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ウィルソン

アメリカ合衆国第28代大統領、第一次世界大戦期に大統領を務め、参戦後に14箇条の講和原則を発表し、国際連盟を提唱した。

ウィルソン大統領
Woodrow Wilson 1856-1924
(The PRESIDENTS of the U.S.A.より)
 ウッドロー=ウィルソン Woodrow Wilson 。プリンストン大学総長から政界に転身、ニュージャージー州知事を務める。「新しい自由(New Freedom)」を掲げて民主党から1912年の大統領選挙に出馬し、セオドア=ローズヴェルト(革新党)らを破って当選し第28代アメリカ大統領(在職1913~1921年)となった。この時代は、アメリカ帝国主義の真っ只中にあり、その行き過ぎを是正することが課題であったが、アメリカと第一次世界大戦という困難な課題に直面、戦後にいやおうなく大国となったアメリカを主導する役割を担った。 → NewS
(引用)ところで、ウィルソンは元プリンストン大学学長という経歴から、理知的で高潔な人格をイメージさせる政治家である。だが、それと同時に彼は南北戦争後はじめて南部民主党が選出した大統領候補――人種隔離を支持しクー・クラックス・クラン(KKK)の騎士道を信じる南部人であった。そうした大統領候補の登場自体が、再建期以来の人種平等の思潮が大きく後退してしまったことを示すものだった。他方、(1912年大統領選挙を争った)ローズヴェルトの革新党もその綱領では黒人市民権について何も触れていなかった。革新主義の主流にとって、黒人有権者は依然として非公式のパートナーにすぎなかった。<中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』シリーズアメリカ合衆国史③ 2019 岩波新書 p.38>

革新主義と宣教師外交

 内政では革新主義を継承し、巨大化する資本に対する制約を加え、民主主義の維持・発展を図ることを「新しい自由」として掲げた。国内では帝国主義の矛盾の解消に努めた言うことができる。
 また外交ではまずラテンアメリカ地域に対しては宣教師外交といわれる民主主義を根づかせるためという理由の干渉を行った。特に当時進行していた、メキシコ革命に介入し、独裁者の軍人ウェルタの排除を図ったが、かえって反発を受け成果はなかった。また、1915年には、カリブ海の小国ハイチの動揺が続いていることを解消するとして海兵隊を派遣、軍政を布いて民主主義諸制度を移植しようとした。これらは、いずれも対外的には帝国主義の本質を継承したと言うことができる。 → アメリカの外交政策/帝国主義

第一次世界大戦への参戦

 ついで第一次世界大戦、さらにロシア革命の勃発という大きな転換に対応することとなり、対ヨーロッパ諸国との外政では従来の孤立主義を継承しながら協調外交にも転換せざるを得なくなった。第一次世界大戦が始まると、当初は中立を宣言し交戦国間の調停を模索したが、ドイツの無制限潜水艦作戦が始まったのを機にアメリカの第一次世界大戦参戦を決断し、1917年4月6日にドイツに対する宣戦布告をおこなった。

14カ条の原則

 ウィルソンは参戦の大義を「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」と表現した。ウィルソンの信念は宣教師外交の延長にあったが、さらに一歩踏み込んで、無賠償・無併合による講和、秘密外交の禁止などを新たな理念とする外交を構想していた。また大戦の原因となったバルカンにおける民族対立の解決にむけて、民族自決の原則を打ち出した。加えて平和維持のための集団安全保障の理念にもとずく国際的調停機関の設立を構想した。それらは、ヨーロッパ列強の外交理念である、秘密軍事同盟による勢力均衡を図る勢力均衡論と、賠償金と領土獲得は戦勝国の権利であるという19世紀までの外交理念を根底から否定すものであった。
レーニンの平和に関する布告 一方、1917年11月、ロシアでボリシェヴィキ政権を樹立したレーニンが、「平和に関する布告」を発表して無償金・無併合・民族自決の原則による即時講和と秘密外交の禁止などを提唱した。
 ウィルソンは戦後世界の主導権を社会主義国家に奪われることを恐れ、それに対抗して、1918年1月、すでに構想していた大戦後の国際社会のあり方として「十四カ条」を議会で発表した。それは第一次世界大戦でドイツ・オーストリアと戦っていた、ロシアを除く連合国諸国に戦争の大義名分を与えるとともに、戦争の終結と戦後世界の構想に向けての大きな指針となった。
シベリア出兵 またソヴィエト政権がドイツと単独講和を締結したため、イギリス・フランスは対ソ干渉戦争をアメリカ・日本に働きかけた。ウィルソンは当初、ロシア革命には同情的であり、内戦に介入することには反対であったが、チェコ兵捕虜の救出問題が起きると民族自決を支援するという観点から1918年8月シベリア出兵を行った。それには日本が単独出兵して勢力を一方的にシベリアに拡大することを牽制する意図もあった。

