スエズ運河
フランス人レセップスが主導し1869年に開通させた地中海と紅海を結ぶ運河。世界の海上交通を大幅に時間短縮し、大きな利便を与えた。帝国主義時代の幕開けを告げるように1875年にイギリスが会社株を買収、それをテコにエジプトを支配、インド方面への拠点とした。しかし第二次世界大戦後、ナショナリズムが高まり、ナセルによって1956年に国有化され、スエズ戦争が起こった。その後イギリスの勢力は撤退したが、その後も世界情勢の中で重要な意味をもつ地点となっている。
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近代以前の運河計画
スエズ地峡に運河を設ける考えは、古代から存在した。古代エジプトでは、ナイル川から紅海に通じるスエズ湾まで運河が開かれ、ナイル流域から紅海、インド洋への船運があったらしい。しかし、王朝の後退などの間に放置された運河は土砂で埋まって使用できなくなり、また別な運河を開削するという繰り返しがあったようだ。17世紀には、ドイツの数学・神学者として知られるライプニッツがスエズ地峡での運河の開削をフランスのルイ14世に提案したことがある。それは実施されなかったが、ナポレオンはイギリスのインド支配に打撃をあたえるためにエジプト遠征を行ったが、その時は具体的な運河建設を検討している。それらの情報からフランスではスエズ地域に関する関心が強く、レセップスの事業につながった。<酒井傳六『スエズ運河』1976 新潮新書(1991 朝日文庫で再刊)>
運河をめぐる英仏の対立
フランス人レセップスはかつてのナポレオンの構想などに刺激を受け、スエズ地峡への運河敷設を1854年にエジプト副王(かつてはエジプト総督といわれた、実質的なエジプト国王)サイードに提案した。レセップスは外交官としてエジプトに滞在したことがあり、サイードとも親しかった。当時エジプトは、宗主国であるオスマン帝国から自立する道を模索していたので、副王サイードはレセップスに許可を与え、同年12月にレセップスとの間で「スエズ運河建設許可書」を取り交わし、「国際スエズ運河会社」を設立し、エジプトは毎年その利益の15%をうけとることとした。スエズ運河建設はエジプトにとって最も重要、かつ問題の焦点となる施設であったが、イギリスは運河建設には先進国でありながらこの運河開削は不可能と判断し、インドからの物資は紅海からスエズに陸揚げし、鉄道を建設してカイロ―アレキサンドリアに運ぶことを考えていたのでレセップスの構想には乗らなかった。工事が進むと、イギリスは宗主国のオスマン帝国を動かし、その同意がないとして盛んに工事の進捗を妨害しようとした。
レセップスの仕事
レセップスは1858年国際スエズ運河会社を設立、フランスとエジプトが株を引き受けて、1859年に着工した。しかし、掘削工事はエジプト農民の無償労働で行われ、難航を極め、ようやく1869年に完成した。地中海側の入り口には新たに港が建設され、副王サイードの名からポートサイドと命名され、中間地点にもイスマイリア(次の副王イスマイールの名から命名された)というあたらしい都市が建設された。レセップスはその後、1880年からは、中米のパナマ地峡でパナマ運河開削に取り組んだが、過酷な自然条件に阻まれ失敗、1894年に亡くなる。パナマ運河敷設権はアメリカの手に移り、1914年に完成する。
エジプトにとってのスエズ運河建設
1856年から63年にかけて、スエズ運河建設のために2万5千人から4万人が動員され、その間に2万人の死者が出た。これはエジプト農民の間にますます外国人への嫌悪をつのらせた。サイードの次の副王イスマーイールはイギリスの主張を入れて、一部の運河地域をエジプトに返還させ、賦役も廃止したが、その際8400フランの違約金をレセップスに支払わなければならなかった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史 20 1996 中央公論社 p.181 p.192>Episode エジプト農民の無償労働
(引用)スエズ運河掘削地域では、自前で飲食をとりながら運河の底から砂を土手に運び上げるために、日の出から日没まで水に浸かったまま労働した。そこでは廃止されたはずの鞭も使われている。かたときも休まず、空腹のまま死と生の境で働くというのが実情であった。しかも、畑を耕さずに賦役に借りだされたために収穫もままならず、食糧をすべてもちだしたせいで、家族が飢える悲劇もありふれた光景だった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史 20 1996 中央公論社 p.182>
