露仏同盟
1891年から数次にわたり締結されたロシア・フランス間の協定の総称。ドイツを想定した軍事的秘密同盟。20世紀初め三国協商に発展し、三国同盟と対立する。
1891年から94年にかけて成立したロシアとフランスのあいだで締結された政治協定・軍事協定の総称。1891年の政治協定に始まり、1892年に軍事協定が成立、1894年1月に最終的かつ正式に軍事同盟関係となったので露仏同盟という。
1894年1月の露仏同盟に続き、東アジアで同年に日清戦争が起こり、翌年下関条約で遼東半島を獲得した日本に対して、ロシアが反発したことに同調して、1895年4月23日に三国干渉を行った。
三国協商へ その後、1904年の日露戦争開戦後に英仏協商、戦後の1907年に英露協商が締結され、それによって三国同盟に対抗する「三国協商」の一部を構成することとなった。
ロシアとフランスの接近
1890年にドイツが再保障条約の継続を拒否してそれが解消されたため、反発したロシアが91年に急速にフランスに接近した。ロシアはフランスからの金融援助を期待して同盟関係を結ぶとともに、バルカン方面でのオーストリア=ハンガリー帝国への軍事的牽制になることを想定した。フランスもドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟の脅威に備えること意図し、1871年の普仏戦争の敗北以来のヨーロッパでの孤立状態を脱することを期待した。そのような両国の利害が一致し、1891年から94年までの間に同盟関係を形成した。1894年1月の露仏同盟に続き、東アジアで同年に日清戦争が起こり、翌年下関条約で遼東半島を獲得した日本に対して、ロシアが反発したことに同調して、1895年4月23日に三国干渉を行った。
ビスマルク体制の終わり
1891年は普仏戦争以来、ドイツ帝国でフランスの孤立化を軸とした外交を展開したビスマルクが、皇帝ヴィルヘルム2世と対立して退陣した翌年に当たっており、ビスマルクが「悪夢の同盟」といって最も恐れたフランスとロシアの同盟がまさにそのようなときに成立したのだった。独露の再保障条約の解消、露仏同盟の締結はビスマルク体制の時代が終わり、ヨーロッパが新しい国際体制――三国同盟と三国協商の対立構造――へと転換したことを示している。三国協商へ その後、1904年の日露戦争開戦後に英仏協商、戦後の1907年に英露協商が締結され、それによって三国同盟に対抗する「三国協商」の一部を構成することとなった。
露仏同盟の内容
1891年の政治協定に始まり、92年に軍事協定が成立、94年にフランスが軍事協定の内容を承認して最終的に成立した。軍事協定の内容は、ロシアがドイツ・オーストリア=ハンガリーから攻撃された場合、またはフランスがドイツ・イタリアから攻撃された場合は、相互に援助しあうことを約束したことであり、秘密条項とされた。このようにフランスとロシアは単なる親善にとどまらず、軍事的な相互援助関係を結んだので、協商ではなく同盟と言われる。第一次世界大戦の要因となる
フランスは一貫してドイツを仮想敵国としていたので、このロシアとの同盟の強化に努め、秘密軍事同盟という性格を強めていった。バルカン問題からロシアがオーストリア=ハンガリーとの対立を深め、ドイツとロシアの関係も悪化し、1914年6月にサライェヴォ事件が起こり、戦争の危機が高まる中、7月にフランス大統領ポワンカレはロシアのペテルブルクを訪問、両国の同盟関係を最終的に確認しあった。その直後の7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、次いでロシアがオーストリア、さらにドイツに宣戦を布告すると、フランスは露仏同盟の密約に従って、ロシアを支援するため、ドイツに宣戦布告した。こうして第一次世界大戦が勃発した。このように世界大戦の勃発には露仏同盟に固執したフランスの責任も大きい。