ウズベク人
モンゴル系トルコ人。16世紀初め、中央アジアでティムール朝を倒しシャイバニ朝を建てる。
ウズベク人がいつ頃その民族形成をとげたか、必ずしも明らかではないが、キプチャク=ハン国のモンゴル人が遊牧トルコ化したものと考えられており、ウズベクの名は14世紀のキプチャク=ハン国のウズベク=ハンにちなんでいる。15世紀中ごろ、イスラーム教スンナ派を信奉し、ジュチの子孫と称するアブル=ハイル=ハンはウズベク人を率い、現在のカザフスタンの草原地帯から南下してティムール帝国領のシル川沿岸を奪い、大きな勢力となった。ところがその死後、ウズベク人の国は二つに分裂して、ハンに反発した集団は天山山脈西部で分離し、ウズベク・カザク(カザクとは冒険者の意味)と言われるようになった。これが現在のカザフ人の直接の先祖である。
シャイバニ朝
これによって一時弱体化したウズベク人の国家は、15世紀の末、アブル=ハイルの孫のシャイバニ(シャイバーニー=ハン)にによって再統一され、ティムール朝のサマルカンド政権を1500年に、ヘラート政権を1507年に滅ぼして西トルキスタンのマー=ワラー=アンナフルにシャイバニ朝(シャイバーン朝)を建国した。こうしてウズベク人は西トルキスタンに移住して定住するようになり、チャガタイ=トルコ人やイラン系の先住民と同化しながら、現在のウズベク人となっていった。ブハラ=ハン国
シャイバニ朝は、16世紀後半から都をブハラに遷し、その後ウズベク人の王朝がいくつか交替したがそれらを総称してブハラ=ハン国と称している。その後、ロシアの中央アジア進出が強まり、1868年にはブハラ=ハン国はロシアの保護国となった。その後、トルコ民族主義運動であるジャディードの運動が起こり、ロシア革命後の1920年のブハラ革命でブハラ=ハン国は滅亡した。<間野英二『中央アジアの歴史』1977 講談社現代新書などによる>ウズベク=ソヴィエト社会主義共和国
ウズベク人がトルキスタンに建設し、ソ連邦を構成する社会主義共和国。
1924年にウズベク社会主義共和国としてソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を構成する社会主義国の一つとなった。旧ロシアが支配していたトルキスタンのトルコ系ウズベク人の居住地とされることろに線引きされて成立した。かつてのブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国を含み、首都はタシケント。ソ連統治のもとでは、綿花の生産に特化された農業地帯とされていた。
ソ連邦の崩壊に伴って1991年に分離独立し、ウズベキスタン共和国となった。現在では、中央アジア5ヵ国の中で最も人口も多く、その中心的な存在となっている。
ソ連邦の崩壊に伴って1991年に分離独立し、ウズベキスタン共和国となった。現在では、中央アジア5ヵ国の中で最も人口も多く、その中心的な存在となっている。