の君主はハンに代えてアミールの称号を使用したので、ブハラ=アミール国とも言う。
ロシアの保護国化
南下政策をとるロシアは、19世紀後半には中央アジア進出を強め、トルキスタンのトルコ系諸国にも危機が及んできた。コーカンド=ハン国が征服された後、1866年5月にはブハラ=ハン国軍がロシア軍に敗れ、68年にはサマルカンドが陥落、講和条約を締結し、サマルカンド地方はロシアに割譲し、多額の賠償金を支払い、奴隷制度の廃止に同意させられた。これは事実上の保護国化であった。ロシアがブハラとヒヴァを直接統治ではなく保護国としたのは、イギリスを刺激することを避けたことと、宗教都市ブハラの占領はムスリムの反抗を引き起こす恐れがあったためである。<小松久男『革命の中央アジア』1996 東大出版会 p.36>ブハラ革命
1920年9月2日、革命勢力が赤軍の支援を受けてブハラを制圧し、最後のアミール(君主)は東部の山岳地帯に退き、ブハラ=ハン国は滅亡した。10月8日、全ブハラ人民代表クリルタイは「ブハラ人民ソヴィエト共和国」の成立を宣言。このブハラ共和国にはジャディードが政権に参加したが、ロシアの赤軍の後押しを受けたため民衆の支持を受けられず、おまけにフェルガナ地方で激しくなっていたバスマチ運動という民族主義勢力と対立することとなり、苦難に直面した。1924年、ロシア共産党は中央アジアの「民族的境界画定」を決定、民族別の5共和国に編制し、ソ連邦に加盟させると言うものであった。ブハラ共和国はウズベク共和国に加わることとなった。