皇民化政策
大東亜共栄圏構想により、日本支配下のアジア各地で採られた政策。植民地支配下の民衆を皇民化、つまり「天皇のもとでの日本人」とすることで、日中戦争・太平洋戦争と拡大した戦線への総動員体制を築こうとした。
日本は1931年の満州事変以来、中国への侵略を重ね、1937年に本格的な日中戦争に突入した。1938年の第一次近衛文麿内閣は「東亜新秩序」を声明、1940年の第2次近衛内閣では大東亜共栄圏の構想が打ち出され、軍国主義的膨張政策の意義づけが行われた。アジアに拡がった戦争は1941年に太平洋戦争へと拡大、東南アジア・太平洋地域に日本の支配圏となって軍政が布かれるようになった。日本政府はこのような勢力圏の拡大をアジアから欧米勢力を駆逐して、新たな秩序を構築することが目標である、と後付けた。
その結果、日本の支配圏は朝鮮、台湾などの旧来からの植民地と、太平洋戦争の進行によって日本領とされた東南アジアの諸地域とを含むようになったため、それを統一的に支配する必要に迫られることになった。そこでとられたのが皇民化政策と言われるもので、皇民化とは「天皇を戴く臣民」つまり日本人と同質の大日本帝国の国民となることを強制することであった。具体的には、朝鮮・台湾においては
マレーシアやインドネシアなどイスラーム圏でも、天皇崇拝・神社参拝・宮城遙拝が推奨されたが、メッカを礼拝するイスラーム教徒には特に受け入れがたいものであった。朝鮮や台湾での長期にわたる植民地支配の中で日本語の普及は進んだが、朝鮮での創氏改名、台湾での改姓名などは、民族の誇りを奪うものとして徹底することは出来なかった。
次の文は、1932年に朝鮮の慶安北道の両班の家系に生まれ、日本植民地支配下で少年時代を送り、朝鮮戦争の混乱を避けて来日し、朝鮮文学の研究者となって日本の大学で教えていた尹学準氏が『オンドル夜話』という著書で述べている、自身が体験した「皇民化教育」の姿である。
その結果、日本の支配圏は朝鮮、台湾などの旧来からの植民地と、太平洋戦争の進行によって日本領とされた東南アジアの諸地域とを含むようになったため、それを統一的に支配する必要に迫られることになった。そこでとられたのが皇民化政策と言われるもので、皇民化とは「天皇を戴く臣民」つまり日本人と同質の大日本帝国の国民となることを強制することであった。具体的には、朝鮮・台湾においては
- 日本語(国語)を徹底させるための教育が進められた。
- 天皇崇拝、日本の神社参拝などの強要され、宮城遙拝が奨励された。
- 姓名を日本人と同じに改める。
- 志願兵制度、徴兵制度を導入、戦時動員体制を強化する。
マレーシアやインドネシアなどイスラーム圏でも、天皇崇拝・神社参拝・宮城遙拝が推奨されたが、メッカを礼拝するイスラーム教徒には特に受け入れがたいものであった。朝鮮や台湾での長期にわたる植民地支配の中で日本語の普及は進んだが、朝鮮での創氏改名、台湾での改姓名などは、民族の誇りを奪うものとして徹底することは出来なかった。
朝鮮での例
1910年以来、続いていた朝鮮総督府による日本の朝鮮植民地支配は、1919年の三・一独立運動を契機に、それまでの武断政治から文化政治に転換したが、その内容は憲兵制度から警察制度への転換、学制の日本化に伴う日本語教育の徹底など、朝鮮を日本に同化させることを目指したものであった。さらに1930年代の日中戦争の開始後には日本の中国大陸支配の足場として朝鮮の軍事的意義が重視されるとともに、皇民化政策が具体化され、1939年12月26日、創氏改名に関する法令が公布、翌1940年2月に施行された。次の文は、1932年に朝鮮の慶安北道の両班の家系に生まれ、日本植民地支配下で少年時代を送り、朝鮮戦争の混乱を避けて来日し、朝鮮文学の研究者となって日本の大学で教えていた尹学準氏が『オンドル夜話』という著書で述べている、自身が体験した「皇民化教育」の姿である。
(引用)私が通った学校は南部朝鮮・慶尚北道の山奥にあった。山間僻地とはいえ、太平洋戦争のまっ最中だったから、学校に一歩足を踏み入れると、そこは日本精神、大和魂一色でぬりつぶされていた。1942,3年のころだったと記憶するが、開校二十周年を記念して校庭の隅っこに鳥居が建てられ、おもちゃのような神社が作られた。同時に「皇国臣民誓詞塔」や、薪を背負って本を片手にしたチョンマゲ姿のニノミヤ・キンジロウの銅像も建てられた。「皇国臣民の誓詞塔」が建つときに、私たち児童一人一人は毛筆で「皇国臣民の誓い」を書き、コンクリートの塔の中へ埋め込んだことを今でも鮮明に記憶している。当時、わが校に二人いた日本人教師のうちの一人が私たちの担任だったが、塔に魂を吹き込むのだから、まごころをこめて書くようにと口やかましく言われたものである。体操の時間などは男の子は銃剣術、女の子はなぎなたの訓練だった。・・・ <尹学準『オンドル夜話―現代両班考』1985 中公新書 p.51>
台湾での例
1895年に始まった日本植民地支配下に置かれた台湾では、1936年末から皇民化政策が始まり、日本統治の終わった1945年8月まで続いた。主要な項目は次のようなものであった。<周婉窈/浜島敦俊監訳『図説台湾の歴史増補版』2007 平凡社 p.181-194 などによる>- 国語運動。国語とは日本語のこと。日本語を強制的に使用させ、閩南語・客家語などの中国語、原住民の言語は抑圧された。その結果、1940年の統計では台湾で日本語を解するものは51%に達した。
- 改姓名。1940年に台湾総督府は戸口規則の一部を改正し、改姓名許可制度を公布した。朝鮮のように強制ではなく、その家族が「国語(日本語)常用」であり皇国民たる資格があることという条件で許可制とされた。また氏を創設することはなかった。徐々に条件は弛められ、特に戦争後期では日本兵となる際に日本式姓名にした人が大量に増加した。日本統治下でカタカナ表記の姓名だった原住民は、このころ日本式姓名に改め、さらに戦後の中国政府支配下では漢字式に改めた。したがって三度も姓名が変わることになった。
- 志願兵制度から徴兵制へ。当初、台湾人には兵役の義務はなかったが、1937年以降は「軍属」として出征するようになり、翌38年に朝鮮で始まった陸軍志願兵制度は、1941年に台湾でも導入された。青年の中に志願兵ブームが起き、第1回の募集では42万人に上った。翌年は海軍志願兵制度も始まった。1945年に全面的な徴兵制となったが、8月15日に台湾統治と軍事動員が共に終わった。最後の8年間で台湾では12万6750人が日本の戦争に参加(ほとんどが徴兵入隊者)、死亡者数は3万304名であった。
- 宗教・社会風俗の改革。最終目標は台湾固有の信仰、宗教に代わって、日本の国家神道を植え付けることだった。各地に神社をつくり、家庭には伊勢神宮の神札(おふだ)として「神宮大麻」を配布した。一方「寺廟整理」として民間の寺、廟、齊堂などを統合しようとしたが、強烈な反発を受け中止された。