3B政策
ドイツ帝国の世界政策に基づいた西アジア侵出をめざす政策。3Bとはベルリン・イスタンブル(古名がビザンティウム)・バクダードを結ぶ大陸横断鉄道を建設する政策のこと。1898年、ヴィルヘルム2世がバルカン半島から西アジアに勢力圏を拡大することを表明し、西アジア・中東からインド・アフリカを勢力圏とするイギリスの3C(カイロ、ケープタウン、カルカッタ)政策、およびロシアの南下政策との帝国主義対立が明確となった。
ドイツのヴィルヘルム2世のとった帝国主義政策で、ベルリン-イスタンブル-バグダードを結び、中東に進出しようとするもので、イギリスの3C政策(アフリカ~インドへの帝国主義支配)に対抗するもの。このヴィルヘルム2世の世界政策は、西アジアに帝国主義的進出をすすめていたイギリスの3C政策との対立要因となり、第一次世界大戦をもたらした。
1903年3月5日にドイツと、オスマン帝国間の本協約が締結され、バグダード鉄道会社が設立された。このバグダード鉄道はイギリスの3C政策を脅かすことになるので、イギリスは強く警戒し、抗議した。またロシアの南下政策とも対立する計画なので、帝国主義諸国間の衝突の要因となるおそれがあった。
ウィルヘルム2世の聖地巡礼
ヴィルヘルム2世は、1898年自ら聖地巡礼と称して東方旅行を実行、オスマン帝国の首都イスタンブルでオスマン帝国皇帝(スルタン)と面会してバグダード鉄道の敷設について話し合った。この旅行ではパレスチナではイェルサレムやベツレヘムを巡礼し、最後にはダマスクスを訪ねて演説し、全世界三億のイスラーム教徒の友であると強調した。この演説はドイツ帝国の勢力拡大に挑戦する宣言と受け取られ、同じく版図に多くのイスラーム教徒を擁するイギリス・フランスは強く反発した。バグダード鉄道の建設
すでに1888年にオーストリアとスイスの資本によってウィーンからイスタンブルまでのオリエント急行が開通していた。イスタンブルから小アジアのコンヤまでも敷設されていたので、新しく建設するのは、コンヤを起点としてバグダードをめざすのがバグダード鉄道であった。そいつはさらにバスラまで伸ばし、ペルシア湾まに到達することを立案し、1898年12月にオスマン帝国皇帝との仮協約も結ばれた。ところが資金不足で事業は進んでいなかったので、オスマン帝国皇帝がヴィルヘルム2世に訴え、仮契約が成立した。1903年3月5日にドイツと、オスマン帝国間の本協約が締結され、バグダード鉄道会社が設立された。このバグダード鉄道はイギリスの3C政策を脅かすことになるので、イギリスは強く警戒し、抗議した。またロシアの南下政策とも対立する計画なので、帝国主義諸国間の衝突の要因となるおそれがあった。