アルヘシラス会議
第1次モロッコ事件に際しドイツの要請で1906年に開催されたモロッコ問題に関する国際会議。ドイツはモロッコのフランス権益排除を狙ったが、イギリスその他の出席国がフランスを支持したためそのねらいは実現できなかった。次いで1911年に第2次モロッコ事件が起きる。帝国主義列強による植民地分割協議の一例。
1906年1月、前年のモロッコ事件(タンジール事件)でのフランスとドイツの衝突した問題を解決するために、ドイツのヴィルヘルム2世が国際会議開催を要求、フランスもそれに応じ、調停役としてアメリカのアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの出席、当事者のモロッコ王国のスルタン政府が参加、ドイツとフランスの他に関係国のイギリス、スペイン、ロシア、オーストリア=ハンガリーなど11カ国代表が出席した。アルヘシラスはスペインの港町で、イベリア半島とアフリカ大陸の間、地中海の出入り口に当たるジブラルタル海峡に面している。
POINT 英仏協商による植民地分割に抗議するドイツが、世界政策の一環としてモロッコ出兵をはかるとともに国際会議で自己の主張を通そうとした。モロッコに野心を持つイギリス、フランス、スペイン、イタリアなどの帝国主義諸国が会議に参加し、独仏間のでの衝突の回避を名目に、権益を調整しあった。その結果、ドイツのフランス権益を排除しようとしたねらいは失敗し、フランスがモロッコ優先権を認められ、モロッコ保護コック化を実現した植民地分割競争の一つ。
ドイツは、強硬策と同時に国際会議でドイツの正当性を訴えようと、国際会議開催を要求した。フランスは当初、国際会議には反対したが、戦争を避けるためとして応じることとなり、モロッコ問題を協議するためにアルヘシラスで国際会議が開催されることとなった。
しかしドイツの見通しははずれ、アメリカはイギリスと共にフランス支持に回り、イタリアもすでにフランスとの関係を修復していたのでフランス側につき、オーストリア=ハンガリーさえもドイツを支持したものの主局的だった。どちらに向くか注目されていたロシアは、日露戦争後の再建と革命鎮圧のための資金をフランスに依存していた事情があって、ドイツに味方できなかった。
こうしてドイツの国際会議での解決というもくろみは崩れ、モロッコに関するフランスの優越権を排除する目的はすべて失敗に終わった。4月7日にアルヘシラス条約(議定書)が調印され、第1次モロッコ事件は、当初のドイツ皇帝の思い切った行動にもかかわらず、外交抗争での敗北に終わった。これはドイツ外交の失敗だけでなく、三国同盟の足並みの乱れが露呈したことで、ドイツの国際的孤立を明らかにする結果となった。アジアにおいてロシアが日露戦争に敗北したことで、ロシアはイギリスの仮想敵国でなくなり、ドイツが新たな脅威となってきたことをイギリスが自覚した結果だったとも見ることができる。<義井博『ヴィルヘルム2世と第一次世界大戦』2018 清水書院 p.88-90>
モロッコ王国も参加した会議では、モロッコ王国の独立及び機会均等・門戸開放の原則が確認され、表面的にはドイツの主張は認められた。またドイツの主張に添って参加国が平等に出資してモロッコ国立銀行を設立することも決められた。
POINT 英仏協商による植民地分割に抗議するドイツが、世界政策の一環としてモロッコ出兵をはかるとともに国際会議で自己の主張を通そうとした。モロッコに野心を持つイギリス、フランス、スペイン、イタリアなどの帝国主義諸国が会議に参加し、独仏間のでの衝突の回避を名目に、権益を調整しあった。その結果、ドイツのフランス権益を排除しようとしたねらいは失敗し、フランスがモロッコ優先権を認められ、モロッコ保護コック化を実現した植民地分割競争の一つ。
第1次モロッコ事件での独仏対立
