ヴィルヘルム2世
第一次世界大戦時のドイツ帝国皇帝。1890年、ビスマルクを罷免し、皇帝主導の帝国主義的膨張策である世界政策(「新航路」)を展開して世界大戦の要因をつくり、1918年、敗戦によって退位した。
ドイツ帝国のホーエンツォレルン家第3代の皇帝。ヴィルヘルム1世の孫で母はイギリスのヴィクトリア女王の娘。1888年、29歳で即位した。ビスマルク首相を辞任させ、親政によってドイツの膨張政策を主導、イギリス・フランス・ロシアとの対立を深め、1914年7月に第一次世界大戦を引き起こすこととなり、その敗戦によって1918年11月10日にオランダに亡命した。 → ドイツ
ヴィルヘルム2世 在位1888-1918
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、日本では「カイザー」あるいは「カイゼル」の名で通っていた。そしてその先のはね上がった髭が目立ち、世界的に知られていたのでその髭のことを「カイゼル髭」と言われるようになった。カイザー(カイゼル)は固有名ではなく、ローマ帝国初期の皇帝がユリウス=カエサルの子孫であったため、いずれもそれを誇示して名前に必ずカエサルをつけたことから、カエサルがやがてローマ皇帝を意味する普通名詞になってしまい、神聖ローマ帝国とドイツ帝国でも皇帝の称号をラテン語のカエサルにあたる「カイザー」 と言った。同じようにロシア帝国ではツァーリが用いられた。カイザーはドイツ皇帝の称号だったが、ヴィルヘルム2世は19世紀末から第一次世界大戦にかけての新興ドイツ帝国を象徴する人物だったので、彼自身の固有名詞のように使われたのだった。<義井博『ヴィルヘルム2世と第一次世界大戦』2018 清水書院p.3-4>
そしてドイツ帝国最後のカイザーとなってしまった。彼はそのいかめしいカイゼル髭のイメージもあって、いかにも強大な権力欲をもつ帝国主義の権化のように思われ、第一次世界大戦の元凶とされているが、最近は実は大言壮語はするがいたって小心な人物だったと言われるようになった。昨今ではほとんど「カイゼル髭」を見かけなくなった。
そのような中、ヴィルヘルム2世は1896年に「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説、そこから、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策といわれるようになった。まず海軍の大拡張を計画し、1898年に第1次艦隊法、1900年に第二次艦隊法を成立させた。これはイギリスとの建艦競争をもたらすこととなる。また植民地獲得で後れを取っているドイツは、アフリカ進出と共に中東への勢力拡大を図り、いわゆる3C政策を立案した。しかしそれはイギリスの3C政策と共にロシアの南下政策とも利害を対立させることとなり、さらにバルカン方面での同じゲルマン系国家オーストリア帝国とのパン=ゲルマン主義にもとづく進出は、ロシア及びパン=スラブ主義諸国との鋭い対立をもたらした。これらの帝国主義列強の対立が第一次世界大戦へとつながるが、その最も直接的な要因はヴィルヘルム2世の「世界政策」に帰せられることが多い。
中国分割に参加 アジアにおいては中国進出を開始し、1895年にはロシア・フランスと共に日本に対する三国干渉を行って遼東半島を還付させ、1897年にドイツ人宣教師が殺害された事への報復という口実で出兵し、1898年に膠州湾の租借を認めさせ、積極的に中国分割に加わった。ドイツ資本の山東省への進出は、中国民衆を圧迫したことから、翌1899年に山東半島で義和団事件が起きた。義和団の反乱は北京に入って情勢が緊迫する中、1900年に駐清ドイツ公使ケッテラーが北京の公使館前で義和団と提携していた甘軍(甘粛省出身の反乱軍)に殺害されるという事件が起き、清朝政府もドイツなど8国に宣戦布告したため、北清事変と言われる戦闘となった。ドイツも出兵し、八ヵ国連合軍はドイツ軍のヴァルダーゼーを指揮官に義和団を鎮圧した。
日露戦争とドイツ その後のロシアの満州占拠に対してイギリスから同盟の打診もあったがその協議はまとまらず、イギリスは1902年、日英同盟に踏み切った。イギリスが“光栄ある孤立”を捨てたこの同盟はドイツを驚かせた。さらに1904年2月に日露戦争が勃発すると、ドイツはフランスと共にロシア支援を強化し、日本とイギリスの離反を図った。しかし、4月に英仏協商が締結され、イギリスとの提携は実現できなかった。ロシアがアジアでの戦争に集中することはドイツにとって有利なので、露仏同盟を結んでいるフランスを叩く機会と捉えた。それが第一次モロッコ事件である。
