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セオドア=ローズヴェルト

アメリカ合衆国第26代大統領。19世紀末~20世紀初頭、外交ではアメリカ帝国主義政策を推進し、国内では資本の独占を抑制する革新主義をかかげた。1912年の選挙で革新党候補として臨んだが、民主党ウィルソンに敗れた。

T.ローズヴェルト

Theodore Roosevelt 1858-1919

 セオドア=ローズヴェルト Theodore Roosevelt 1858-1919 「ルーズベルト」とも表記。共和党マッキンリー大統領の副大統領を務めていたが、1901年9月6日、大統領が暗殺されたため、憲法の規定により大統領に昇格した。在職1901~09年。マッキンリーと同じく、19世紀末から20世紀初頭のアメリカ帝国主義政策を推進した大統領である。 → アメリカの帝国主義外交政策
 セオドア=ローズヴェルトは、共和党員として地方議員やニューヨーク市公安委員長などを務めていたが中央政界では無名であった。彼が脚光を浴びるようになったのは、1897年にマッキンリー大統領の下で海軍次官に抜擢されてからであった。彼は共和党に属し、熱心に海外膨張主義を主張し、特にカリブ海域への勢力拡大、中国市場に参画するためにハワイおよびフィリピンの領有を画策していた。彼の進めた膨張政策は1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)を実現させたが、彼はその際には義勇兵を率いてキューバに侵攻し、国民的な人気を獲得した。ついで1900年、共和党マッキンリー大統領の副大統領となった。

参考 1900年の大統領選挙

 19世紀の最後で、次の世紀の指導者を選出する大統領選挙は1900年に行われた。共和党からは帝国主義政策を推進したマッキンリーが再出馬、対抗する民主党からは40歳の若さが売り物のブライアンが立ち、フィリピンや中国への帝国主義進出を舌鋒鋭く批判した。それを受けて選挙戦の前線に立ったのが副大統領候補セオドア=ローズヴェルトだった。彼はまだ41歳、若い二人の舌戦が大統領選挙を大いに盛り上げた。セオドアは米西戦争では自ら義勇兵を率いてキューバに乗りこみ「帝国主義者」を自称して憚らず、「偉大な文明国の膨張は、常に、法と秩序と正義の勝利を意味する」と主張し、フィリピンをフィリピン人に返せというブライアンの主張に対しては「フィリピンをフィリピン人に返すなら、アリゾナをアパッチ族に返さなければいけない」と反論した。ブライアンは「帝国主義は、現在我々の国を脅かしている最も危険な罪悪である」と訴えたのに対し、セオドアは「私はいかなるときも膨張に賛成である。我が国の兵士が戦い血を流してきた血で、我が国の旗を引き下ろすことはしたくない」と訴えた。
 このアメリカ全土を熱狂にまきこんだ1900年の大統領選挙は、マッキンリー+セオドア=ローズヴェルトの共和党が勝利した。ただし、このときの選挙は現代と異なっていた。まず女性に選挙権は認められていなかった。また黒人選挙権は南部における様々な規制法によって実質的に行使できなくなっており、この年、最後まで残っていたノースキャロライナ州選出の黒人下院議員ジョージ・ホワイトが立候補を断念、以後28年間、黒人がアメリカ議会で演説することはなかった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀(上)』2002 中公新書 p.70-72>
※こう考えると、アメリカ帝国主義は「白人の男性」によって押し進められた、としか言えないことがわかる。

革新主義の標榜

 1901年、大統領に昇格すると、まず内政ではトラストや資本集中と金権政治家を攻撃し、富の公平な分配を主張して、反トラスト法の運用、労働者保護政策など革新主義(進歩主義 progressivism)を進めた。共和党の支持基盤であった東部大都市の富裕層、とくに急成長を遂げていた独占資本家は革新主義を苦々しく思っていたが、いわゆるポピュリズム的な人気を背景に、T=ローズヴェルトは革新主義政策を推し進めた。その大衆的人気を支えたのは、その積極的な帝国主義的な外交だった。

帝国主義外交

 外政ではアメリカの国力を背景とした実力外交を展開、棍棒外交と言われた武力を背景とした積極的なカリブ海政策を進めた。すでにマッキンリー大統領の時にプラット条項を強制していたキューバに対しては、T=ローズヴェルト大統領に代わって1902年キューバ共和国として独立を認めたが、事実上は保護国の立場であることは変わらなかった。T=ローズヴェルト大統領はさらに、パナマ運河建設権の獲得など帝国主義政策をとった。日露戦争モロッコ事件では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞した。

「ローズヴェルトの系論(コロラリー)」

 セオドア=ローズヴェルトは、カリブ海域に対する積極的な介入を行う際に、モンロー主義を拡大解釈して正当化した。それは1904年に年次教書として示したもので、アメリカ外交の基本はヨーロッパ諸国の中南米諸国への干渉を許さず、アメリカ合衆国の国益を守るためであればアメリカ自身が干渉する、という主張であり、「慢性的な不正と無能」に陥っている中南米諸国に対して国際的警察力としてアメリカが干渉は正当であるとも主張した。これは「ローズヴェルトの系論」 Roosevelt Corollary to the Monroe Doctorine といわれ、アメリカのカリブ海政策による干渉を正当化する理屈とされた。カリブ海域を自国の防衛および経済活動に不可欠な地域と位置づけ、勢力圏として支配しようという棍棒外交の身勝手な拡大解釈であったが、ケネディキューバ革命に対して出した進歩のための同盟や、レーガンの一連のカリブ海域諸国への干渉もその「系論」で行われた。

