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日朝修好条規/江華条約

1876年、前年の江華島事件での日本の軍事的威圧のもとで朝鮮王朝との間に締結された。第一項で「朝鮮は自主の邦」と規定したほか、釜山など三港を開港、日本の治外法権を認める不平等条約であった。朝鮮王朝は日本との関係では開国したが、清を宗主国としていたので西欧諸国との開国は拒否した。

 1975年9月の江華島事件の結果、1876年2月に日本の明治政府の圧力のもとで朝鮮王朝(李朝)の閔氏政権との間で締結された通商条約。江華条約ともいう(江華島条約と言うことも多い)。
 日本側は全権大使黒田清隆、副全権井上馨が艦船6隻、陸兵200を率いて江華島に至り、さらに陸軍卿山県有朋は二個大隊を率いて下関に待機し、朝鮮と開戦の場合に派遣する態勢をとった。日本側は開戦を覚悟し、備えていたことになる。朝鮮側の閔氏政権は接見大官と副官を任命して交渉に当たらせたが、日本側の武力を背景とした威嚇によって、ほぼその条約案のまま調印することとなった。この強硬な姿勢を背景とした談判のやりかたは、かつてペリーが浦賀において江戸幕府と談判した日本の開国のやり方と同じやり方であり、明治政府はそれを学んでいたのだった。

日朝修好条規の内容

 日朝修好条規に基づき、同年中に付則や貿易規則が調印されたがそれらを含めて朝鮮はこの不平等条約の下で開国することとなった。日朝修好条規の内容は次のようなものである。
  1. 朝鮮国は「自主の邦」と明記。   
  2. 外交使節の首都派遣。   
  3. 釜山ほか二港の開港と自由貿易。   
  4. 開港場における居留地の設定。   
  5. 領事による居留民の管理。   
  6. 開港場における領事裁判権。   
  7. 朝鮮沿海の測量・海図作成の権利。   
  8. 開港場から四キロ以内への内地旅行、通商権。   
  9. 開港場における日本通貨の使用。   
  10. 朝鮮からの米穀輸出の自由。   
  11. 輸出入税の免除(無関税)。   

「朝鮮は自主の邦」であると明記 第一項で「朝鮮は自主の邦」であると明記したことは、朝鮮王朝が清を宗主国とする属国であることを否定しており、日本が強く主張するところであった。しかし朝鮮側は従来から属国であっても外交では独自の判断が認められていたとして、これによって清との関係が否定されたとは考えなかった。朝鮮は自主独立の国家として日本と国交を結んだ、という意識は薄く、むしろ江戸時代の朝鮮通信使の派遣と日本からの答礼という日本との関係が幕末にしばらく途絶えていたので、再開するという認識であった。そのように解釈することで自らも納得し、清にもそのように説明したものと思われる。この規定は朝鮮の宗主国である清を刺激する規定であったが、清もあまり重視しなかった。しかし、この解釈のズレはのちの日清戦争で表面化することとなる。
不平等条約としての内容 この条約が不平等条約であったことは、第6項で日本の領事裁判権が認められたこと、つまり朝鮮側が治外法権を認めたところに見られる。これは日本側だけに認められる片務的な規定だった。関税については、第11項で無関税とされたので、朝鮮側が関税を書けることはできない規定であり、関税自主権を欠いたと言うことになる。なお、後の1882年に朝鮮がアメリカと締結した朝米修好通商条約では関税規定が設けられたので、日本もそれに従い、無関税は改められた。

西欧諸国との開国交渉

 事実、朝鮮王朝政府は、日本に対しては開国したものの、それ以外の欧米各国との開国交渉は拒否している。それは日本と違って欧米諸国はそれまでも外交関係がなく、夷狄の国であるので国交には宗主国である清の了解が必要だから、という理由であった。ところがその清はすでに開国しているのだから、この理屈は通らなかった。清の李鴻章も日本だけが朝鮮と国交を持つのは、ロシアの進出が危ぶまれることからみても不利であり、アメリカ・イギリスなども引き込む必要があると考え、朝鮮に日本以外の諸国との開国を要請した。その結果、1882年5月の朝鮮とアメリカの朝米修好通商条約を手始めとして、1886年までに清・イギリス・ドイツ・イタリア・ロシア・フランスとの間で同様の条約が締結された。内容はほぼ日朝修好条規と同じ不平等なものであった。これらを「第二の開国」というが、実質的には朝鮮の開国は1882年とするのが正しい。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.57-59>

