ソマリア
アフリカの東北角地にあり、1960年、北部のイギリス領、南部のイタリア領が個別に独立した後に合邦した。社会主義軍事政権の下の1977~88年、エチオピアとの国境紛争で疲弊して、終戦とともに内戦に突入、1991年から本格化し、国連の介入も失敗、分裂状態となった。2012年から安定化の動きが出ているが、なおも未解決である。
ソマリア Yahoo Map に加筆
アフリカの角
アフリカ東岸の、インド洋に突き出たこの一帯を「アフリカの角(つの)」という。内陸部は遊牧生活だが、海岸部は紅海とインド洋交易圏を結ぶ交易の中継港としていくつかの港が栄えた。10世紀頃、アラビア半島からハム系民族のソマリ人が移住し、イスラーム化しスワヒリ語が形成された。15世紀には中国の鄭和艦隊が寄港したモガディシュも現在のソマリアに属しており、現在のソマリアの首都である。19世紀前半には東アフリカに大きな勢力を有していたオマーンのサイイド=サイードの支配を受けていたが、彼の死後はその力は急速に衰え、フランス、イタリアとイギリスが進出した。
イギリスとイタリアによる植民地支配
ヨーロッパ人は、この地の主要な民族がソマリ人であることからソマリランドとよび、特に1869年のスエズ運河の開通によって帝国主義諸国による植民地分割の脅威が直接に及ぶこととなった。その結果、20世紀初めまでに、紅海の出入り口にあたるジブチ港一帯にはフランス領ソマリランド(フランス語ではソマリ)、その東のアデン湾に面した地域にはイギリス領ソマリランド、角の突端から南はモガディシオの南の広大な地域がイタリア領ソマリランドとなった。ソマリアの独立
第二次世界大戦後は北部がイギリスの保護領、南部は国際連合の信託統治領となった。1960年のアフリカの年に北部と南部が別個に独立、後に合邦しソマリア共和国となった。社会主義政党が次第に力を付け、1969年にクーデターを起こしたバーレ少将は、実権を握って国名を「ソマリア民主共和国」に変更し、1970年に社会主義国家宣言を行うと同時に、民族主義を掲げ、ソマリ人による国家統一を主張した。それは、ソマリア国家を「ソマリ人」という民族意識で統一することを目指したものであったが、同時にソマリア以外のエチオピアやジブチ、ケニアなど周辺諸国のソマリ人も統合して「大ソマリア」を建設しようとするのではないか、と周辺諸国は警戒感を強めた。エチオピア=ソマリア戦争
その結果、西側に接するエチオピアのオガデン地方のソマリ人が、エチオピアからの分離を主張して武装蜂起し、それがもとで1977年にエチオピア=ソマリア戦争(オガデン戦争)が勃発した。エチオピアは長く帝政であったが、1974年のエチオピア革命によって帝政が倒され、マルクス=レーニン主義を掲げるメンギスツ政権による社会主義建設が進んでいたので、この両国の衝突は、社会主義国どうし(しかも両国ともソ連と友好条約を締結していた)ということで理解しにくい戦争であった。戦争を仕掛けたのは、ソマリ人の統合を掲げていたソマリアが、エチオピア国内のオガデン地方のソマリ人の蜂起を支援する口実で開戦に踏み切ったので、ソマリア側だったと見られる。ソ連などの社会主義国がどちらを支援するかが注目されたが、当初は両国ともソ連の武器援助を受けていたものの、途中からソマリアはアメリカなど西側諸国とアラブ諸国の支援を受けることとなり、それに対してソ連とキューバが直接的にエチオピアを軍事支援に乗り出し、代理戦争という実態となった。戦闘は十年以上続いたが、ようやく1988年の停戦が成立、翌年、東欧革命など社会主義陣営に激震が生じ、ソ連もアフガニスタン撤退と同じようにエチオピアからも撤退することになったため、ソマリア軍も撤退し、戦争が終結した。
参考 「アフリカの角」をめぐる国際関係
(引用)ソマリア周辺地域は、アフリカ大陸を頭と見立てると、ちょうどサイの角のようにアラビア半島に突きだしている。地形的な特徴から、この地域は「アフリカの角」と呼ばれているが、「角」という攻撃的なイメージは、ただ地形の見た目からだけのものではない。ソマリアとエチオピアという「角」の部分にあたる二国は、七〇年代前半、ともに社会主義化してソ連との友好条約を結ぶ。対岸のアラビア半島、特に西側諸国のエネルギー源たる産油国サウジアラビアの下腹に、社会主義、共産主義国の両国が角を突き立てて今にも襲おうとしている……、そんな格好になったのである。このとき、ソマリアと西側諸国を結びつけたのがサウディアラビアだった。サウジアラビアとエジプトなどはアメリカとは別に,フランスの主導で1976年に反共組織「サファリ・クラブ」をつくっていた。サウジアラビアはソマリアの共産化を警戒し、ソマリアに対し、ソ連と手を切る代わりに武器と資金を提供する約束し、ソマリアを西側陣営に引き入れたのだった。
そうした微妙な緊張感のなかで、もともと領土問題を抱えていたソマリア、エチオピアが衝突した。領土問題に冷戦という大きな構造が加わり、ソマリアにアメリカが、エチオピアにはソ連がついた。その結果、七〇年代後半から10年間、熾烈な抗争が展開されたのである。<酒井啓子『<中東>の考え方』2010 講談社現代新書>
エチオピアとの戦争で疲弊
オガデン戦争でソマリアは人的、経済的な打撃を受けたにもかかわらず、バーレ大統領は独裁政治を続け、また自己の出身部族を優遇し続けたため、80年代からバーレ政権に反発する地域の部族が反政府勢力に集まるようになった。1988年にエチオピアとの戦争は終結したものの、オガデン地方の併合に失敗して事実上の敗北となったため、バーレ大統領の求心力は低下し、各地で反政府勢力が立ち上がり、1988年6月、事実上のソマリア内戦が始まった。ソマリア内戦
1988年から実質的に始まった内戦によってバーレ政権は首都モガディシオを支配するだけの地方政権化し、1990年にはその首都も反政府勢力によって制圧され、91年1月にバーレ大統領を追放、暫定政府が成立した。ところが反政府勢力内部にも南北の地域対立が生じ、北部の旧イギリス領ソマリランドには独自のソマリランド共和国が建国を宣言、ソマリアは分裂して本格的なソマリア内戦の状態となった。ソマリア内戦は1988年に始まり、1991年から本格化し、冷戦の終結後の地域紛争として最も深刻で長期にわたっているケースである。しかも、その過程で正式な政権は首都を治めることができず、地域的な政権が少なくとも三つ存在してそれぞれ独立国家であると唱えるなど、主権国家が解体状態に追いこまれている。その経緯はソマリア内戦を参照。ソマリア連邦共和国の成立
ソマリア連邦共和国 国旗