アルヘシラス会議 フランスではモロッコ侵出を進めていたデルカッセ外相は、ドイツとの戦争を決意したが、首相ルーヴィエは日本海海戦でのバルチック艦隊の敗北の知らせを受けて戦争は無理と判断、デルカッセ外相を辞任させ、解決を国際会議で図ることに合意した。こうして、ドイツの要求に従い、翌1906年1月に局面を打開するためスペインのアルヘシラスで国際会議が開催された。このアルヘシラス会議にはアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトとモロッコのスルタンの他、独仏以外にイギリス・スペイン・ロシアなどが参加する大規模なものであったが、ここで意外にもドイツの要求は通らず、列強はフランス支持に回るのが多かった。その結果、モロッコの主権は保障されることになったが、フランスとスペインの警察権行使なども認められ、フランスのモロッコ権益が残されたので、ドイツの外交は失敗に終わった。
第2次モロッコ事件 その後、フランスはモロッコに対し、反乱鎮圧を口実に再び出兵した。それに対してドイツ政府とヴィルヘルム2世は、1911年7月に今度はモロッコ南部のアガディールに艦隊を派遣、第2次モロッコ事件(アガディール事件)を引き起こした。しかし、ドイツの侵出を警戒したイギリスがすでに英仏協商に続き、1907年には英露協商を締結してドイツを包囲する三国協商ができあがっており、ドイツの孤立は明白となったため、ドイツはフランスと妥協してそのモロッコでの権益を認めた。フランスはそれをうけて翌1912年にモロッコを保護国化に踏み切った。
フランスとの関係悪化 第1次モロッコ事件の時にはフランスの外相デルカッセは対独開戦を決意したが、当時はドレフュス事件の影響もあって軍部への信頼が揺らいでおり、閣内で開戦反対の声が強く、アルヘシラス会議での協議に応じ、外交によって優位を守った。第2次モロッコ事件でもフランスはドイツを孤立させることに成功してモロッコ保護国化を達成した。これらはヴィルヘルム2世の外交の失敗ではあったが、ドイツ国内でのフランスへの敵対心を強めることになった。フランス第三共和政には、普仏戦争で敗れてドイツにアルザス・ロレーヌを割譲したことへの恨みが依然として残っていた。そのフランスとの関係悪化は、露仏同盟がすでにあったので、ドイツはビスマルクが最も恐れた東西両面での戦いを想定しなければならなかったが、ドイツ陸軍ではシュリーフェン計画を早くも1905年に策定し、東西での開戦の戦略を練り始めていた。
3B政策 ヴィルヘルム2世の世界政策とそれを可能にするための建艦競争は、イギリスとの対立も必然的にもたらした。1898年、ヴィルヘルム2世の打ち出した新たな帝国主義政策は、ベルリン→イスタンブル(ビザンティウム)→バグダードを結ぶ鉄道建設という構想となり、それは3B政策と言われた。1903年3月5日にはその一部のバグダード鉄道会社が設置された。ドイツの勢力の中東(西アジア)への拡大は、イギリスの3C政策と衝突するだけでなく、ロシアの南下政策とも対立し、帝国主義間のにらみ合いを厳しいもとしていった。
バルカン問題 ビスマルク時代の三国同盟はまだ有効であり、その一角であるオーストリアと結んでバルカン半島でのパン=ゲルマン主義を拡大することは、ロシア・スラブ系民族との衝突を予測させていた。ヴィルヘルム2世は1890年に独露再保障条約を更新しなかったことからロシアとの関係悪化は明確となっていたが、一方で1905年に独断でニコライ2世(二人はヴィクトリア女王との血縁関係があった)との間で密約を結んで提携しようとした。しかしこの二重外交はドイツ・ロシアとも内閣の反対で実現しなかった。モロッコ事件をめぐって対外政策での失策を重ねたドイツにとって、焦点は次にバルカン問題に移っていった。
1914年6月28日、サライェヴォ事件が起こり、オーストリア・セルビアが戦端を開くと、8月にはヴィルヘルム2世はロシア・フランス・イギリスとの戦争を開始、世界史上最初の世界戦争として第一次世界大戦となった。
