北京議定書/辛丑和約
1901年、義和団事件後に清朝政府が列強と締結した取り決め。賠償金の支払い、外国軍隊の北京駐留などが認められた。
その年の干支から辛丑(しんちゅう)和約、辛丑条約ともいう。1901年9月、義和団事件(北清事変)の終結に際して北京において清朝政府の李鴻章と11ヶ国(出兵した8ヶ国=イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本に、ベルギー・オランダ・スペインが加わる。)との交渉の結果締結された講和条約。以下のような規定であった。
盧溝橋事件の起こった盧溝橋のある宛平県は、外国軍の駐屯が認められた12ヶ所には入っていなかったが、列強の協議によって駐兵個所は増減させることができた。宛平県はイギリスが一度駐兵したことがあったので、日本軍はその前例を利用して駐留していた。<以上、川島真『中国近現代史② 近代国家への模索1864-1925』2010 岩波新書 p.51-54 などによる。>
- 謝罪と事変責任者の処罰:ドイツ公使ケテラー殺害の謝罪として大使をドイツに派遣しドイツ皇帝に対し「惋惜」(わんせき。残念なことを惜しむの意味)を示す祈念碑を殺害現場に建てること。同じく殺害された日本公使杉山琳にたいして惋惜の意を示す特使を派遣すること。王族や高官で義和団に同調した者を死刑とし、義和団不支持を表明して西太后に処刑されたものの復権をはかること。
- 賠償金4億5千万両(テール)の支払い:この賠償金は金貨で支払い、1902年~40年までの39年間、年利4分で支払うことになっていた。清朝にとって大きな負担となったばかりでなく、清朝滅亡後は中華民国に継承され、1940年に元利あわせて10億両(約50兆円)の支払いが終わった。
- 軍隊駐留権の承認:義和団の攻撃に際し、外国の外交官・キリスト教徒が籠城した東交民巷を、以後は公使館区域とし中国人に居住権を与えず、公使館警察の管轄下に置き、防衛のために常駐の護衛兵を置く権利を認めること。また、北京から天津に至る交通を維持するために12ヶ所の占領が認められた(事実上の駐兵権獲得)。
- 外務部の設置:従来清朝の外交事務担当であった総理各国事務衙門(総理衙門)を外務部と改め、他の六部の上位に置くこと。
- 治外法権撤廃の道筋:北京議定書第12条で、清の法制整備を条件に治外法権の撤廃への道筋が示された。中国にとっても不平等条約改正は重要な外交努力となっていった。
ロシアの居座りと日英同盟
ロシアは義和団事件に乗じて満州を占領したが、1901年になっても撤兵しなかった。イギリス、日本などの非難が起こると、ロシアは独自に李鴻章と交渉して露清密約で既得権益の確保を図ったが、1901年11月7日に李鴻章が病没したため実現しなかった。しかしロシアはなおも満州から撤兵せず、それを受けて1902年1月、イギリスと日本は日英同盟(第一次)でイギリスは日本の朝鮮での特殊権益を認め、同盟関係を結んだ。ロシアは同年4月、清との間で満州還付条約を締結して1年半で段階的に撤兵することを約束したが、清に対しても条件を付けたため実施はされず、日露間の緊張が高まり、1904年の日露戦争へと向かっていった。北京駐留日本軍のその後
この北京議定書で清朝が認めた外国の軍隊駐留権に基づき、各国は北京・天津に軍隊を駐留させた。各国はその後ほぼ撤退したが、日本はその後も邦人保護を名目に支那駐屯軍(初めは清国駐屯軍)を天津を本部として駐留を続け、遼東半島の関東軍と並んで日本の中国侵略の先兵となった。1935年に華北分離工作を行って冀東防共自治政府(日本軍が中国の河北省東部に設けた傀儡政権)を樹立したり、1937年に盧溝橋事件を起こした日本軍とはこの支那駐屯軍である。盧溝橋事件の起こった盧溝橋のある宛平県は、外国軍の駐屯が認められた12ヶ所には入っていなかったが、列強の協議によって駐兵個所は増減させることができた。宛平県はイギリスが一度駐兵したことがあったので、日本軍はその前例を利用して駐留していた。<以上、川島真『中国近現代史② 近代国家への模索1864-1925』2010 岩波新書 p.51-54 などによる。>