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白豪主義

19世紀末~20世紀のオーストラリアにおける非白人入植を制限する政策。1901年に移民制限法が制定して白人以外のアジア系有色人の移民を実質的に制限した。戦後も続いたが、非難が強まり1973年には法的な移民制限は廃止してアジア系移民を公認し、基本姿勢を多文化主義に転換させた。

 白豪主義(はくごうしゅぎ  White Australia Policy )は、オーストラリアにおける、中国人などのアジア系の移民を排斥、制限し、白人主体のオーストラリアを建設・維持しようとする政策。かつてはオーストラリアを漢字では「濠州」と書いていたので白濠主義と表記されていたが、現在では「豪州」、「白豪主義」が一般的になっている。白豪主義と言われるオーストラリアの移民制限政策は、1880年代に始まり、1901年のオーストラリア連邦成立とともに法的措置が取られて国是となり、1973年まで続いた。

オーストラリアの移民制限政策

 オーストラリアはイギリスの流刑植民地として始まったので、はじめの移住者はイギリス人やアイルランド人が多かったが、開拓が進むのに伴い、労働力としてドイツ人やポーランド人などの東欧系、イタリア人やギリシア人などの南欧系が増加していった。
 1851年2月、オーストラリアのニュー・サウスウェールズ州のバサーストで、ついで8月にはヴィクトリア州バララットでも金鉱が発見され、ゴールド=ラッシュが始まった。シドニーやメルボルンからだけではなく、世界中から一攫千金を求める人々が殺到した。当初はイタリア人など白人が多かったが、その中で金鉱の労働力として急増したのが中国系移民、いわゆる華僑であった。中国人移民は、1860年の北京条約で中国人の海外渡航が解禁されたこと、1865年にアメリカでの奴隷制度廃止によって黒人奴隷に代わる労働力の需要が高まったことで、急増していった。
 オーストラリアにおいても、中国系移民が増加すると、それによって仕事を奪われた白人が暴動を起こすなど、反中国人感情が強まり、1880年代にはオーストラリアの自治要求と結びついた中国人排斥運動が強まった。
 同じころアメリカ合衆国の移民問題も持ち上がっており、中国人移民に対する排斥運動が興り、1882年に、アメリカ合衆国で最初の移民制限法である中国人労働者移民排斥法が成立したことも、オーストラリアでも移民制限の動きに大きな影響を与えた。
移民制限法 1901年、イギリス本国から自治が認められてオーストラリア連邦が成立し、その議会が同1901年12月23日、最初に制定したのが「移民制限法」だった。
 白豪主義とは通称で、そのような法律があるわけではない。1901年に制定された移民制限法によって国策として採用されたのだが、厳密には移民(季節的労働者)ではなく永住を目的に入国する行為を制限するので移住制限法と言うべきである。またすでに植民地時代に各植民地独自に中国人排斥法や有色人種排斥法が作られていたので、それらを一本化したものである。狙いは移民すべてを禁止するのではなく、白人(ヨーロッパ人)移民は受け入れ、有色人種(中国人、日本人、インド人などアジア系)を排除するものであった。
(引用)20世紀を迎えるオーストラリア人へのクリスマス・プレゼントは、移住制限法であった。1901年1月1日にオーストリア連邦が成立し、連邦議会が初めて取り組んだのが、この法案であった。8月に初代首相エドモンド・バートンによって上程され、「有色人種問題」に関する広範な議論を経て、満場一致で可決された後、12月23日に連邦総督によって承認された。クリスマス直前のことであった。<竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史』2000 中公新書 p.42>

白豪主義の巧妙な移民制限

 「移民制限法」には「好ましからざる移民は認めない」とあるだけで、具体的にアジア系移民の入国を拒否するとは書いていなかったが、巧妙に移民を制限出来るようになっていた。それは入国を希望する外国人に「ヨーロッパ語(英語は含まれない)の50語の書き取り」という「言語テスト」に合格することを義務づけたことである。ヨーロッパからの移民は簡単に入国できたが、アジアからの移民はほとんどが合格出来なかったわけである。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000 p.130>
 この巧妙な「アジア人拒否のメカニズム」は、イギリス領南アフリカのナタール植民地で1897年から行われていた。皮膚の色で入国者を選別すると人種差別となるが、学力の差で選別することでその非難や軋轢を避けようとするこのナタール方式を、オーストラリアに適用しようと提案したのは植民地相ジョゼフ=チェンバレンであった。<竹田いさみ『前掲書』 p.45>

