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朝鮮総督府

1910年、韓国併合によって京城(現ソウル)に設置された日本の朝鮮統治機関。当初は武断政治を行い、1919年の三・一独立運動を機に文化統治に転じた。36年間、日本の朝鮮植民地支配の統治期間として続いたが、1945年、日本の敗戦によって消滅した。

 1910年の韓国併合に伴い、従来の韓国統監府を拡充して京城(朝鮮王朝の都漢城。現在のソウル)に設置した。以後、1945年まで、日本の朝鮮植民地支配の中心機関となる。総督は天皇に直属し、韓国の政治・軍事の全権を握り、陸海軍の大将から任命されることになっていた。初代総督には陸軍大将寺内正毅が任命された(寺内はすでに朝鮮統監として在任しており、また陸軍大臣兼務であった)。

武断統治から文化統治へ

 朝鮮総督府による統治は、憲兵を主体とした軍人による強圧的な武断政治であったが、1919年に朝鮮民衆が独立を求めて三・一独立運動を起こすと、総督は文官任用も可とすることに改められ、「文化政治」と言われるソフトな統治方式に改められた。朝鮮総督は「陸海軍大将」を充てる規定から、文官も任用できると改訂され、その兵権は廃止されて朝鮮軍司令官に委譲された。しかし、実際には朝鮮総督は1919年に海軍大将斎藤実が任命され、それ以後も陸軍大将が任命されたので、軍人の名誉ポスト化した。

皇民化政策へ

 いわゆる文化政治のもとで、総督府官吏には一部朝鮮人も任用されるなど、一定の融和が図られたが、基本的には自治は認められず、日本人警察官による警察制度、日本語教育の強化などによる皇民化政策の推進など、植民地支配の強化が図られた。また、米の増産など日本資本主義を支える植民地としての位置づけがさらに強められた。
 1940年以降、日本が全面的な戦争状態に入ると朝鮮に対しても「大東亜共栄圏」を支えるため、皇民化政策はさらに強められ、創氏改名朝鮮人の強制連行徴兵制の実施などの措置がとられた。

朝鮮総督府の解体

 1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾により植民地支配が終わり、朝鮮総督府も9月9日を以て消滅した。
 朝鮮総督府の建物は朝鮮王朝の王宮である景福宮をほぼ取り壊して、覆い隠すように建造されていた。第二次世界大戦後も大韓民国の政府庁舎となり、朝鮮戦争の時に焼失したがまもなく再建され、1983年からは国立中央博物館として利用されていた。そのころから、旧朝鮮総督府の建物を解体するか保存するか、激しい議論になっていった。
 韓国の国民感情としては、総督府の建物はいかに重厚な文化財だと言っても、忌まわしい植民地時代の象徴であったのである。議論の結果、金泳三大統領の時、議会で解体することが議決され、1995年8月15日に式典を行い、尖塔部分の除いて解体工事が始まり、翌年までに旧建物は撤去され、あらたに景福宮が復元された。朝鮮総督府を象徴する中央の青い尖塔は天安市の独立記念館に移築された。このように、現在は旧朝鮮総督府の建物を見ることはできない。
※大村次郷『カラー版遺跡が語るアジア』2004 中公新書 p.98-108 に、1995~96年の旧朝鮮総督府解体工事に立ち会った時の写真と記事がある。
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大村次郷
『遺跡が語るアジア』
カラー版 2004 中公新書