スエズ運河開通式典
1869年11月17日、スエズ運河開通式典が華々しく挙行された。(引用)11月17日午前八時、大砲と汽笛が鳴りわたり、フランス皇后ユージェニーをのせたフランス船エーグル(鷲)号を先頭にして、四十八隻の各国船がつぎつぎにポートサイドから運河に入った。皇后は「生まれていらいこんな美しい光景をみたことはありません」といって泣いていた。・・・北のポートサイドからの外国船団の運河入りと同時刻に、エジプトの軍艦が南のスエズから運河にはいった。二つの方向から来る船団は中間地のチムサ湖で相会することなっているのである。そして人びとはチムサ湖のほとりの新設都市イスマイリアの大祝賀会に参列することになっているのである。このウージェニー皇后とは、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后。ナポレオン3世とユージェニーはこの時人生の最も華やかな時であったが、翌年には普仏戦争が起こり、皇帝・皇后の地位を追われることになる。
ポートサイドからの船団は十二時間でチサム湖にはいった。ついで、スエズからの船団がついた。こうしてイスマイリアには六千人の人間が集まったのであった。<酒井傳六『スエズ運河』1976 新潮新書(1991 朝日文庫で再刊)>
Episode 間に合わなかった祝祭曲 ヴェルディの歌劇『アイーダ』
スエズ運河開通式典に併せて当時の売れっ子作曲者であったヴェルディの歌劇『リゴレット』がカイロのオペラ劇場で上演された。ヴェルディはスエズ運河開通記念の祝祭用にエジプトを舞台とした歌劇『アイーダ』を作曲し、祝祭日に上演したと言われることがあるが、実際に上演されたのは旧作『リゴレット』の方だった。イスマイール=パシャはたしかにヴェルディに作曲を依頼していたが、イスマイールに親しいフランス人エジプト学者マリエットのフランス語原案ができたのが6月で、それをイタリア語に改作したため、ヴェルディの作曲が間に合わなかったのだ。ヴェルディは『アイーダ』を1870年に完成させたが、普仏戦争で初演が遅れ、ようやく1871年12月にカイロで初演された。ヴィルディはこの時カイロには行かず、自らの最初の指揮を執ったのは72年2月のことだった。また、歌劇『アイーダ』の原案を書いたマリエットは、イタリア語への改作には不満だったようだ。<酒井傳六『スエズ運河』1976 新潮新書(1991 朝日文庫で再刊)p.161-164>上演までは紆余曲折があった『アイーダ』であるが、スエズ運河建設に絡んで作曲されたことは確かであり、またイタリア歌劇の代表作として今でもよく上演されている。特に第二幕第二場の凱旋行進曲は、日本のサッカー応援でよく聴かれる曲なのでよく耳にします。
スエズ運河の買収
1875年、経営難に陥ったスエズ運河会社の株をイギリスがエジプト政府から買収。それを足場にして、イギリスはエジプト支配に乗り出し、1882年のウラービーの反乱への介入によって保護国化とする。
スエズ運河会社の経営難
副王サイードと次のイスマイールは、小麦・綿花などの農作物の輸出で利益を上げ、その利益を鉄道建設などの近代化に向けた。しかし不平等条約のもと関税自主権がなかったので財政は次第に困難となり、ついにスエズ運河会社の株式を売却することとなった。1875年11月、その情報を得たイギリスのディズレーリ首相は、急きょロスチャイルド家から融資を受けてスエズ運河会社株の買収に踏み切った。それはイギリスの帝国主義政策への転換を意味し、エジプトへの積極的進出の契機となった。これ以後、スエズ運河の収益は株主であるイギリス(及びフランス)に吸い取られ、エジプトには入ってこないという状態になった。ムハンマド=アリー朝のエジプト政府も債権によて財政が破綻し、イギリス・フランス両国人を閣内に入れ、外国の管理下に置かれた。イギリスの軍事支配
そのような状態に対して、民族の独立、イギリス支配の排除を掲げて1882年にはウラービーの反乱が起こった。しかしそれに乗じてイギリス軍が出兵してエジプトを軍事占領し、単独軍事支配を始め1882年9月にエジプトを事実上の保護国化とした。スエズ運河の軍事占領についてはイギリスは一時的なものと表明していたが、事実はその後も続き、1953年までの72年間に及んだ。スエズ運河は海上輸送の要衝であったのでイギリスはその実効支配を通じてアジア・アフリカに対する帝国主義支配を推し進めた。1888年にイスタンブルでヨーロッパ各国が「スエズ運河の自由航行に関する条約」を締結し、平時・戦時を問わず運河の航行を保障する事で合意したが、イギリスはその条約を批准しなかった。1904年の英仏協商でフランスからエジプトを勢力圏とすることを認められたことでようやくこの条約を批准した。20世紀に入ると、石油が重要な物資となり、スエズ運河もタンカーの利用が激増した。1914年、第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは最終的なエジプトの保護国化をオスマン帝国に通告し、スエズ運河支配権を確保、反撃したオスマン帝国軍を運河地帯で交戦して撃退した。
