英仏協商
1904年成立のイギリスとフランスの帝国主義勢力分割協定。エジプトとモロッコの権益を相互に承認した。同様に東南アジアでも勢力圏分割で合意した。露仏同盟、英露協商とともに三国協商を構成する。帝国主義国家間の植民地分割協定の典型であり、第一次世界大戦の要因の一つでもあった。
1904年4月に成立した、イギリスとフランスの協定。内容はイギリスのエジプトにおける権益と、フランスのモロッコにおける権益を相互承認することなどを取り決めた、勢力圏分割協定であり、帝国主義国家間の世界分割の一端であった。これはすでに1894年に成立していた露仏同盟、および1907年の英露協商とともに、イギリス・フランス・ロシアの三国協商を構成する。
この英仏協商は限定的には1904年の協定をさすが、一般的にはそれを含めたこの時期のフランスとイギリスの親善関係全般を指している。具体的な内容は、エジプトとモロッコに関する次のような協定を中心としており、さらに東南アジアにおける勢力圏分割も協定された。
帝国主義的植民地分割 19世紀末に帝国主義的植民地競争が激化すると、英仏はアフリカでのファショダ事件のように対立がふたたび表面化した。一方アジアではイラン、アフガニスタン、さらに満州・朝鮮へのロシアの勢力拡大に備えて、1902年に日英同盟に踏みきり、それまでの孤立政策を捨てた。以上のような英仏の対立軸で動いてきた国際関係が、ドイツのヴィルヘルム2世の世界政策への転換、日露戦争でのロシアの敗北・革命運動の勃発、という情勢変化の中で、ドイツ包囲網を形成する英仏露の提携へと、大きく転換した。このように、英仏協商は20世紀の帝国主義的国際体制での対立軸を転換させるとともに、列強が分割協定によって植民地・勢力圏を相互に保障し合うという帝国主義国的植民地配体制を成立させたところに意義があった。
日露戦争後の日本 日露戦争後の国際関係の激変は、日本も無関係ではなかった。あれだけきびしい戦争を繰り広げた日本とロシアが、戦後は一転して1907年7月、日露協約を締結する。これは東アジアの勢力圏を両国が分割したもので、満州は南北で分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の優先権を相互に認めた。一方で日本はアメリカとの間で1905年、秘密協定として桂=タフト協定を締結、日本の朝鮮、アメリカのフィリピンへの支配権を相互に認めている。また1907年、日仏協約では日本の台湾、満州南部、韓国と、フランスのインドシナ(ベトナムなど)での権益を相互に認め合う植民地分割協定を結んでいる。
第一次世界大戦へ これらの日露戦争後の帝国主義的国際体制・植民地分割体制は、ヨーロッパにおいてバルカン問題を主要な対立点として、英仏露の三国協商と、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア(後に離脱)の三国同盟の二陣営の対立から、第一次世界大戦への向かうことになる。
英仏協商の成立
帝国主義政策を採るイギリスとフランスは19世紀末にアフリカ分割で衝突し、ファショダ事件が起こったが、その後ドイツのヴィルヘルム2世が世界政策を推し進め、モロッコなどのアフリカや中東への進出を強めてきたことをともに警戒するようになり、20世紀に入り両国は急速に接近することとなった。それは1904年、極東では日露戦争の勃発直後であった。フランスは露仏同盟によってアジア方面ではロシアと提携してイギリスに対抗しようとしていたが、日露戦争でのロシアの苦戦などの情勢から、イギリスとの提携に傾いた。協商の意味と内容
注意 「協商」の意味 英仏協商の協商とは Entente(アンタント)の訳で、商業上の約束ということではなく、全般的に協力し合おうという協定のこと。また漢字の「商」には「あきなう」という意味だけでなく「はかる、相談する」という意味もあり「協商」とは「協議し、相談する」という意味になる。この英仏協商は限定的には1904年の協定をさすが、一般的にはそれを含めたこの時期のフランスとイギリスの親善関係全般を指している。具体的な内容は、エジプトとモロッコに関する次のような協定を中心としており、さらに東南アジアにおける勢力圏分割も協定された。
- エジプト ムハンマド=アリー朝のエジプト王国については、イギリスはエジプトの法的地位を変更しないことを約し、フランスはエジプトの行動を妨害しないことを約束した。
- モロッコ フランスはモロッコの法的地位を変えないことを約し、イギリスはフランスの行動を妨害しないことを約束した。
この英仏協商でフランスのモロッコ進出が容易になったことに反発したドイツのヴィルヘルム2世は、翌年の第一次モロッコ事件を起こしてモロッコ進出を図ったが、成功しなかった。 - タイ(シャム) イギリスはビルマを併合し、フランスはフランス領インドシナを獲得しており、その中間にあったタイ(シャム)を巡って激しく抗争していた。この英仏協約では、チャオプラヤ川(メナム川)を境界線として西部をイギリス、東部をフランスの勢力圏とすることで妥協した。タイのラタナコーシン朝は両国のバランスをとりながら、名目的な存続を続けることができた。
英仏協商の意義
英仏協商は、20世紀初頭の日露戦争を契機に始まった、帝国主義諸国間の国際関係の変動の軸となるものであった。それまで、ヨーロッパにおける大国としてのイギリスとフランスは第2次英仏百年戦争ともいわれる植民地戦争を展開、産業革命期の1786年の英仏通商条約(1786)と、ナポレオン3世の時の1860年の英仏通商条約を締結したことはあったが、軍事的側面を持つ同盟関係を結ぶことはなかった。イギリス外交政策は大英帝国の繁栄をもとで「光栄ある孤立」を原則としていた。フランスは、普仏戦争の敗北いらい、新興国ドイツ帝国のビスマルク外交によるフランス包囲網からの脱却をめざし露仏同盟でロシアと接近していた。帝国主義的植民地分割 19世紀末に帝国主義的植民地競争が激化すると、英仏はアフリカでのファショダ事件のように対立がふたたび表面化した。一方アジアではイラン、アフガニスタン、さらに満州・朝鮮へのロシアの勢力拡大に備えて、1902年に日英同盟に踏みきり、それまでの孤立政策を捨てた。以上のような英仏の対立軸で動いてきた国際関係が、ドイツのヴィルヘルム2世の世界政策への転換、日露戦争でのロシアの敗北・革命運動の勃発、という情勢変化の中で、ドイツ包囲網を形成する英仏露の提携へと、大きく転換した。このように、英仏協商は20世紀の帝国主義的国際体制での対立軸を転換させるとともに、列強が分割協定によって植民地・勢力圏を相互に保障し合うという帝国主義国的植民地配体制を成立させたところに意義があった。
日露戦争後の日本 日露戦争後の国際関係の激変は、日本も無関係ではなかった。あれだけきびしい戦争を繰り広げた日本とロシアが、戦後は一転して1907年7月、日露協約を締結する。これは東アジアの勢力圏を両国が分割したもので、満州は南北で分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の優先権を相互に認めた。一方で日本はアメリカとの間で1905年、秘密協定として桂=タフト協定を締結、日本の朝鮮、アメリカのフィリピンへの支配権を相互に認めている。また1907年、日仏協約では日本の台湾、満州南部、韓国と、フランスのインドシナ(ベトナムなど)での権益を相互に認め合う植民地分割協定を結んでいる。
第一次世界大戦へ これらの日露戦争後の帝国主義的国際体制・植民地分割体制は、ヨーロッパにおいてバルカン問題を主要な対立点として、英仏露の三国協商と、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア(後に離脱)の三国同盟の二陣営の対立から、第一次世界大戦への向かうことになる。