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朝貢/朝貢貿易

中国の王朝に対する周辺諸国の貢物の献上と、それに対する皇帝からの下賜という形態をとる一種の貿易。中国王朝が周辺諸国との冊封体制を結ぶという国際関係の秩序の下で行われた。漢・三国時代・唐で盛んに行われ、宋・元・明・清でも継承された。明・清は朝貢貿易を進める一方で民間貿易に対しては海禁策を基本としていた。

 高度な文明を誇り、強大な国力を持った国家に対し、その文明の影響を受けながら国家形成を進めた周辺の諸民族の統治者が、その統治権を認めてもらうために、使節を送り、財物や奴隷などを貢ぎ物として差し出すこと。その見返りとして、王号や官職を授与される(冊封体制)。中国の各王朝に対する朝鮮や日本などの東アジア諸国、ベトナムなどの東南アジア諸国、中央アジアの西域諸国などが行ったのがそのような朝貢である。

朝貢貿易の意味

 中国を中心とした朝貢関係は、「中華」(世界の中心で栄えている国の意味、中華思想)たる中国王朝が、周辺の「蛮夷」に対して恩恵を施す、という理念によって成り立っている国家間の関係であるとともに、貿易の一形態でもあり、朝貢品と下賜品の交換という経済行為でもあった。
 したがって朝貢はあくまで上位の国(中国の王朝)に対する下位の国(冊封を受けた国)による「貢進」、つまり貢ぎ物を進呈する行為であり、上位の国は「中華」であることを自覚している場合にあてはまる。中国の王朝でも力関係が逆転したケースとして漢が匈奴帝国に毎年の貢ぎ物(歳幣)を送っていたことがあるが、これは匈奴帝国側に中華意識があったとは言えないので、朝貢には当てはまらない。また澶淵の盟で北宋は契丹(遼)に銀と絹を歳幣として納めたが、この場合は契丹(遼)に中華の自意識があったとはいえ,両国は対等な関係であったので朝貢とは言えない。南宋と金の関係では南宋は金に対し臣下の礼をとって歳幣を送っているが、一般にはこの場合も朝貢とはされない。この項目で「中国の王朝でも力関係が逆転すれば、匈奴帝国や遼、金などの北方民族の遊牧国家に朝貢したこともある」と書いていたが、明らかに誤りなので訂正します。<代々木ゼミナール教材研究センターの越田氏の指摘による>

朝貢貿易から民間貿易へ

 唐の時代は唐を中心とした国際秩序が出来上がり、貿易も朝貢の形態を取っていたが、9世紀後半から唐の衰退が明らかとなり、894年に日本の遣唐使も停止される。五代十国の争乱が始まると、国際秩序にも変化が生じ、中国の周辺民族の活動が活発となっていった。中国は一応のところ宋が統一を再現したが、この時代は宋の国際的な求心力は弱まり、北方民族や東アジアの高麗、日本などがそれぞれ独自のあゆみを強めていった。宋の時代は朝貢という形態に代わって、民間レベルでの交易が活発となり、宋銭は国際通貨としての役割も担った。

元の貿易活動

 北方民族の征服王朝である遼、金、元では、従来の中華意識による朝貢貿易よりも、自由な交易が行われ、内陸のルートや海上ルートでのイタリア商人やムスリム商人の活動に見られるように、世界的な規模での交易が展開された時代であった。

明の朝貢貿易

 次の明の成立によって、東アジアの交易は再び朝貢貿易という形態を採ることとなった。洪武帝は皇帝の専制化とともに、外国貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなることを恐れ、倭寇を防止して海禁(海外との自由な取引や渡航を認めない)政策を採る一方、権威主義的な朝貢貿易を復活させ、周辺諸国に勘合符を与え、それを所持する船のみに交易を認める勘合貿易を始めた。永楽帝の時には鄭和艦隊の派遣にみられるような朝貢貿易の拡大を図り、当時、中国に朝貢する国は三十余国に及んだといい、朝貢貿易の全盛期となった。積極的に明との朝貢貿易を行ったのが東アジアでは琉球王国、東南アジアではマラッカ王国であった。
日明の勘合貿易 日本の室町幕府との間で1404年に始まった日明貿易も、将軍足利義満が日本国王に封じられるという冊封関係をむすび、日本が朝貢するという朝貢貿易の形をとった。それによって倭寇(前期倭寇)の活動は抑えられた。しかし、永楽帝の死後、明は朝貢貿易の縮小政策に転じた。
北虜南倭 16世紀の後半になると、明は北虜南倭に悩まされるようになったが、それはモンゴルの侵攻に対応するために万里の長城の修復などの費用として銀の需要が増え、折から増産が始まった日本銀の需要が高まったにもかかわらず海禁策によって自由に銀の輸入ができず、倭寇という形で密貿易が増大した、と考えられている。

清の朝貢貿易と互市貿易

 次の清朝も貿易の原則は海禁であり、貿易は朝貢貿易で管理しようとした。特に清初は台湾の鄭氏政権に打撃をあたえるため、きびしい海禁政策をとっていたが1683年に鄭氏政権をほろぼしたので、海禁は解除された。そのころになると、周辺のアジア諸国だけでなく、ヨーロッパ諸国との関係が始まったが、その中でロシアとは例外的に1689年のネルチンスク条約で対等な貿易を認めた。
互市貿易 中国沿岸の海港へのヨーロッパ船の来港が増えると、清朝は外交関係の伴う正式の朝貢貿易とは別に、港に海関を置いて民間貿易を行うことを認めるようになった。このような民間貿易は「互市貿易」といい、清朝は国としての朝貢貿易と民間の互市貿易という貿易の二元管理をおこなっていたといえる。
 1757年、乾隆帝は民間貿易の利益を清朝が独占するため、貿易港を広州一つに限定し、公行に貿易を管理させることにした。これを機にヨーロッパ諸国との貿易額も急増した。中国からは生糸、陶磁器、茶などが特産品として盛んに輸出され、その対価として銀がさらに中国にもたらされ、銀は通常通貨として流通し、税の銀納(地丁銀)も一般化した。
 18世紀後半は、イギリスの産業革命が進行し、海外市場の拡大と原料をもとめて自由貿易主義が強まると、イギリスは1793年のマカートニー使節団を初めとする使節団を清朝に派遣し、制限のない自由貿易の要求するようになった。しかしそのような国家間の関係においては朝貢貿易、つまり臣下の礼を取ることをでしかしか認めない清朝政府は交渉を拒否することとなる。さらにアヘンの密貿易の拡大から1840年にアヘン戦争となり、その敗北によってイギリスと締結した南京条約によって公行の廃止や広州以外の5港の開港を約束し、長い朝貢貿易の形態は消滅する。
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