ドイツ革命 降伏と亡命 しかし戦争の後半にはドイツの戦争の主導権は参謀本部の手に委ねられ、内政は議会多数派が実権を握り、ヴィルヘルム2世はそのいずれでにおいても実権を奪われていた。1918年にアメリカ大統領ウィルソンの休戦提案(14箇条)が発表されると、それ以前から急速に陸軍の戦意が落ちていたが、さらに11月、キール軍港の水兵反乱から社会民主党左派によるドイツ革命が勃発した。ヒンデンブルクとルーデンドルフらは政権を社会民主党の穏健派エーベルトにまかせ、イギリス・フランスとの講和を有利にするためにはヴィルヘルム2世の退位と亡命が必要と考え、皇帝に進言した。ヴィルヘルム2世は何の抵抗もせずそれを受け容れ、11月9日にオランダに亡命した。11月末には正式に退位し、ここにホーエンツォレルン朝は終わりを告げた。なお、バイエルンやザクセンなど、ドイツ帝国内の国王たちも、前後して退位し、ドイツの君主政は終わりを告げた。
Episode カイゼル髭
ヴィルヘルム2世 在位1888-1918
そしてドイツ帝国最後のカイザーとなってしまった。彼はそのいかめしいカイゼル髭のイメージもあって、いかにも強大な権力欲をもつ帝国主義の権化のように思われ、第一次世界大戦の元凶とされているが、最近は実は大言壮語はするがいたって小心な人物だったと言われるようになった。昨今ではほとんど「カイゼル髭」を見かけなくなった。
ヴィルヘルム2世の「新航路」
ヴィルヘルム2世は、1890年にもともとそりが合わなかったビスマルクを辞任させ、親政を開始して独自色をうち出した。まず、内政ではビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法の延長を認めずに廃止し、労働運動の弾圧や思想統制強化から国民の融和を図る姿勢に転換した。内政だけではなく、外交においても従来のビスマルク外交がすすめる勢力均衡をはかるよりも、世界におけるドイツの覇権を求めるという積極策に転じた。これら、内政から外交に渡るドイツの基本姿勢の転換を、ヴィルヘルム2世は、ビスマルクの政策を旧航路に喩え、自分の政策は「航路は従来のまま、全速前進」であると自ら述べた。それをもじって、ヴィルヘルム2世の政策は「新航路」Neuer Kurs といわれた。 → ドイツ黄禍論
ヴィルヘルム2世は、日本人をヨーロッパの白色人種と異なる劣等性をもつと同時に警戒すべき人種であると見ており、その見解をたびたび明らかにした。それは黄禍論といわれ、日本で強い反発を呼んだ。日本人に対する蔑視は19世紀後半でのアジアでの日本の勢力拡大に対する驚嘆と反感、アメリカでの日本人移民の増大などに対する不安などがまじりあって形成され、黄色人種である日本人の台頭を危険視する黄禍論となって現れた。それを公然と表明した一人がヴィルヘルム2世だった。その思想はアジアで日本と対立しているロシアを応援する姿勢となり、日清戦争後の1895年には三国干渉に加わった。その後、1902年に日英同盟が締結されると、イギリスと建艦競争を展開していたヴィルヘルム2世の反日感情は強まり、1904年に日露戦争が始まるとロシアを強く支持した。(引用)カイザー(ヴィルヘルム2世)はもともと日本を「東洋のプロイセン」とみなし、日清戦争の日本の勝利に関心を示していた。そこで、カイザーは日本の提示した講和条件に対して、最初はかならずしも過大と考えていなかったが、周辺のものから「黄禍(ゲルベ-ゲファール)」を鼓吹されると、突然、意見を変えた。カイザーの黄禍論に影響をあたえたひとりは、元清国公使ブラントである。彼はカイザーに向かって、日本があまり強大にならぬようにするためロシアを援ける必要があると説いた。カイザーはこの見解からどの程度の示唆を受けたか正確にはわからないが、ともあれ、カイザーは日清戦争のなかに白色人種との戦い、あるいはキリスト教徒と仏教徒との戦いの前触れを感じ、黄禍論が固められた。<義井博『前掲書』p.44>
ヴィルヘルム2世の「世界政策」
