メキシコ革命
メキシコのディアス独裁政権を倒したラテンアメリカ最初の民主主義革命。1910年、自由主義者マデロの呼びかけに応じたビリャやサパタなどの率いる農民軍が決起し、翌1911年に独裁政権を倒した。しかし革命路線をめぐって分裂、1914年には一時急進派のサパタらが権力を握ったが、まもなく排除された。その後も官僚派と軍の対立などの混乱を経て、1917年に共和制憲法が成立した。
メキシコ共和国では、1876年以来続くディアスの独裁政治に対し、1910年11月20日に自由主義者のマデロなどがメキシコ革命運動を開始、1911年にディアスは亡命して革命を成功させた。しかしメキシコ革命はその後、急進派(小農民に支持されたサパタやビリャ)・穏健派(立憲政治の成立に重きを置く自由主義的地主層、カランサやオブレゴン)・反動派(保守的な大地主層)が激しく抗争、1914年にはサパタが権力をにぎったが暗殺され、その後一進一退を繰り返して長期化し、1917年の憲法の制定によって立憲革命として一段落する。
ここまでをメキシコ革命とするのが一般的であるが、しかし、その後も再び独裁的な政治体制に戻り、ようやく1930年代のカルデナス政権で社会変革が完成し、政治も安定するので、長期的に見ればそこまでをメキシコ革命の第二段階とすることもある。
メキシコ革命の意義 このように長期にわたる革命であったが、メキシコ革命はラテンアメリカにおける最初の民主政治の実現、社会変革をめざした革命であり、1911年の中国の辛亥革命や、1917年のロシア革命(第2次)などと同時期に起こった重要な革命運動であった。また、革命を通じてアメリカ合衆国の露骨な介入があり、それに対する抵抗でもあったので、このメキシコ革命はラテンアメリカでの最初の反帝国主義の動きと言うことも出来る。
シケイロス などの画家が活躍し、現代メキシコ美術が開花した。彼らの壁画運動 は公共建造物の壁にメキシコの歴史や自然を大胆に力強く表現するもので、ヨーロッパ美術とは異なるメキシコ独自の芸術の創造であり、メキシコ国民の民族的自覚を呼び起こすものであった。
ここまでをメキシコ革命とするのが一般的であるが、しかし、その後も再び独裁的な政治体制に戻り、ようやく1930年代のカルデナス政権で社会変革が完成し、政治も安定するので、長期的に見ればそこまでをメキシコ革命の第二段階とすることもある。
メキシコ革命の意義 このように長期にわたる革命であったが、メキシコ革命はラテンアメリカにおける最初の民主政治の実現、社会変革をめざした革命であり、1911年の中国の辛亥革命や、1917年のロシア革命(第2次)などと同時期に起こった重要な革命運動であった。また、革命を通じてアメリカ合衆国の露骨な介入があり、それに対する抵抗でもあったので、このメキシコ革命はラテンアメリカでの最初の反帝国主義の動きと言うことも出来る。
革命の主な経過
- ディアス独裁政権の打倒:1910年、30年以上大統領を続け80歳になっていたディアス大統領の再選に対して、マデロが大統領再選反対を表明して立候補、ディアスが不正な手段で再選を果たしマデロを国外追放にすると、1910年11月20日、全国でディアスの独裁政治に反対する蜂起が一気に始まった。南部の農民指導者サパタ、北部の盗賊団上がりのビリャなども蜂起し、1911年にディアスはついに大統領府を追われて国外(パリ)に亡命した。
- マデロ政権の失敗:マデロが正式に大統領に選出され、政権運営を開始したが、マデロは地主階級出身で穏健なインテリであり、法の遵守と政治の民主化を主要な目標として掲げたが、ディアス政権を支えていた官僚と軍隊をそのまま存続させた。官僚と軍部はマデロの指示に従わず、反政府活動を続けた。さらに南部のサパタは、農地の解放などを含む「アヤラ綱領」を発表、社会改革を要求した。マデロはサパタの改革要求を拒否したので、サパタは農民軍を組織して1911年11月25日に蜂起した。このように左右両派の動きを抑えることが出来ないマデロ政権を見限ったアメリカ大使が工作し、右派ウェルタ将軍のクーデターが準備した。
