バグダード
8世紀にアッバース朝の都として建設された円形都市。「平安の都」と言われイスラーム文明の中心地として栄えた。現在のイラクの首都。
アッバース朝イスラーム帝国の都
イスラーム帝国のアッバース朝、第2代カリフのマンスールは、イラク平原のティグリス川西岸に、762年に新都建設を開始し、766年に完成させた。この新都は「平安の都」(マディーナ=アッサーム)と名付けられ、その中心部には、円形の城壁に囲まれ、緑色のドームを持つ宮殿が建てられていた。バグダードは8世紀から9世紀にかけてハールーン=アッラシード(第5代カリフ)のころ最も繁栄し、人口200万を数えたという。その子マームーン(第7代カリフ)は830年ごろ、父の建設したバクダードのギリシア語翻訳機関を発展させ、知恵の館(バイト=アル=ヒクマ)を完成させた。それ以後も、政治的機能以外にもカリフの居城のある宗教的機能をもち、さらにイスラーム文明の文化の中心地として栄えた。
Episode モスクと浴場の帝都
(引用)バグダードを建設した第二代カリフ、マンスールの時代に、バグダードには3万のモスクと1万の浴場があったという。イスラーム都市の規模はしばしば「モスクと浴場」で数えられる。イスラーム法は清潔・清浄を重視するため、沐浴のための公衆浴場はどんな場所でも必要とされた。モスクでは金曜日ごとに集団礼派が捧げられが、その前に沐浴することは「預言者の慣行」として尊ばれた。バグダードの最盛期である第5代カリフ、ハールーンがら第7代カリフ、マアムーンの時代(786~833)には、モスクが30万、浴場が6万軒もあったという。浴場それぞれに従業員(風呂たき、水汲み、ゴミ収集、監視)が5人だとすると、それだけでも30万人に達する。この最盛期の人口は、150万から200万人と推定されている。この人口は、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルよりも、唐の長安よりも多く、当時世界最大の都市であった。<小杉泰『イスラーム帝国とジハード』2016 講談社学術文庫 p.247>アッバース朝の衰退 946年、アッバース朝の弱体化に乗じて南下したイラン系の将軍がバグダードに入城し、カリフから大アミールの称号を受けて実権を握った。これがブワイフ朝で、これ以後、アッバース朝のカリフの存在は形式的なものになってしまう。また10世紀にはバグダードのカリフの他に、カイロのファーティマ朝、コルドバの後ウマイヤ朝でもそれぞれカリフを称したので、カリフが同時に三人存在する3カリフ時代に入った。
支配者の交替
ブワイフ朝がシーア派を掲げたのに対して、トルコ系のセルジューク族は1055年にバグダードを攻略してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を与えられ、セルジューク朝を建てて実質的なイスラーム世界の指導者となった。セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクは各都市に高等教育機関としてニザーミーヤ学院を設けたが、その中ではバグダードのものが最もよく知られていた。セルジューク朝はさらに小アジアに進出してビザンツ帝国領を蚕食し、12世紀から十字軍の攻勢を受けることとなって次第に弱体化した。フラグによる破壊とその後 1258年のモンゴルのフラグ軍が侵攻してバグダードは破壊され、アッバース朝も滅亡した。バグダードはその後、イル=ハン国に支配され、1393年にはティムールの侵略を受け、オスマン帝国の支配を受ける一地方都市として商業都市としての繁栄は続いたが、イスラーム世界の宗教的中心地はカリフが移住したとされるカイロに移った。
サファヴィー朝による占領 17世紀にはイランを支配したサファヴィー朝のアッバース1世がオスマン帝国と対抗するようになり、1623年にはバグダードを占領した。しかし、オスマン帝国は1638年にバグダードを奪回し、その支配を回復した。
オスマン帝国の支配から帝国主義時代へ