パリ講和会議

 大戦後のパリ講和会議においてもウィルソンの十四カ条は講和の原則として扱われた。自らパリに乗り込み、会議に参加してリードしようとしたが、その意図は大きな障害にぶつかった。ウィルソンは敗戦国への苛酷な制裁に強く反対したが、イギリスのロイド=ジョージ、フランスのクレマンソーらは、ドイツに対する巨額の賠償金請求とその軍事大国化を予防するための措置を主張し、結局は英仏の主張に押されてヴェルサイユ条約ではドイツに対する厳しい条件が付されることとなった。
民族自決の可否 ウィルソンの提唱した民族自決の原則は、会議に参加した中国をはじめ、他の国家からの抑圧に苦しんでいた諸民族にとって、大きな期待であったが、独立を認められたのは旧ロシア帝国や旧オーストリア帝国の領土からの東欧の諸民族の独立だけに限定され、アジアの諸民族の独立の要求は認められなかった。山東問題としいわれた日本が大戦中の二十一カ条の要求で山東半島のドイツ権益を継承する主張に対して中国が強く反発したことに対しては、ウィルソンも中国の主張を理解したが、日本が会議脱退をちらつかせたことで日本に妥協した。

国際連盟の創設

 ウィルソンが最も心血を傾けて努力したのが国際連盟の創設であった。彼は世界大戦のような惨禍が再び起きないためには、主権国家による集団安全保障を実現する国際機構を切することが必要と考えていたので、パリ講和会議でも議論をリードし、最終的にはヴェルサイユ条約の第一条として国際連合規約を盛り込むことに成功した。
議会の反対 パリ講和会議でさまざまな困難を克服して国際連盟創設(1920年1月10日発効)を実現したウィルソンであったが、当初からアメリカ議会で承認を受けることは困難と考えられていた。議会の上院の共和党は、モンロー教書以来のモンロー主義といわれる伝統的な孤立主義の原則の保持を主張し、特に国際連合規約第10条で各国の領土保全を尊重すると規定し、第11条で集団的自衛権を謳っていることは、他国の戦争にアメリカが巻き込まれることになり、国際連盟に縛られることは議会の立法権を侵すことになるなどを理由に頑強に反対した。それに対してウィルソンは国民に直接訴える戦術を採り、全国を遊説して「国際連盟規約第10条は戦争防止のためであり、第11条は世界の平和に影響を及ぼすことはみな我々の関心事なのだ、とアメリカ国民が世界情勢に関心を持つべきだと訴えた。
アメリカ、国際連盟に加盟せず ウィルソンはしかし、パリ講和会議での疲労も重なり、遊説中の9月にコロラド州で倒れ、政務に復帰することはできなくなった。1919年11月、アメリカ上院は留保付きで条約を承認する案、留保なしで承認する案のいずれも必要な3分の2を確保できず、1920年3月に民主党の一部が留保付き条約賛成に回ったので再票決が行われたが賛成49対反対35でここでも3分の2に満たず否決された。
 こうしてアメリカ合衆国が国際協調のリーダーとなるというウィルソンの構想は否定されたこととなったが、国際社会はウィルソンの理念と行動を高く評価し、1919年12月にノーベル平和賞が授与された。しかし、彼は病に臥したまま、任期の後半はほとんど執務が出来ない状態となり、1921年に退陣し1924年に死去した。 → アメリカ合衆国の戦間期

NewS プリンストン大学、ウィルソンの名称を除外

 2020年5月、アメリカのミネアポリスで起こった黒人ジョージ=フロイドさんが白人警官に首を押さえつけられて死んだ事件をきっかけに人種差別に抗議する動きが続いているが、今回の特色は、歴史的な記念碑、銅像などに遡って人種差別主義を糾弾する動きが連鎖的に続いていることだ。今回は、6月27日、アメリカのプリンストン大学で第28代ウィルソン大統領の名前のついた施設の名称を変更するという発表があった。
 ウィルソンと言えば、国際連盟や14ヵ条での民族自決の提唱で、開明的な大統領というイメージが強いので、彼が人種差別主義者だったと言われてもピンとこない。今回は「人種差別政策を支持し、とりわけ連邦政府機関が人種的に統合されてから数十年たった後でも連邦政府機関内部の人種隔離を容認していた」ことが問題になったという。AFP bb news 2020/6/28 記事
 世界史上のウィルソンは、民族自決提唱と言っても非白人には積極的でなかったこととか、メキシコ革命での帝国主義的介入とかを知れば、人種差別主義とまでは言えないまでも、やはり白人の立場を意識していたことは十分想像できる。それにしても、アメリカでの歴史の見直しもここまで来れば本気度がわかる。