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世界政策

帝国主義列強の膨張政策を一般の世界政策というが、その中で特にヴィルヘルム2世が進めた第一次世界大戦前のドイツの海外進出策を「世界政策」という場合が多い。

 世界政策とは、自国の勢力圏を拡張し、世界分割を策する帝国主義諸国の政策を指す普通名詞だが、世界史上では特にドイツ帝国ヴィルヘルム2世が展開したイギリス、フランスに対抗して帝国主義的進出を図ろうという第一次世界大戦前の政策を言うことが多い。ヴィルヘルム2世自身が1896年の演説で、「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説したことに由来する。第二次世界大戦後のアメリカが積極的に展開した海外干渉も、世界政策といわれることもある。 → ドイツ

ヴィルヘルム2世の「新航路」

 ドイツの1860~80年代を主導したビスマルクの時代までは、外交政策の基本(ビスマルク外交)として、フランスを仮想敵国としそれを孤立させるためにロシア・イギリスとは協調しながら、一方でオーストリア=ハンガリー・イタリアとは三国同盟を締結して、安定を図る方策(勢力均衡策)をとっていた。列強間の領土獲得競争でもビスマルクは調停役にまわることが多く、植民地の獲得も英仏に比べて遅く、ようやく1880年代に入ってからであった。またビスマルクは国内政治では労働運動を取り締まり、思想統制を強める方針をとっていた。
 1888年に皇帝となったヴィルヘルム2世は、1890年にビスマルクを辞任させて、ビスマルクの外交と内政を旧航路と批判し、自らは「航路は従来のまま、全速前進」をめざすと述べた。それをもじって、ヴィルヘルム2世の国政全般は「新航路」といわれた。

ヴィルヘルム2世の世界政策

 その外交政策はビスマルク外交の勢力均衡策をすて、ドイツ国内の重工業の発展を背景に、イギリス・フランスの先行する帝国主義に対抗して、海外領土獲得に積極的に乗りだして世界強国となることを目指すもので、1896年には自ら「ドイツは世界帝国となった」と演説した。そのため、ヴィルヘルム2世の対外政策は「世界政策」とも言われた。そのような海外膨張政策には海軍力の増強が必要となり、ヴィルヘルム2世のもとでドイツはイギリスとの盛んな建艦競争を展開した。
 ヴィルヘルム2世の世界政策は、具体的には遅れていたアフリカ分割に割り込み、フランスとの2度の渡るモロッコ事件を引き起こし、さらに中東からアジアへの進出をめざしてバクダード鉄道の建設するという3B政策を進めてイギリスとの3C政策ときびしく対立した。さらに、バルカン問題ロシアと対立を深め、オーストリアと結ぶようになった。これらの三方面での対立は、1914年、ドイツがイギリス・フランス・ロシアと戦う第一次世界大戦を導くことになった。その結果、ドイツは敗北し、ヴィルヘルム2世は退位し、ドイツ帝国は崩壊した。
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