日本の朝鮮植民地支配
1910年の韓国併合から1945年の日本敗戦までの35年間、日本は朝鮮半島を植民地支配した。当初は朝鮮総督府による武断政治が行われたが、1919年の三・一独立運動が起きてからは文治政治に転換した。1940年代の第二次世界大戦期には皇民化政策が推進され、朝鮮人に対する創氏改名、強制連行、徴兵制施行などが行われた。1945年8月、日本の敗北と共にその植民地支配も終わり、朝鮮は解放された。
1910年の韓国併合から、1945年の日本降伏まで、朝鮮半島は35年にわたって日本の植民地として支配された。この間、日本は漢城を京城(現在のソウル)と改称して朝鮮総督府を置き、現役の陸軍大将を総督として植民地支配を行った。朝鮮総督府は、土地調査事業と称して土地所有権の確定作業を進め、広大な土地を国有地として没収し、日本人の官僚や企業家に払い下げた。このように日本の朝鮮半島支配は、重要な米穀などの食糧資源と労働力の供給地として位置づけてたところに重点があったのであり、日本資本主義の成長を支えるための植民地支配であった。
その35年にわたる植民地支配は、1910年代の武断政治の段階と、1919年に勃発した三・一独立運動を期に、1920代に続いた文化政治の段階、そして1940年代の戦時下の軍政時代のおよそ三期に分けることができる。
日本による朝鮮植民地支配に心を痛めていた柳宗悦は、それでも次のように希望を捨てなかった。
つまり、1910年から36年間の日本植民地支配下の朝鮮における「臣民」には、参政権は与えられていなかった。朝鮮在住の日本人に対しても同様に選挙権は与えられていなかった。なお、日本に在住する朝鮮人には、1925年の普通選挙権制定により納税額にかかわらず選挙権が付与された(男子のみ)。日本による植民地支配の功罪を論じる前に、植民地においては参政権という人権が奪われていたこと、その末期にようやく認められたが、それも内地にくらべ著しく不平等で、しかも結局実施されなかった、ということを知っておくべきであろう。
大韓民国との間では、1960年にクーデタで実権を握った朴正煕独裁政権が経済復興のために日本との国交樹立を考えたため急速に動いた。おりからベトナム戦争が激化、朴政権はアメリカを支援して韓国軍をベトナムに派遣、その見返りとしての経済支援を、アメリカに代わって日本から受けるという、三国の関係を構築した。こうして日韓関係樹立の交渉が開始され、韓国・日本の双方で学生らの強い反対を押し切り、1965年6月に日韓基本条約が締結された。
また一方の北朝鮮とは、北朝鮮が金日成以来の世襲制独裁政治や核武装が続く中で、国交回復はさらに遠くなり、外交関係さえつくることをせずに、拉致問題もまた未解決のまま放置されている。日韓および日朝間の外交問題はあまりにもこじれ、解決が遠のいているといった感が強いが、現在の現象面だけで感情的に反応するのではなく、近現代の歴史を踏まえて解決の途を探るべきであろう。
その35年にわたる植民地支配は、1910年代の武断政治の段階と、1919年に勃発した三・一独立運動を期に、1920代に続いた文化政治の段階、そして1940年代の戦時下の軍政時代のおよそ三期に分けることができる。
武断政治
朝鮮総督は官制によって天皇に親任される現役の陸海軍大臣が任命されることとなっていた。軍人が朝鮮統治のトップに立つことから武断政治と言われるが、実態は、憲兵隊司令官が憲兵を指揮して、治安維持のみならず、戸籍管理や農政まで取り扱うという憲兵政治であった。また、朝鮮人は教育、官吏任用などで差別され、自治は認められず、言論・思想信条の自由・集会・結社の自由も認められていなかった。このような強圧的な支配は、朝鮮人の不満を強め、植民地化以前の抗日組織は満州や沿海州に移って抵抗を続けた。三・一独立運動と文化政治への転換