1905年3月に起こった第1次モロッコ事件(タンジール事件)は、まず前年の1904年に英仏協商が成立し、フランスがモロッコ支配権をイギリスに認められたことへのドイツの反発があった。フランスが実際にモロッコに出兵したことを受け、ドイツのヴィルヘルム2世とその政府は、おりからフランスの同盟国ロシアが日露戦争で苦戦している状況の下、フランスのアフリカ侵出に対抗する機会と捉え、皇帝自ら艦隊を率いてタンジールに上陸し、フランスに抗議したものであった。ドイツは、強硬策と同時に国際会議でドイツの正当性を訴えようと、国際会議開催を要求した。フランスは当初、国際会議には反対したが、戦争を避けるためとして応じることとなり、モロッコ問題を協議するためにアルヘシラスで国際会議が開催されることとなった。
アルヘシラス会議
ドイツの要求にもとづき、1906年1月16日からジブラルタル近郊のスペイン領アルヘシラスで国際会議が開催された。ドイツの帝国宰相ビューローは、この会議でドイツ外交を有利に展開できると信じていた。参加国のうち、オーストリア=ハンガリーとイタリアは三国同盟の同盟国であるし、アメリカ合衆国はモロッコに対する門戸開放の要求を正当なものと受け入れるはずであり、そのアメリカがイギリスを動かしてくれるだろう、というのがその見込みであった。しかしドイツの見通しははずれ、アメリカはイギリスと共にフランス支持に回り、イタリアもすでにフランスとの関係を修復していたのでフランス側につき、オーストリア=ハンガリーさえもドイツを支持したものの主局的だった。どちらに向くか注目されていたロシアは、日露戦争後の再建と革命鎮圧のための資金をフランスに依存していた事情があって、ドイツに味方できなかった。
こうしてドイツの国際会議での解決というもくろみは崩れ、モロッコに関するフランスの優越権を排除する目的はすべて失敗に終わった。4月7日にアルヘシラス条約(議定書)が調印され、第1次モロッコ事件は、当初のドイツ皇帝の思い切った行動にもかかわらず、外交抗争での敗北に終わった。これはドイツ外交の失敗だけでなく、三国同盟の足並みの乱れが露呈したことで、ドイツの国際的孤立を明らかにする結果となった。アジアにおいてロシアが日露戦争に敗北したことで、ロシアはイギリスの仮想敵国でなくなり、ドイツが新たな脅威となってきたことをイギリスが自覚した結果だったとも見ることができる。<義井博『ヴィルヘルム2世と第一次世界大戦』2018 清水書院 p.88-90>
アルヘシラス条約
- 前文ではモロッコ王国(スルタン)の主権と独立、国家の保全、不平等なき経済的自由の三原則の確認された。これはドイツも主張した点である。
- しかし、第1章の警察組織に関する規定では、スルタンを支援するためという理由で、警察組織にスペインとフランスの教練士官・下士官をおくことがさだめられ、しかも管轄をスペインとフランスで分担することで、港湾都市を二国の管轄下に置いた。
- 第3章で国立銀行の設立が決まったが、国立銀行を通じてヨーロッパ各国の資本導入が可能となり、事実上はフランス資本の優位でモロッコ開発が行われるとが認められた。
モロッコ王国も参加した会議では、モロッコ王国の独立及び機会均等・門戸開放の原則が確認され、表面的にはドイツの主張は認められた。またドイツの主張に添って参加国が平等に出資してモロッコ国立銀行を設立することも決められた。
モロッコの反発
(引用)モロッコに利害乃至は関心を持つ英仏独伊西(イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・スペイン)は1906年アルケシラス(アルヘシラス)で会商し(1月7日~4月7日)、抜けがけの利益獲得を禁ずる機会均等、門戸開放の原則を決定し、開港地に警察を組織して治安を維持することにした。しかしこれはモロッコの民心を刺激し、反キリスト教徒の攘夷運動を発生させ、翌年にはマラケッシュで仏人医師モーシャンが殺害され、フランスはリオテーにモロッコ北部ウジュダを保障占領させた。7月30日カザ・ブランカでは土地の聖者の墓の近くをフランス側のバラスト車が穢したという理由から民衆の暴動が起こって仏西伊人各三人計九人が殺害され、フランスは一万五千の兵を派遣した。<山田吉彦『モロッコ』1951 岩波新書 p.43>