Episode 黒田清隆とガトリング銃

 1876(明治9)年、朝鮮に対して開国を迫った日本の明治政府代表、弁理大使黒田清隆は、軍艦日進以下6艦を率いて来航し、江華島に儀仗兵約200名と、ガトリング砲4門を装備した砲兵45名とともに上陸した。軍艦日進は佐賀藩がオランダから購入した1468トンの艦船で明治政府に献上されたものであった。またガトリング砲とは1862年にアメリカで発明された、6本の銃身を人力で回転させながら1分間に200発程度発射できる、最新式の兵器であった。日本は最新の西洋式軍備で、朝鮮に対して開国を迫った。それは4隻の艦船を率い、銃を持たせた250名の儀仗兵を久里浜に上陸させたペリーと同様であった。ガトリング砲は日本では戊辰戦争で長岡藩や薩摩藩が使用したが、初めて軍事的近代化の遅れた地域に向けて用いられたのは1874年、79年のイギリスのアフリカのアシャンティ人やズールー人との戦闘であった。日本がこの近代的な武器で朝鮮を威嚇したのは欧米と時差はなかった。<鈴木淳『日本の歴史』20 2002 講談社 p.122-125>

日本にとっての江華条約締結

 江華島事件をめぐる交渉が進められていた時期、日本の明治政府の中には、征韓論(外征論)と内地優先論が対立していた。征韓論者の代表は西郷隆盛であり、内治優先論の代表は同じ薩摩の大久保利通であった。しかし大久保の内治優先というのは欧米を視察してきた結果として日本が対外戦争をするだけの国力と国際的な立場にはない、という判断に立ったもので、当面は戦争は回避するべきと言う主張だった。大久保も新生国家日本の存続には周辺の朝鮮と中国に対して優位に立つことが必要という思想は共有していたので、朝鮮に対する強硬な姿勢で開国を迫ることは厭わなかった。江華島事件はそのような大久保政権の姿勢によって造り出されたものであった。
 同時に政権の維持のためには西郷らの征韓論も抑える必要がある。そこで大久保は、全権大使として西郷に近い同じ薩摩の黒田清隆を任命、西郷派の切り崩しを図った。そして戦争は回避しながら威圧によって要求を通すという狙いは、朝鮮側で73年に対外強硬論者の大院君の政権から、開国に傾いていた閔氏政権に交代していたこともあって成功した。それは江華島事件の前年の1875年の台湾出兵に続き清との外交交渉を日本有利にまとめ上げた大久保外交の成功であり、征韓論を掲げて政府中枢に反旗をひるがえす西郷隆盛らを敗北に追いこむ狙いであった。
(引用)1876(明治9)年3月に締結された江華島条約は近い将来における日清韓三国関係に新たな火種を残すものであったが、日本国内においては、1873千以来二年余にわたって「旧革命軍」によって主張されてきた「外征論」に終止符を打ったものでもあった。1874年の日清両国間互換条款(台湾出兵の結果として締結され、清が琉球の日本帰属を事実上認めた)によって当面は清国との紛争の種はなくなった。いままた、1876年の江華島条約によって日韓両国間の紛争点も、当面の間は存在しなくなった。西郷隆盛を中心とする「旧革命軍」には、国内の「敵」に続いて近隣諸国にも、「鎮圧」すべき「敵」が存在しなくなったのである。<坂野潤治『日本近代史』2012 ちくま新書 p.149>
 1876年、参議兼内務卿大久保利通は、太政大臣に「国本培養に関する建議書」を提出、それは明治国家の基本方策を「富国」(強兵ではない)におくべきであることを提言し「外征」論を否定した。それに対して「外征」派の西郷は、あくまで抵抗し、「内戦」に打って出た。それが翌1877年の西南戦争だった。

日朝修好条規続約

 開国後の朝鮮では、閔妃政権の下で開化派が登用され改革が行われたが、貿易開始によって米価その他の物価が騰貴するなど民衆生活が圧迫されたことから1882年7月、兵士と民衆が蜂起して壬午軍乱が起こり、日本公使館などが焼き打ちされた。このクーデタは清の介入に鎮圧され、8月には日本と朝鮮との間では賠償金・日本公使館保護のための日本軍駐留などを定めた済物浦条約が締結された。
 同時に日朝修好条規続約が調印され、釜山・元山・仁川の開港場における日本人商人の活動域を50里(20km)に拡張すること(2年後にさらに100里に拡張)、漢城近郊の揚花津を開市すること、日本人外交官の内治旅行券を認めることが定められた。