1919年に世界的な民族自決の気運の高まりをうけ、三・一独立運動が起こった。学生や教会などの中から起こった独立を求める動きは、3月1日にソウルで独立宣言の発表へと盛り上がったが、日本の植民地当局は直ちに弾圧に動き、本国の原敬内閣は軍隊を派遣してこの独立運動を鎮圧した。三・一独立運動は弾圧されたが、本格的かつ全国的な独立運動の最初の動きとして日本当局に衝撃を与え、日本政府はそれまでの武断政治を改め、文化政治といわれる路線に転換した。1920年代は文化政治が行われ、朝鮮総督は現役の陸海軍大将を充てる規定から文官も可とする規定に改められ、憲兵も廃止されて警察に切り替えられるなどの措置が執られた。ただし、実際には朝鮮総督に文官がなることはなかった。また総督府の官吏に朝鮮人が任用されるなどの転換が図られたが、基本的には知事は認められておらず、むしろ日本人警察官による監視、日本語教育の徹底など、朝鮮を日本国内と同じにするというのがその狙いであった。ある日本人の朝鮮同化への疑問
三・一独立運動は日本では「万歳事件」と言われ、反日的な一部の人間が起こした暴動に過ぎないと矮小化されて伝えられた。それを機に進んだ日本語教育の徹底などの同化策も日本国内で異を唱える人は無く、日本人はほとんど無自覚の中で朝鮮植民地支配が強化されていった。しかし、三・一運動の直後の5月に、読売新聞に日本の朝鮮植民地化に疑問を呈する次のような文が掲載された。(引用)ある朝鮮人はつぎのようなありのままな質問を吾々に与えた。「日本は吾々のために教育を与えるのか、日本のために吾々を教育するのか、何(いず)れなのか」と。如何なる日本人も前者であると言い切るものはないであろう。実際その教育は彼らの衷心の要求や歴史的思想やを重んじて行う教育ではない。むしろかかることを否定し歴史を教えず、外国語を避け、主として日本語を以て、日本の道徳、また彼らには今まで無関係であった日本の恩恵を中枢として、彼らの思想の方向をさ更(か)えようとするものである。全然新たな教育の方針に対して彼らが親しみ難い情を抱くのも自然な事実であろう。彼らには略奪者と見えた者を、最も尊敬せよと言われるのである。彼らにはこれが解し難い奇異な矛盾に充ちた声に響くにちがいない。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収 朝鮮人を想う Kindle版 位置No.298>筆者の柳宗悦(やなぎむねよし 1889~1961)は日本の民芸運動の中心メンバーであり、日本人の手仕事の美しさを発見した人物であるが、朝鮮美術を早くから高く評価していた人でもある。慶州の石窟庵や、高麗青磁・李朝の民芸品を日本に紹介したことでも知られている。彼は三・一運動にも理解と同情を示し、事件直後の5月20~24日の読売新聞に発表したのが「朝鮮人を想う」だった。このような見解を公表したのは、ほかに吉野作造・石橋湛山ぐらいで、ごく少数であり、ほとんど無視され、朝鮮人の暴動を支持するものとして非難さえされた。しかし、植民地支配を否定する論者が当時の日本人にもいたことを忘れないようにしよう。
日本による朝鮮植民地支配に心を痛めていた柳宗悦は、それでも次のように希望を捨てなかった。
(引用)しかし私は人間になおも燃える希望を抱いている。いつか自然は人間の裡(うち)から正しいものを目覚ますにちがいない。日本がいつか正統な人倫に立つ日本となることを信じたい。・・・私はいつか真理によって日本が支えられる日の来るのを疑わない。私はいま若い日本の人々がこの理想に向かって努力している事を知っている。貴方がたは人間としての日本人をも拒(しりぞ)けてくださってはいけない。私の正しい観察によれば、個人として朝鮮の人々に憎しみの心を持つ人はほとんどないのである。・・・私は情において吾々の同胞が隣邦の友を忘れてはいないのを信じている。少なくとも未来の日本を形造る人々は理に疎く情に冷かでは決してないだろう。<柳宗悦『朝鮮とその芸術』所収 「朝鮮の友に贈る書」 Kindle版 位置No.433>
植民地支配の強化
1930年代には、満州および中国本土への日本軍の侵出拠点としてその統治は強化された。1940年代の戦争の時期になると、日本は朝鮮に対する皇民化政策を推進し、創氏改名や国内の労働力を補うための朝鮮人の強制連行や慰安婦の徴発が行われた。1942年5月、日本政府は朝鮮での徴兵制施行を閣議決定し、1944年に朝鮮で最初の徴兵検査が実施された。1942年6月に朝鮮総督として着任した小磯国昭は、「国体の本義の透徹」「道議朝鮮の確立」を唱え、朝鮮人が皇国臣民(日本の天皇の臣民)としての自覚を徹底すれば、大東亜の中で「光栄ある将来を開拓」できると述べた。<武田幸男編『朝鮮史』新版世界各国史2 山川出版社 p.312>朝鮮人の強制連行