エジプト独立承認と運河地帯駐留権
第一次世界大戦後の民族主義の台頭を受けて、1919年にエジプトでもワフド党を中心とする独立運動が起こった。イギリスは1922年にエジプト王国の名目的な独立を認めたが、スエズ運河地帯の軍隊駐屯権とスーダンの軍隊駐留権は保有し続けたので、エジプトの反英闘争がなお続くこととなる。1936年にワフド党が選挙で第一党となったので、イギリスは譲歩し、1936年8月、エジプト=イギリス同盟条約を締結して、保護国であることをやめ正式に独立を認め、エジプトから官吏を引き上げたが、スエズ運河地帯の駐屯権は維持し、第二次世界大戦中もイギリス軍の拠点とした。1935年、ムッソリーニのイタリアがエチオピア侵略を開始すると国際連盟はそれを侵略行為と認定したが、イタリア軍がエチオピアに兵員を送るためにスエズ運河を通行することは自由航行条約があるため、拒否できず、問題を残した。
スエズ運河の国有化
第二次世界大戦後、エジプト王国をエジプト革命で倒したナセル大統領が1956年に国有化を宣言した。イギリス・フランスが反発し、1956年にスエズ戦争となったが、国有化を実現した。
ナセル大統領の国有化宣言
第二次世界大戦後、1952年にナセルによって指導されたエジプト革命が勃発、エジプト王国とワフド党政権は倒れ、1953年にはようやくイギリス軍はスエズ運河地帯から撤兵した。しかし依然としてイギリス資本によるスエズ運河会社の運営は続いていた。ナセル大統領はアスワン=ハイダムの建設を開始したが、アメリカがエジプトのバグダード条約機構不参加を非難してその建設資金融資を拒否したので、1956年7月、ダム建設資金を得ることを理由としてスエズ運河国有化宣言を行った。スエズ戦争の勃発
これに対してイギリスは強く反発し、フランス・イスラエルをさそってエジプトに出兵した。これがスエズ戦争(第2次中東戦争)である。1956年10月、開戦と共にイスラエル軍が運河地帯まで進撃し、英仏軍も出兵したためエジプト軍の戦いは不利であったが、アメリカ・ソ連がイギリスなど三国の軍事行動を非難し、国連軍も介入して調停にあたった。ナセルはこのような国際世論を味方に付けることに成功し、英仏及びイスラエル軍は撤退、エジプトの主張を認められ、スエズ運河は国有化されることとなった。この政治的勝利によってナセル大統領の威信は高まり、アラブ世界の盟友となった。Episode 破壊されたレセップス像
スエズ戦争で国際的非難を浴びた英仏軍が撤退した後、ポートサイドに造られていたレセップスの巨大な銅像はエジプト人の手によって引き倒された。台座だけが取り残されているという。<酒井傳六『スエズ運河』1976 新潮新書(1991 朝日文庫で再刊)p.206>第三次中東戦争
スエズ戦争で英仏軍が撤退したところには国連緊急軍が駐屯していたが、1967年にナセルはその撤退を要請、ウタント事務総長がそれを受け入れた。ナセルは運河地帯防衛のためにアカバ湾を封鎖した。それに対してイスラエルが反発し、シナイ半島に侵攻し、第三次中東戦争が起こった。イスラエル軍の機甲部隊の急襲にエジプト軍は耐えられず、イスラエル軍がスエズ運河東岸を占領し、六日後に停戦した。六日間で決着がついたので「六日戦争」とも言われる。この戦争によってスエズ運河は1967年6月6日から、1975年6月5日までの8年間、閉鎖されてしまった。イギリス、スエズ以東から撤兵 なお、イギリスは1968年1月に「スエズ以東からの撤兵」を声明しているが、これはスエズ運河地帯からの撤兵(既に実施されている)の意味ではなく、スエズ運河から東、具体的にはアデン、マレーシア、シンガポールの旧イギリス領からの撤兵を意味している。これによってイギリス帝国主義の残滓はほぼなくなった。替わってアメリカが「世界の警察官」の役割をこの地域でも果たそうとし始める。
運河の改修・複線化
1960年代以降、タンカーなど船舶の大型化が進んだが、スエズ運河は幅と水深が不足し、大型タンカーが通過できないという問題があった。そのため拡幅工事が行われることとなり、サダト大統領は、1975年の運河再開から80年までスエズ運河拡張工事が行った。それは主として日本の援助で経済援助と技術提供で行われた。現在、第2期拡張(運河の複線化)が計画されている。