オスマン帝国時代のバグダードは、トルコ人の総督が治める重要都市として、帝国中央との結びつきも強かった。19世紀末の帝国主義時代となると、にわかに列強の野望がバグダードに及び、世界の耳目を集めることとなった。ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は3B政策を掲げ、ベルリン→イスタンブル→バグダードを結ぶ鉄道建設に着手した。それはイギリスのインド支配とアフリア支配を結ぶ3C政策に割り込むことになるので、イギリスは強く反発した。第一次世界大戦でもオスマン帝国がドイツ側についたため、イギリスはバグダードを戦略目標として位置づけ、オスマン帝国に対するアラブの反乱をさかんに支援した。イギリス委任統治
イギリス軍は1917年3月にはバグダード占領に成功、第一次世界大戦後にはイギリスの委任統治領となった。しかし、イギリス自身が火をつけたアラブ民族の独立要求を抑えることは難しくなり、イギリスはアラビアの名家ハーシム家のファイサルを国王として、1921年にイラク王国の成立を認めた。バグダードはその首都となった。しかし、イギリスの委任統治下にあって名目的な独立にとどまり、しかもイギリス側の判断による人工的な国境が画定されたため、領内にはスンナ派とシーア派の対立、独自の民族意識の強いクルド系住民を含むこととなり、その国家運営には当初から困難があった。イラク共和国の首都
第二次世界大戦後、アラブの独立・民主化が進む中で、1958年にイラク革命が起こり、国王は追放されてイラク共和国となり、バグダードはその首都となった。1955年、アメリカが主導して結成された対共産圏軍事同盟であるバグダード条約機構(METO)の本部はバグダードにおかれた。しかし、1979年にバース党のサダム=フセイン大統領の独裁始まり、イラン=イラク戦争を経て、そのクウェート侵攻をきっかけに1991年に湾岸戦争が起こった。アメリカの主導する多国籍軍によってイラクはクウェートから撤退したが、フセイン独裁政治は続いた。
イラク戦争での被害
2001年11月の9.11同時多発テロの後、アメリカのブッシュ(子)政権はイラクのサダム=フセイン政権が大量破壊兵器を開発しているとして、2003年イラク攻撃を開始、イラク戦争となった。サダム=フセイン政権は倒されたが、バグダードはその戦場となり、多くの死者を出した。また文化財が破壊、散逸した。現在は復興が進行しているが依然として爆破テロなどが起こり、治安は安定していない。しかし、2012年、アメリカのオバマ政権は財政難の中で、イラクからの米軍の撤退を表明、一定の区切りを迎えた。出題 2010年 千葉大 第1問
以下の図を参考にしつつ、問いに答えなさい。出典:『新イスラム事典』平凡社 2002年
問2.この国家の繁栄を支えた経済的基盤はどのようなものだったか。図から読みとれる情報を参考に述べなさい。
問3.この国家の政治・社会制度はどのような特徴を持っていたか、先行する王朝(7~8世紀)と比較しつつ、完結に論じなさい。
問4.10世紀以降現在まで、この都市の支配者や、この都市を取り巻く政治状況はどのような変遷をたどったか、説明しなさい。その際、次の語句・年号をすべて用い、最初に使用した際に下線を付すこと。
解答
問1 アッバース朝 バグダード
問2 四方に伸びる道路網や運河か建設されており、広大な帝国領土からの物資や租税が集積され、経済的な基盤となっていた。
問3 アラブ人の特権が認められたウマイヤ朝と異なり改宗した非アラブ人の税制上の平等化が図られ真のイスラーム国家となった。
問4 イスラーム各王朝ではトルコ系奴隷兵士を軍事力とするマムルーク制を採用し、その力が次第に強くなったためバグダードのカリフの権威は低下した。10世紀のブワイフ朝の軍事政権を経て、11世紀にはセルジューク朝がこの地を支配すると、スルタンが政治的実権を握った。13世紀にモンゴル帝国のフラグに占領されアッバース朝は滅亡、以後バグダードはイル=ハン国、ティムール帝国、オスマン帝国の支配を受けた。第一次世界大戦の後、イギリスの委任統治となり、1921年にイラク王国が成立しその首都となった。1958年のイラク革命でイラク共和国となったが、70年代にフセイン独裁政権が成立、湾岸戦争を起こした。フセイン政権はイラク戦争でアメリカによって倒されたが、バクダードは荒廃、現在は復興を模索している。