外交政策では、まずロシアとの独露再保障条約の更新も拒否した。これはドイツはそれまでのビスマルク外交の基本姿勢である、フランスを孤立させるための親英・親露路線を改め、独力で帝国主義の世界分割競争に積極的に関わることをめざすものであった。ドイツとの同盟関係が無くなったロシアは、フランスとの接近を試み1891年から1894年1月にかけて段階的に露仏同盟の締結を進めた。ビスマルクが最も恐れたドイツの東西を挟撃する同盟が成立したことになる。当時の最強の海軍力を誇るイギリスとは、ヴィルヘルム2世自身がヴィクトリア女王の孫であることもあって、表面的には良好だったが、1895年12月に南アフリカでセシル=ローズがジェームソン侵入事件で失敗したとき、トランスヴァール共和国のクリューガー大統領に祝電を打ってイギリスの反発を受けるなど、不用意な行動が目立った。その後もドイツの世界政策の行方によっては対立も予想される情勢だった。そのような中、ヴィルヘルム2世は1896年に「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説、そこから、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策といわれるようになった。まず海軍の大拡張を計画し、1898年に第1次艦隊法、1900年に第二次艦隊法を成立させた。これはイギリスとの建艦競争をもたらすこととなる。また植民地獲得で後れを取っているドイツは、アフリカ進出と共に中東への勢力拡大を図り、いわゆる3C政策を立案した。しかしそれはイギリスの3C政策と共にロシアの南下政策とも利害を対立させることとなり、さらにバルカン方面での同じゲルマン系国家オーストリア帝国とのパン=ゲルマン主義にもとづく進出は、ロシア及びパン=スラブ主義諸国との鋭い対立をもたらした。これらの帝国主義列強の対立が第一次世界大戦へとつながるが、その最も直接的な要因はヴィルヘルム2世の「世界政策」に帰せられることが多い。
中国分割に参加 アジアにおいては中国進出を開始し、1895年にはロシア・フランスと共に日本に対する三国干渉を行って遼東半島を還付させ、1897年にドイツ人宣教師が殺害された事への報復という口実で出兵し、1898年に膠州湾の租借を認めさせ、積極的に中国分割に加わった。ドイツ資本の山東省への進出は、中国民衆を圧迫したことから、翌1899年に山東半島で義和団事件が起きた。義和団の反乱は北京に入って情勢が緊迫する中、1900年に駐清ドイツ公使ケッテラーが北京の公使館前で義和団と提携していた甘軍(甘粛省出身の反乱軍)に殺害されるという事件が起き、清朝政府もドイツなど8国に宣戦布告したため、北清事変と言われる戦闘となった。ドイツも出兵し、八ヵ国連合軍はドイツ軍のヴァルダーゼーを指揮官に義和団を鎮圧した。
日露戦争とドイツ その後のロシアの満州占拠に対してイギリスから同盟の打診もあったがその協議はまとまらず、イギリスは1902年、日英同盟に踏み切った。イギリスが“光栄ある孤立”を捨てたこの同盟はドイツを驚かせた。さらに1904年2月に日露戦争が勃発すると、ドイツはフランスと共にロシア支援を強化し、日本とイギリスの離反を図った。しかし、4月に英仏協商が締結され、イギリスとの提携は実現できなかった。ロシアがアジアでの戦争に集中することはドイツにとって有利なので、露仏同盟を結んでいるフランスを叩く機会と捉えた。それが第一次モロッコ事件である。
(引用)ドイツは公式には中立を保ったが、背後ではロシアの戦争体制を積極的に支援した。一例を挙げるなら、バルチック艦隊がヨーロッパから遠路はるばる極東に回航する際、その先々で燃料を手配したのがドイツの巨大海運会社ハーパク社である。同社の社長アルベルト・バリーンはヴィルヘルム2世の知己であったことを付け加えておこう。<竹中亨『ヴィルヘルム2世』2018 中公新書 p.107>第1次モロッコ事件 フランスは英仏協商を締結して、イギリスのエジプト支配を認める代わりにフランスのモロッコ支配を認めさせるという取引をした。その上で1905年、モロッコのスルタンにフランスの警察権を認めることなどの過大な要求を突きつけた。すでにドイツのアフリカ進出が進められていたので、ヴィルヘルム2世はフランスのモロッコに対する要求に反発し、1905年3月に自ら軍艦を率いてモロッコにおもむき、タンジール港に上陸し、モロッコの主権尊重とフランスへの抗議を表明した。この第1次モロッコ事件(タンジール事件)は、世界を驚かせたが、ヴィルヘルム2世講堂の裏にあったドイツ政府の計算は、フランスの同盟国ロシアが日露戦争で苦戦しているので介入できないだろうと言うことであった。また英仏の植民地協定は国際的にも認められず、国際世論も味方するだろうと考えた。そこで極端な行動でアピールすると共に、国際会議の招集を要請した。
