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ソマリランド

アフリカの東北、「アフリカの角」といわれた地域が19世紀末にフランス、イギリス、イタリアに分割されソマリランド植民地とされた。

アフリカの角(つの)

 アラビア海からペルシア湾一帯にかけて、ギリシア人やアラビア人、さらに中国人の商人が、季節風を利用してダウ船やジャンク船で往来し、盛んに貿易を行っていた。現在のソマリアからケニア、タンザニア、モザンビークなどの海岸には多くの港市が点在していた。アフリカ大陸からアラビア海に突き出た「アフリカの角」といわれる現在のソマリア付近からは、肉桂や乳香などの品々、あるいは奴隷などからエジプトに運ばれていった。モガディシュ(モガディシオ)もそのような港市の一つとして繁栄していた。
 16世紀になると、ポルトガル商人がインド洋に進出、この地はヨーロッパと直接結ばれる交易地なった。19世紀の前半には、オマーンのサイイド=サイードがザンジバルを拠点として、ソマリア南部まで勢力圏とて海洋帝国を形成した。

英、仏、伊による分割支配

 19世紀後半に帝国主義列強による植民地獲得競走がアフリカで展開され、アフリカ分割が進んだ。「アフリカの角」にも 1869年のスエズ運河の開通によって、フランス、イギリス、そしてイタリアが強い関心を示すようになった。
 この列強三国は、ソマリ人が主要民族であったこの地をソマリランドとよび、紅海からインド洋にかけての海洋支配と、エチオピアなどのアフリカ内陸部への進出の拠点を築こうとした。まず北部にイギリスが進出し、1887年に保護領化した。それに対してはサイイド=ムハンマドを指導者とする抵抗運動が起こったが鎮圧された。またイタリアのアフリカ進出は、エチオピアの紅海沿岸であるエリトリアからエチオピア本土に向かったが、1896年のアドワの戦い(第1次イタリア=エチオピア戦争)の敗北で一旦停止された。しかし、20世紀に入るとソマリランドの南部に向けられ、1908年にイタリア領ソマリランドが成立した。
 フランスは1860年代からスエズ運河開削事業の関連で、紅海出入り口のジブチに港を建設するなど、早くから進出した。1896年、アドワの戦いでイタリアと戦ったエチオピアを支援し、その見返りとして、同年、ジブチ一帯をフランス領ソマリランド(フランス語ではソマリ)を獲得した。

東アフリカ諸国の独立

 こうして「アフリカの角」といわれる地域は、フランス、イギリス、イタリアに分割されることとなった。第二次世界大戦後のアフリカ諸国の独立が相次ぐ中、1960年にイギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリランドがそれぞれ独立、その後、合併してソマリアとなった。また、フランス領ソマリランドは独立が遅れ、1977年にジブチとして独立した。
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