1939年~45年までの間の朝鮮から日本本土に労働者の強制徴用を行った。この間、朝鮮から日本本土に強制徴用された労働者は推定72万に達している。また中国からも約4万人が主として華北から日本本土に移送された。「募集」や「官斡旋」で連れてこられたことになっているが、その実態は拉致と同じだったケースが多い。彼らは炭坑、鉱山、土木工事などで従事させられ、労働条件は劣悪であった。脱走や暴動も起こったが、失敗すれば見せしめのリンチを受けた。こうして朝鮮人6万余人、中国人7千人が死亡したと言われる。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.71 山川出版社>/<外村大『朝鮮人強制連行』2012 岩波新書>植民地支配下の参政権
日本の敗色が濃厚になる中、徴兵制施行や日本語教育の強化などの皇民化政策を推進するために、朝鮮人に対する一定の権利付与も必要であるという認識も生まれていた。1944年12月、小磯国昭内閣は政治処遇調査会を設置し、朝鮮・台湾への参政権付与を審議し、45年4月に衆議院議員選挙法・貴族院令を改正して選挙権を付与することが決まった。衆議院議員は朝鮮に23の定数が設けられたが、その選挙権は直接国税15円以上の納入者に限られた。参議院議員は尹致昊ら7名が推薦により選出された。しかしこの選挙権付与は戦争遂行のために、独立戦争を厳しく抑えつつ、植民地支配を持続しようとする狙いであったが、1945年8月、日本の敗戦によって実現しなかった。<武田幸男編『朝鮮史』新版世界各国史2 山川出版社 p.313>つまり、1910年から36年間の日本植民地支配下の朝鮮における「臣民」には、参政権は与えられていなかった。朝鮮在住の日本人に対しても同様に選挙権は与えられていなかった。なお、日本に在住する朝鮮人には、1925年の普通選挙権制定により納税額にかかわらず選挙権が付与された(男子のみ)。日本による植民地支配の功罪を論じる前に、植民地においては参政権という人権が奪われていたこと、その末期にようやく認められたが、それも内地にくらべ著しく不平等で、しかも結局実施されなかった、ということを知っておくべきであろう。
朝鮮の解放
第二次世界大戦中の1943年12月の米英中首脳によるカイロ宣言では、「朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること」とされていたが、1945年に入り日本の敗北が鮮明になってくると、米ソの思惑で、朝鮮の独立の時期について先延ばしされた。1945年8月15日、日本の無条件降伏が発表され、35年にわたる朝鮮植民地支配が終了した。朝鮮の人々は、この日を光復節として祝ったが、日本軍が撤退すると入れ替わりに、ただちに南部にはアメリカ軍が、北部にはソ連軍が進駐した。こうして、米ソがにらみ合う中、朝鮮の分断は次第に固定化され、1948年に南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国という分断国家として独立することとなった。韓国との国交樹立
朝鮮半島情勢はその後、冷戦がアジアに及んで熱戦となり、1950年から朝鮮戦争となった。アジアの共産化を阻止するため、アメリカは急きょ日本の主権を回復させて西側陣営に加えるため、1951年のサンフランシスコ平和条約を締結した。日本はアメリカを初めとする西側諸国とは外交関係を結んだが、ソ連・中国などの共産圏との国交回復はしないという、「片肺講和」となった。そして朝鮮半島の二国は戦争中であったこともあって講和はできず、大きくずれ込むこととなった。大韓民国との間では、1960年にクーデタで実権を握った朴正煕独裁政権が経済復興のために日本との国交樹立を考えたため急速に動いた。おりからベトナム戦争が激化、朴政権はアメリカを支援して韓国軍をベトナムに派遣、その見返りとしての経済支援を、アメリカに代わって日本から受けるという、三国の関係を構築した。こうして日韓関係樹立の交渉が開始され、韓国・日本の双方で学生らの強い反対を押し切り、1965年6月に日韓基本条約が締結された。
悪化する日韓関係