- 反革命と内戦:革命政権内部の対立に乗じて、1913年2月21日、大地主や外国資本の後押しを受けた右派ウェルタ将軍による反革命クーデタが発生、マデロは殺害され、マデロ派の義勇兵や市民多数が殺害された(悲劇の10日間)。ウェルタ将軍が臨時大統領となったが、マデロの後継者として名乗りを上げたカランサ(地主出身の立憲派)を中心とする革命勢力は、北部のビリャの率いる農民軍やオブレゴンの率いる軍隊の活躍で盛り返し、激しい内戦の結果、ウェルタ将軍の政府軍を首都から追い出した。
- アメリカ合衆国の介入:この間、アメリカの大使は当初、革命の進展を危険視してウェルタ将軍に武器を援助し、そのクーデターを支援したが、その後将軍が独裁化する傾向を見せると本国のウィルソン大統領はウェルタ政権不承認に転じ、援助をストップ。これはいわゆる宣教師外交(民主主義を教えてやるという意味)と称するアメリカのラテンアメリカ外交の失敗であった。アメリカはウェルタ軍に圧力を加えると言う口実で海兵隊をヴェラクルスに上陸させたが、それはかえってメキシコ民衆の反米感情を強めることになった。
- 立憲派と急進派の対立:カランサら1857年の憲法の精神を守ることを掲げた自由主義的地主層は立憲派(または護憲派)と言われ、独裁反対と政治的自由の実現、社会の安定を求めた。それに対してサパタやビリャは依然として急進的な農地改革を主張し、1914年に革命勢力の結集を目指す会議を開いたので会議派とも言われた。ウェルタを敗北に追い込んだところで両派の妥協が成立し1914年末にはサパタとビリャが相次いで首都に乗り込み政権を掌握したが、農民軍主体の両派には統治能力が十分でなく、間もなくサパタは政権を放棄、さらに翌1915年、立憲派のオブレゴンの軍がビリャ軍と衝突、カランサ派の勝利となり、急進派は後退し立憲派カランサ政権が成立した。
- 1917年憲法の制定:カランサ政権はアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国によって承認され、主導権を確保し、中間的なブルジョア勢力の支持を受けて憲法を制定した。1917年憲法は土地、水、地下資源は根源的に国家に帰属することと大土地所有の分割、農民・労働者の基本的権利の保護(8時間労働、最低賃金制、スト権、団結権の商人など)、信仰の自由を確定して教会の特権的地位を否定するなど、当時世界で最も民主的な憲法であり、立憲革命としてのメキシコ革命は達成されたと言うことが出来る。また他のラテンアメリカ諸国にも大きな影響を与えた。
- あいつぐ暗殺:しかしカランサはこの憲法の実施に消極的であったため、政府内で憲法制定を推進してきたオブレゴンなどとの対立が激しくなってきた。1919年にはカランサ派によってサパタが暗殺され、ビリャも逃亡生活を余儀なくされる(後、1923年に殺害される)。しかしカランサも、1920年に憲法の擁護を掲げたオブレゴンらが軍隊を抑え反乱を起こすと、首都の民衆からも見放されて逃亡し、途中部下に殺害されてしまう。
- 反動期と革命の第二段階:1920年代にはオブレゴン、カーリャスが大統領を継承し、国家と教会の分離を目指す反教会政策が推し進められ、それに対してカトリック教会の伝統がしみこんでいる民衆との激しい殺し合いが続いた。29年、ようやく教会側が譲歩し、宗教の非政治化が確定した。しかしカーリャスはカウディーリョ(軍事的地域ボス)的な強権政治を復活させ、後任大統領にも大きな影響力を残したために反発が強まり、1934年に大統領となったカルデナスは彼らを一掃して国外追放にし、メキシコの政治と社会の民主化をはかった。カルデナス大統領(1934~40)は、メキシコの石油資源の国有化、教育の普及、労働者保護政策、鉄道国有化などの社会主義的政策、かつてサパタなどが掲げていた農地改革も実行した。メキシコ革命初期の社会変革という目標がようやく実現したと言える。
メキシコ革命と文化運動
1920年代のメキシコ革命の展開の中で、民族主義的な文化運動が盛んになった。文部大臣のパスコンセロスを中心に、特に美術部門で壁画運動が展開され、リベラ、オロスコ、