アルヘシラス会議 フランスではモロッコ侵出を進めていたデルカッセ外相は、ドイツとの戦争を決意したが、首相ルーヴィエは日本海海戦でのバルチック艦隊の敗北の知らせを受けて戦争は無理と判断、デルカッセ外相を辞任させ、解決を国際会議で図ることに合意した。こうして、ドイツの要求に従い、翌1906年1月に局面を打開するためスペインのアルヘシラスで国際会議が開催された。このアルヘシラス会議にはアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトとモロッコのスルタンの他、独仏以外にイギリス・スペイン・ロシアなどが参加する大規模なものであったが、ここで意外にもドイツの要求は通らず、列強はフランス支持に回るのが多かった。その結果、モロッコの主権は保障されることになったが、フランスとスペインの警察権行使なども認められ、フランスのモロッコ権益が残されたので、ドイツの外交は失敗に終わった。
第2次モロッコ事件 その後、フランスはモロッコに対し、反乱鎮圧を口実に再び出兵した。それに対してドイツ政府とヴィルヘルム2世は、1911年7月に今度はモロッコ南部のアガディールに艦隊を派遣、第2次モロッコ事件(アガディール事件)を引き起こした。しかし、ドイツの侵出を警戒したイギリスがすでに英仏協商に続き、1907年には英露協商を締結してドイツを包囲する三国協商ができあがっており、ドイツの孤立は明白となったため、ドイツはフランスと妥協してそのモロッコでの権益を認めた。フランスはそれをうけて翌1912年にモロッコを保護国化に踏み切った。
フランスとの関係悪化 第1次モロッコ事件の時にはフランスの外相デルカッセは対独開戦を決意したが、当時はドレフュス事件の影響もあって軍部への信頼が揺らいでおり、閣内で開戦反対の声が強く、アルヘシラス会議での協議に応じ、外交によって優位を守った。第2次モロッコ事件でもフランスはドイツを孤立させることに成功してモロッコ保護国化を達成した。これらはヴィルヘルム2世の外交の失敗ではあったが、ドイツ国内でのフランスへの敵対心を強めることになった。フランス第三共和政には、普仏戦争で敗れてドイツにアルザス・ロレーヌを割譲したことへの恨みが依然として残っていた。そのフランスとの関係悪化は、露仏同盟がすでにあったので、ドイツはビスマルクが最も恐れた東西両面での戦いを想定しなければならなかったが、ドイツ陸軍ではシュリーフェン計画を早くも1905年に策定し、東西での開戦の戦略を練り始めていた。
3B政策 ヴィルヘルム2世の世界政策とそれを可能にするための建艦競争は、イギリスとの対立も必然的にもたらした。1898年、ヴィルヘルム2世の打ち出した新たな帝国主義政策は、ベルリン→イスタンブル(ビザンティウム)→バグダードを結ぶ鉄道建設という構想となり、それは3B政策と言われた。1903年3月5日にはその一部のバグダード鉄道会社が設置された。ドイツの勢力の中東(西アジア)への拡大は、イギリスの3C政策と衝突するだけでなく、ロシアの南下政策とも対立し、帝国主義間のにらみ合いを厳しいもとしていった。
バルカン問題 ビスマルク時代の三国同盟はまだ有効であり、その一角であるオーストリアと結んでバルカン半島でのパン=ゲルマン主義を拡大することは、ロシア・スラブ系民族との衝突を予測させていた。ヴィルヘルム2世は1890年に独露再保障条約を更新しなかったことからロシアとの関係悪化は明確となっていたが、一方で1905年に独断でニコライ2世(二人はヴィクトリア女王との血縁関係があった)との間で密約を結んで提携しようとした。しかしこの二重外交はドイツ・ロシアとも内閣の反対で実現しなかった。モロッコ事件をめぐって対外政策での失策を重ねたドイツにとって、焦点は次にバルカン問題に移っていった。
Episode デーリー・テレグラフ事件
