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ジブラルタル海峡・ジブラルタル

アフリカ大陸とイベリア半島の間がジブラルタル海峡。8世紀、イスラーム勢力は海峡を渡りイベリア半島に入った。1713年のユトレヒト条約で海峡に面したジブラルタルがイギリス領となる。現在もスペインとの間で領有問題が続いている。

ジブラルタル海峡 GoogleMap

 イベリア半島南端とアフリカ大陸との間の地中海の西端の海峡がジブラルタル海峡。古来、ヨーロッパと北アフリカの接点、地中海の出入り口として重要な位置にあった。ジブラルタル海峡に面したイベリア半島側のアルヘシラス湾に突き出た岬の一部は現在はイギリス領ジブラルタルとなっている。(つまり、ジブラルタル海峡とジブラルタルは意味が違うので注意すること。)
 ジブラルタル海峡の対岸はアフリカのモロッコで、セウタ(現スペイン領)とタンジール(モロッコ領タンジェ)がある。また、1805年のイギリス海軍がナポレオンの海軍を破ったトラファルガーの海戦はジブラルタル海峡の大西洋側入り口付近で戦われた。

古代~中世

 ジブラルタル海峡は地中海世界の出入り口を扼し、ギリシア人には「ヘラクレスの柱」として知られていた。最初に進出した東方の民族はフェニキア人で、ここから大西洋に抜け、ブリテン島の錫やアフリカ西岸の金などを得ていた。ついでカルタゴが進出しその勢力圏に入った。カルタゴはさらに大西洋側にも乗り出している。ローマ時代にも西端の要衝となった。ローマ衰退後、ゲルマン民族の一つのヴァンダル人がこの海峡を越えてアフリカに入り、旧カルタゴの地に王国を築いた。その後もヨーロッパとアフリカの間に横たわるこの海峡はしばしば大きな歴史の舞台に登場する。

イスラーム勢力の侵入

 711年にジブラルタル海峡を越えてイベリア半島にイスラーム勢力が侵入し、この地は1462年までイスラーム諸王朝の支配を受けることとなる。その後スペインが1492年にグラナダのナスル朝をほろぼしてレコンキスタ(国土回復)を完了させ、ジブラルタル海峡をはさんでキリスト教世界とイスラーム教世界が対峙することとなった。

大航海時代

 ポルトガルはすでに1415年、ジョアン1世の皇太子エンリケがモロッコ側のセウタを占領、新航路開拓に乗り出していた。1580年にポルトガルはスペインに併合されたので、セウタもスペイン領となり、ポルトガル独立回復(1640年)後もスペイン領にとどまった。

イギリスのジブラルタル占領

 スペイン継承戦争の際にはイギリス軍がジブラルタル海峡に面したアルヘシラス湾に突き出たジブラルタル半島に上陸し占領した。フランス・スペインの連合軍に対する攻撃拠点であると共に、西地中海への進出を目指したと思われ、海軍基地を建設した。戦争はイギリスなどの連合軍が勝利し、1713年の講和条約ユトレヒト条約でイギリスはミノルカ島とともにジブラルタル(半島)の割譲をスペインに認めさせた。
 ミノルカ島はその後、1802年にスペインが奪還したが、ジブラルタルは現在に至るまで、イギリス領土(厳密には保護領)として続いており、英語とポンドが使われ、二階建てバスが行き来している。当然スペイン政府は再三にわたって返還を要求しているが、イギリスは海軍基地を手放すことができず、返還は認められていない。

ジブラルタル海峡を巡る紛争

セウタをめぐるスペイン・モロッコ戦争 スペインは領有していたセウタでモロッコと境界紛争を引き起こし、1859~60年にモロッコに出兵、モロッコ戦争(アフリカ戦争とも言う)を引き起こした。モロッコには東隣のアルジェリアを1830年に植民地化したフランスも進出を狙っており、モロッコはイギリス、フランス、スペイン、さらにドイツという帝国主義諸国の激しい対立の舞台となり、ジブラルタル海峡も緊張も増していった。
モロッコ事件 1904年、英仏協商が成立してフランスのモロッコ支配とイギリスのエジプト支配が相互に認め合ったことに対して、ドイツ帝国のヴィルヘルム2世が強く反発し、翌1905年自らタンジールに上陸するというタンジール事件(第1回モロッコ事件)が起こった。このときは翌年のアルヘシラス会議で帝国主義諸国間の調停が成立したが、さらに1911年、ヴィルヘルム2世は再びジブラルタル海峡フィ書くのアガディールに海軍を派遣、フランスとの緊張が高まった(アガディール事件=第2次モロッコ事件)。このときはドイツが妥協し、フランスのモロッコ権益が確定したが、この英独の対立は第一次世界大戦の伏線の一つとなった。

Episode ジブラルタルの語源

 ジブラルタルという地名は、711年にイスラームのウマイヤ朝軍がヨーロッパに侵入したとき、アラブの遠征部隊指揮官ターリク・ブン・ジヤードがこの地に陣を敷き、その時に「ターリクの山」を意味する Jabal al-Tariq (ジャバル-アル-ターリク)といわれたのが語源で、スペイン語に転訛したものとされる。<フィリップ・コンラ『レコンキスタの歴史』文庫クセジュ による>
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