参考 アメリカの小学校で教えるセオドア=ローズヴェルト

 第26代大統領セオドア=ローズヴェルトは、アメリカでは人気が高く、「テディ」の愛称で呼ばれ、小熊のぬいぐるみテディベアがそのシンボルになっている。狩りをしているとき小熊に出会ったが、小さいからと撃たなかった、と言う話が新聞に載り、それがヒントになって小熊のぬいぐるみが作られたという。
 アメリカの小学校で使われている歴史の教科書を英文と日本文の対訳で読むことのできる本があって、そこでのセオドア=ローズヴェルト大統領は帝国主義の推進という面にはふれられておらず、Theodore Roosevelt:Trust-Buster and Conservationist として紹介されている。つまり『トラストつぶしと自然保護論者』というわけだ。トラストつぶしについては次のように説明されている。改革に熱心だった彼は、アメリカの企業が合同してトラストとよばれる巨大な独占企業を作り、ときどき中小企業に不公正な圧力をかけて苦しめてるのをやめさせようとした。例えば、ジョン=ロックフェラーの巨大なスタンダードオイル・トラストは小規模の石油業者にトラストに参加するか、さもなくば廃業するかと迫った。トラストは示し合わせて価格を高く吊り上げることもあった。「トラストつぶし」テディ・ローズヴェルトは、有名な例では政府の弁護士に命じ、主にJ.P.モーガンが牛耳っていた巨大な鉄道のトラスト、ノーザン・セキュリティ・カンパニーを解体させた。ローズヴェルトの行為は、政府に口出しされるのに慣れていなかった実業家たちに衝撃を与えた。
 彼は「企業をつぶすことを望んでいるのではない。企業が公益に資するようにさせたいのだ」と述べている。ローズヴェルト政権下で政府は、企業が従わなければならない法律をどんどん制定した。たとえば、1906年に食肉検査法を制定して悪質な食肉業者から消費者を守り、安心してハンバーガーを食べられるようにした。またアウトドア好きのスポーツマンだったローズヴェルトは製材や採掘が自然を過度に破壊しないように、自然保護計画を打ち出した。国立公園の数を倍にすることで、今日の公園制度を作るのに貢献した。<J.M.バーダマン/村田薫編『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』2005 ジャパンブック>
 ここで評価されているのは反トラスト法などの革新主義(進歩主義)政策のことである。帝国主義の段階でも「政治」は企業に従属するのではなく、国民のために不正をただす役割があると信じられており、アメリカ民主主義の本来の、良い意味での保守主義の精神を見ることができる。

革新党の結成

 セオドア=ローズヴェルトは1904年に再選を果たし、革新主義を推進して国民的人気を博し、また国際社会でも調停者として活躍してノーベル平和賞を受賞するなど、アメリカの大国化に大きな役割を果たした。高い人気を誇ったローズヴェルトであったが、2期目を終えると政権の長期化は好ましくないと表明して1908年の大統領選挙には出馬せず、共和党のタフトを応援、タフトの当選を見届けると、自らは引退を表明してアフリカに猛獣狩りに出かけるという余裕を見せた。ところが、彼がアメリカを離れると革新主義を喜ばなかった保守派や大資本は力を吹き返し、タフト大統領もそれに押されて革新主義色を弱めていった。
 セオドア=ローズヴェルトはタフト政権が革新主義から離れたことを不満として1912年の大統領選挙に出馬することを決意した。しかし共和党保守派はタフト再任でかたまったので、一部の州の予備選挙では勝ったものの、タフトに敗れたため「革新党」(進歩党とも訳す)を結成して大統領選候補となった。
1912年の大統領選挙 こうして1912年の大統領選挙は、革新党のセオドア=ローズヴェルトと共和党のタフト、それに民主党のウィルソンが立つという、三つ巴で行われた。国民的な人気の高いローズヴェルトの出馬で、1860年代以来のアメリカの共和党と民主党の二大政党制の一角が崩れるかもしれない、という注目すべき選挙となった。
 セオドア=ローズヴェルトは既得権にしがみつく腐敗した二大政党の支配を覆す政治の革新を訴えたが、共和党支持層がローズヴェルトとタフトで分散したのに対し、民主党を一本化したウィルソンが僅差で勝利し、20年ぶりで政権を奪還することとなった。民主党も財閥などの特権階級を批判していたので、革新党の主張に民主党との差別化が不十分だったことも考えられる。1916年の選挙ではローズヴェルトは立候補せず、革新党は勢力を失い、結局二大政党制を崩すことは出来なかった。<岡山裕『アメリカの政党政治』2020 中公新書 p.122-124>