1908年10月28日付のロンドンの新聞デーリー・テレグラフにヴィルヘルム2世の会見記が掲載された。皇帝はこの会見記で、ブール戦争(南アフリカ戦争)の時、露仏両国から干渉しようと持ちかけられたが断ったとか、同じくブール戦争の時、私が作戦計画をイギリスに教えたのだとか、ドイツが行っている艦隊建設は日本を仮想敵国としたものだとか発言し、それらがことごとく記事になった。皇帝は建艦競争で気まずくなったイギリスとの関係を修復するつもりだったらしいが、これらの発言はドイツ国内でも国外でもひんしゅくを買い、皇帝は当時の宰相ビューローに対して、憲法を尊重して発言を慎む旨を誓約させられた。第一次世界大戦
このようなヴィルヘルム2世のドイツ帝国の動きは、イギリス・フランス・ロシアは提携を強めることとなった。この三国は、1891年~1904年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商という三つのブリッジによって結びつけられた三国協商として、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(後にイタリアは離脱)との間の対立は次第に深刻になっていった。1914年6月28日、サライェヴォ事件が起こり、オーストリア・セルビアが戦端を開くと、8月にはヴィルヘルム2世はロシア・フランス・イギリスとの戦争を開始、世界史上最初の世界戦争として第一次世界大戦となった。
ドイツ革命 降伏と亡命 しかし戦争の後半にはドイツの戦争の主導権は参謀本部の手に委ねられ、内政は議会多数派が実権を握り、ヴィルヘルム2世はそのいずれでにおいても実権を奪われていた。1918年にアメリカ大統領ウィルソンの休戦提案(14箇条)が発表されると、それ以前から急速に陸軍の戦意が落ちていたが、さらに11月、キール軍港の水兵反乱から社会民主党左派によるドイツ革命が勃発した。ヒンデンブルクとルーデンドルフらは政権を社会民主党の穏健派エーベルトにまかせ、イギリス・フランスとの講和を有利にするためにはヴィルヘルム2世の退位と亡命が必要と考え、皇帝に進言した。ヴィルヘルム2世は何の抵抗もせずそれを受け容れ、11月9日にオランダに亡命した。11月末には正式に退位し、ここにホーエンツォレルン朝は終わりを告げた。なお、バイエルンやザクセンなど、ドイツ帝国内の国王たちも、前後して退位し、ドイツの君主政は終わりを告げた。
Episode ヴィルヘルム2世の人物像
ヴィルヘルム2世は単純な好戦的人物と思われがちであり、彼の個人的資質に第一次世界大戦の原因の一つとする見方も強いが、次のような人物評があることを紹介しておこう。(引用)(第1次モロッコ事件の時)結局、カイザー(ヴィルヘルム2世)は危機をまったく望まなかったし、ましてや戦争など望んでもいなかった。ヴィルヘルム2世は、ときおり口に出して不愉快で高飛車な発言を多くしたが、それとは逆に、彼は、本当は繊細で神経質、かつ平和愛好的な性格だった。彼はタンジールに派遣されるのをたいそういやがっていたし、その後そこから生じた危機のなかで、さらに思い切った行動に出るのにいつも尻込みしていたのだった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.95>同書によると、モロッコ事件を対フランス戦争のチャンスだととらえていたのは、ドイツ参謀本部の参謀長シュリーフェンであった。彼はすでに、ロシアの戦備が整わないうちにフランスに一撃を加え、反転してロシアにあたれば、東西二面作戦も可能であるという「シュリーフェン計画」を立案していた。
ヴィルヘルム2世の戦争責任問題
第一次世界大戦の休戦に伴い、連合国側には世界戦争の責任はドイツにあるとする見方が強まった。またドイツ軍の中立国ベルギーに対する侵攻とルシタニア号事件のような軍事行動は、戦争犯罪に当たるという声も上がり、その最終責任は皇帝ヴィルヘルム2世にあるとする国際世論も無視できないようになった。ヴェルサイユ条約の第226条以降はヴィルヘルム2世を国際司法裁判所に召喚することとなった。しかし、すでにヴィルヘルムは退位し、オランダに亡命していた。オランダは、政治的亡命者を引き渡すことは人道上できないとしてヴィルヘルムの身柄引き渡しを拒否、また当時は戦争責任を判断する明確な国際法が存在しなかったことから、ヴィルヘルム裁判は結局実施されなかった。そして国際世論も戦争責任の追及よりも賠償金の額や領土の獲得へと移っていった。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.60>