日韓関係はこれによって開かれ、70~80年代以降、韓国経済も急成長し、両国の貿易関係も順調になり、日本では韓流ブームが起きるなど、両国関係は好転した。ところが、韓国経済が急成長を遂げる一方、日本はバブル経済がはじけて低成長時代に入り、日本と韓国の感情的な関係悪化が始まった。その認識のズレは、日韓基本条約に対する見方の違いに見ることができる。日本はこの条約によって大韓民国に対する経済支援を行ったことで戦争責任に終止符を打ったという立場を取り、さらにこの賠償をテコの一つとして70年代以降の韓国が経済急成長を成し遂げたことに、感謝の気持ち持って欲しいという自負もある。ところが、韓国内では日韓基本条約は朴正熙独裁政権が国民の強い反対にもかかわらず、強引に締結したものであるとしてそれを認めない機運は今も根強い。それが、日本の植民地支配への謝罪が完全には終わっていない、という意識の底流に存在している。従軍慰安婦と徴用工への謝罪と補償の問題、靖国神社問題、竹島(韓国名独島)問題などが依然として両国間に対立点として残っている。また一方の北朝鮮とは、北朝鮮が金日成以来の世襲制独裁政治や核武装が続く中で、国交回復はさらに遠くなり、外交関係さえつくることをせずに、拉致問題もまた未解決のまま放置されている。日韓および日朝間の外交問題はあまりにもこじれ、解決が遠のいているといった感が強いが、現在の現象面だけで感情的に反応するのではなく、近現代の歴史を踏まえて解決の途を探るべきであろう。
参考 エズラ=ヴォーゲルの見方
韓国と日本の関係を考える際、韓国人の日本に対する悪感情を「反日」として斬り捨てるか、あるいは無視していたのでは話は前に進まないだろう。彼らが歴史と日本との関係をどう捉えているか、第三者の意見を見てみよう。その際、参考になるのが、かつて『ジャパン・アズ・ナンバーワン』や『アジア四小龍』などの著作で日本・韓国を含む東アジア地域の経済成長を分析したアメリカの経済学者エズラ=ヴォーゲルの次の言葉は聞くべき価値があると思う。(引用)日本による浸透の深さと日本の植民地支配の抑圧的な性格のゆえに、韓国は以前の植民地支配者に対し、その他多くの旧植民地よりもはるかにふかい愛憎半ばする感覚を持っている。日本の世論調査はこの数十年の間、国民が最も嫌いな国は旧ソ連と韓国であると報じているが、韓国人の日本人に対する敵意はそれ以上のものであった。韓国人は植民地時代の日本人の残虐性と搾取、1923年の関東大震災後の朝鮮人虐殺、そして日本へ強制連行された朝鮮人工夫の奴隷のような扱いを非難しつづけた。韓国人は、日本人が日本に居住する韓国人の二世、三世に市民権を与えることや、過去の悪行に対する謝罪や、韓国人を基本的な敬意をもって扱うことをしたがらないことに怒りをあらわにしている。にもかかわらず多くの韓国人は、植民地時代にあっても大学、銀行、官公庁などの日本のエリート集団や機関に受け入れられたし、日本の言葉や文化に熟達しいることを誇りにしてきた。この激しい愛憎相半の感情は、韓国人をして痛烈な日本非難にはしらせ、また多くの韓国人の心底にある日本に対する憧憬を認めることを難しくさせることになった。韓国人の愛憎相半の感情はおそらく「愛と憎しみ」ではなく「尊敬と憎しみ」という言葉で最もよく描写できよう。いずれにせよ、あらゆる分野において、韓国ほど日本の成功を理解することによって利益を得た国は他にない。<エズラ=ヴォーゲル/渡辺利夫訳『アジア四小龍』1993 中公新書 p.70-71>だたし、この文が書かれた1990年代初めから、現在は30年が経過している。この間、工業力では韓国は日本を追い越し、特にITと音楽・映画などのソフト面でははるかに凌駕している観がある。とすれば、現在の韓国の若い世代に日本に対する「尊敬」の念はすでに失われているのではないだろうか。そして日本が朝鮮を植民地支配が抽象化された「憎しみ」としてだけ残る恐れがある。日本の若者が朝鮮植民地支配の「事実」を忘れ去ってしまえば、その「憎しみ」は解消されないままになってしまう。「尊敬と憎しみ」の相半する感情が(もしも)韓国の若者にある間に、憎しみの感情を解消する必要がある。そのためには少なくとも従軍慰安婦・徴用工問題での日本の為政者による腹を割った解決が必要に思われる。<2021/10/25記>