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ジブチ

アフリカ北東部、紅海の出入口、アラビア半島のイエメンの対岸に位置する要地。フランスが進出して植民地化し、現在は独立している。

ジブチ地図

ジブチ YahooMap に加筆

 アフリカの東北部、紅海からアデン湾を経てインド洋に至る航路を抑える地域は、ソマリ人という現地の民族名からヨーロッパ人にソマリランドとして知られていた。ジブチ Djibouti はその要の位置にあり、特にスエズ運河を開削したフランスが早くから進出し、1888年にジブチ港を建設した。それによって紅海からインド洋に進出するとともに、アフリカの内陸に進出する拠点とした。 → アフリカ分割
 フランス領ソマリランドは1977年にジブチ共和国として独立、北西にエリトリア、西にエチオピア、南にソマリアに面し、小国ながら紅海の出入り口を抑える重要な国となっている。

ソマリランドの分割

 フランスと同様に、東アフリカには、イギリスとイタリアも進出し、紅海に面したエリトリアはイタリアが、アデン湾からインド洋に突き出た「アフリカの角」にあたるソマリランドは、西からフランス、イギリス、イタリアで分割し、植民地とした。そのうちのフランス領ソマリランド(フランス語でソマリ)の中心地がジブチ港だった。

フランス領ソマリランド

 1896年、イタリアはエチオピア征服を目指してアドワの戦い(第1次イタリア=エチオピア戦争)を戦ったが、エチオピア軍に敗れてしまった。エチオピアの皇帝メネリク2世はこの時、イタリアと対抗するフランスの武器支援などを受け、関係が深まった。フランスは見返りにジブチ一帯の割譲を要求、同年、メネリク2世がそれを認めて、フランス領ソマリランドが成立した。フランスはアフリカ内陸への進出をめざし、ジブチからエチオピアへの鉄道敷設を開始、1917年には開通している。

フランスのアフリカ横断政策

 さらに、すでに1830年に北アフリカのアルジェリアに出兵し、サハラを南下してスーダンに進出したフランスは、アフリカを横断して東アフリカの拠点ジブチとルートをつなごうというアフリカ横断政策を進めた。それはナイル流域から南下して南アフリカへのルートを開拓しようというイギリスのアフリカ縦断政策と衝突することとなり、1898年にはファショダ事件が起きる。この時フランスはファショダを放棄して妥協し、イギリスとフランスの協調が始まる。

ジブチの独立

ジブチ国旗

ジブチ国旗

 第二次世界大戦後の1960年に、アフリカの年といわれるアフリカ諸国の独立が相次いだ。フランス領ソマリランドでも独立を求める声が強まったが、フランス領ソマリランドでは、アラブ系に近いソマリ人と、エチオピア人(東方キリスト教徒が多い)の対立があったため独立運動にまとまりを欠き、ようやく1977年に独立を達成させた。しかし、民族対立は一時内戦(1991年)に発展するなど、依然として続いている。また、北部の隣国エリトリアとの国境紛争、さらに東南のソマリアには、ジブチやエチオピアのソマリ人を統合して大ソマリアを建設しようという動きもあり、不安定要素となっている。
 現在のジブチ共和国は、エチオピア、エリトリア、ソマリアに囲まれた小国で、人口90万、面積2万3千平方km。
日本の自衛隊基地 2011年、日本で最初の自衛隊の海外基地がジブチ国際空港近くに建設された。これは、「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」に基づくもので、ソマリア沖やアデン湾での海賊対策として設けられたものであった。2017年2月時点でP-3C哨戒機2機と隊員約170人が派遣されている。国際社会で問題となっている海賊の取り締まりと同時に、国連合同軍とともに中東の治安に貢献しているとされ、2015年には日本の自衛官がこれまた初めて国連合同軍の司令官を務めている。目立たないが、自衛隊の海外派遣の実績は着々と進んでいる。中国も海賊対策への協力として人民解放軍の最初の海外基地をジブチに設けている。<以上、wikipedia ジブチの項参照>
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