Episode J=チェンバレンの日本人への配慮

 ジョセフ=チェンバレンは、オーストラリア首相に移民制限法を提案したとき、書き取りテストに使う言語は英語だけにしようとした。しかしそれだと、アジア人だけでなく、非英語圏のヨーロッパの白人も入国が困難になる。制限をアジア人だけにしたい白豪主義の強硬派はその案に反対し、結局英語以外のヨーロッパの各国語のテストとなった。それだとアジア人だけを締め出し、ヨーロッパの白人は入国しやすくなる。さて、ジョセフ=チェンバレンが書き取りテストを英語だけにしようと提案したのはなぜか。
 それは日本人に配慮したのだった。なぜなら当時イギリスは、極東でのロシアとの対抗上、日本と提携する日英同盟を進めていた(1902年1月に締結)からであった。日本政府もイギリスとオーストラリアに抗議していたこともあり、またオーストラリア内にも国内開発で日本人の能力を使いたいこと、さらに商船会社からは日本人移民を入国させなかった場合、オーストラリアの羊毛や酪農製品などの輸出に打撃になる恐れがあるという反対意見もあった。チェンバレンは、日本人の学力であれば英語の書き取りテストが課せられても不利にならないと考えたのだった。しかし、議会内には強硬な白豪主義者が多く、また日本人の能力を脅威と考える人も多かったので、英語を除くヨーロッパ語の書き取りテストを課すことになった。<竹田いさみ『前掲書』 p.45-47>

白豪主義の背景

 19世紀後半、植民地の段階にあったオーストラリアで白豪主義が生まれた背景には、鉱山業や海運業などの産業が発展するとともに、労働者の権利を守るために労働組合運動が盛んになり、また彼らの政治的要求を汲み上げる政党として労働党が結成されたことがあげられる。彼らの運動は、早くも1856年に世界に先駆けて一日8時間労働を勝ち取るまでになっていた。
 彼らは、アジア系労働者の導入によって労働者の雇用機会が奪われ、さらに賃金が低下するとして、その禁止または制限を強く主張するようになった。19世紀の末には、失業や賃金低下に抗議するストライキが多発し、その中から反外国人労働者連盟が結成されるなど、移民制限の要求が強くなった。
 1900年に結成されたオーストラリア労働党は、雇用の確保、最低賃金制、年金制度などとともに、対外関係では白豪主義の堅持と国防の充実を掲げた。このようなナショナリズムの主張は、オーストラリア生まれを会員の条件とする出生者協会の結成などにも現れ、彼らの運動はオーストラリアの連邦制、共和政と共に、白豪主義の推進・国防強化の主張と深く結びついていた。

人種差別撤廃条項に反対

 オーストラリアは第一次世界大戦後のパリ講和会議には独自代表ではなくイギリス全権団の一員としての参加であったが、日本が講和条約(ヴェルサイユ条約)の中に人種差別撤廃条項を加える提案したことに対しては、代表のヒューズ首相が白豪主義堅持の立場から強硬に反対し、日本案の実現を阻止した。

多文化主義への転換

 この白豪主義の対象は次第にアジア系移民全体にひろげられたため、第二次世界大戦後は国際的な非難を受けるようになり、1958年には新移民法を制定して有色人種排除のための書き取りテストを廃止した。白豪主義の国策を大きく転換する契機は1973年に訪れた。戦後のオーストラリア政治は長く保守党が政権を維持し、東西冷戦の中での西側陣営の一員という立場を続けていたが、1972年、政権についた労働党ウイットラム首相は、アメリカ追随外交からの転換、中国との国交正常化、ベトナム戦争派遣反対などとともに人種差別と白豪主義への批判を公にした。ウィットラム首相はオーストラリアの自主外交路線をミドルパワー論に基づいて遂行しようとしたが、その内政の柱として掲げたのが多文化主義であった。労働党はすでに1965年に党綱領から白豪主義をはずしており、ウィットラムは南アフリカのアパルトヘイトを批判するとともに、白豪主義は時代遅れであると主張し、従来の移民審査を撤廃した。
ポイントシステムの導入 オーストラリアが導入した新たな移民審査は、ポイント・システムといわれるもので、移民希望者の年齢、教育水準、技能、職歴などにポイントをつけ、合計の高い者から優先して移民を受け入れる、というもの。この新方式を導入したことで、ウィットラムは白豪主義を終わらせた政治家として名を残すことになった。このポイントシステムは必ずしも非白人に有利に設定されたものではなかったが、優秀なアジア系移民が合法的に移民として移住できることとなり、反面、白人移民は伸び悩むこととなって事実上、白人優先システムが崩れたのだった。

インドシナ難民の受け入れ

 ウィットラム首相は、ベトナムなどの難民を初めて受け入れた政治家としても知られる。1975年、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争は実質的に終わりを告げたが、南ベトナムの崩壊によって多数のベトナム難民が発生した。ウィットラム政権はベトナム難民の受け入れを表明し、最終的には1093人を受け入れた。
 オーストラリアはこれまでも難民を受け入れてきたが、特に第二次世界大戦後のヨーロッパの混乱から発生した東欧諸国からの難民を受け入れた。それに対して有色人種(黒人、アジア系)の難民はほとんど存在していなかったが、ここでベトナム難民を受け入れたことが大きな転換点となり、その後のインドシナ紛争の長期化によってカンボジア内戦による難民などの受け入れも継続した。これらのインドシナ難民の流入は、オーストラリアを白人優越の社会から、多民族が共存する社会へと移行させ、国の基本施策を白豪主義から多文化主義へと転換させた。<竹田いさみ『前掲書』 p.226-229>
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竹田いさみ
『物語オーストラリアの歴史』
2000 中公新書

遠藤雅子
『オーストラリア物語』
2000 平凡社新書