文化政治
日本の植民地支配下の朝鮮で三・一独立運動に対応して、それまでの武断政治から転換させ、1920年代に一定の宥和をはかった植民支配体制がとられた。
日本の朝鮮植民地支配が続く中、1919年に朝鮮で三・一独立運動が起こると、原敬内閣は朝鮮総督と台湾総督の官制を変更し、現役武官制を改め、文官任用に改めた。朝鮮総督は陸軍元帥長谷川好道から海軍大将斎藤実に交替した。結局敗戦まで文官の総督が任命されることはなかったが、新総督はそれまでの憲兵による強圧的な「武断政治」を改め、ソフトな「文化政治」と言われる統治方式を採用し、憲兵制度をやめて普通警察制度を導入し、地方制度では朝鮮人を登用することとした。この新しい統治方式を進めたのは、原敬(平民宰相と言われた日本最初の政党内閣の首相)につながる朝鮮総督府の官僚たちであった。<小林英夫『日本のアジア侵略』世界史リブレット p.22 山川出版社>
また、文化政治実施とともに、それまで制限されていた会社設立が届出制となり、それにともなって日本資本は土地の買い占めだけでなく、鉱業および工業部門にも積極的に進出を開始し、植民地工業が急速に発展した。しかしその基幹部門は日本資本主義に依存しなければ自立できないようになっており、朝鮮工業の成長は日本資本に負うという基本性格は1945年の解放まで続いた。<以上、姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.202-214>
吉野の結論は、日本人の朝鮮人に対する蔑視感情を捨て、軍人による統治(実態は憲兵による統治)を改めなければならない、ということであった。そして具体的な「朝鮮問題」の解決策として、吉野は次の4点を提案した。
その上で、吉野の具体的な提案は、原敬の内閣、斎藤実の朝鮮総督府に一定の影響を与え、「武断政治」から「文化政治」への転換が実現した。しかし、その内実を見てみると、1の差別の撤廃では数の上では学校は増えたが、その内容は日本語教育が徹底されて、むしろ同化政策を放棄せよと言った吉野の意図とは逆行していく。憲兵制度はたしかに改められたが、憲兵の多くがそのまま警察官となって警察による民族独立運動抑圧が続くことになった。言論の自由も、新聞が発行されて一段と進んだが、「内地と同じように」治安維持法体制下で窒息していく。吉野の提案は不十分なものにとどまり、また次第に吉野の意図とは異なってていったと言わざるを得ない。
文化統治の内容
(引用)その統治方法は、1910年代の武断政治がもっぱら暴力に頼ったのにたいし、暴力と懐柔とを組み合わせたところに、その相違がある。いわゆる「文化政治」は、内地延長主義によって、朝鮮における日本内地との制度的差別をできるだけ縮小し、「内鮮宥和」と「民意暢達」をはかるというものであった。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.202>「文化政治」で実施された制度には次のようなものがある。いずれも強権的な支配から一定の融和策に転じたものであるが、それぞれに不徹底な面があり、植民地支配を転換するのではなく、強化することを狙ったものであることを読み取ろう。
- 朝鮮総督の武官制を廃止 朝鮮総督は官制で「陸海軍大将ヲ以テ充ツ」とされていたのを改めて、文官もなり得ることとした。しかし、実際には斎藤実が海軍大将、その後はいずれも陸軍大将が任命されており、一貫して現役大将が続いた。ただし、朝鮮総督の兵権は廃止され、朝鮮軍司令官に委譲された。
- 憲兵制度を廃止し普通警察制度とした あわせて官吏や教員の制服着帯を廃止した。しかし実際には憲兵を警官に採用し、警察網をより強化した。警察官も1919年の6387名から1920年には20134名と増強され、一府郡に一警察署、一面(村)に一駐在所が配置された。
- 朝鮮人を一部、植民地支配体制に組み入れる 若干の朝鮮人を官吏に採用、待遇改善を図った。植民地支配の諮問機関として道・府・面の行政単位ごとに評議会を置いたが、自治は認められなかった。支配体制に組み入れられた朝鮮人には親日的な民間団体を育成し、「不平・不満分子」を排除して朝鮮人の中に対立を持ち込むという「分割支配」を行った。
- 皇民化=同化教育 教育令を改定して内地と同様の学制とした。また日本語教育が強調され、普通学校(小学校)では日本語10時間に対し、朝鮮語4時間とされた。特に初等教育の普及が急務とされ、一面(村)一校設置計画が立てられたが、それが完成した1936年においても就学率は25%(男子40%、女子10%)に過ぎなかった。 → 皇民化政策
- 大学の設立 それまで朝鮮では「民度」が低いことを理由に大学設置が認められていなかったことが不満の一つであったので、新教育令で大学設立を認めた。1920年に朝鮮教育協会が創立され、民間で自主的な大学設立をめざしたが、全国的な水害と干害のために資金が集まらず結実しなかった。民間主導が停滞する中、総督府は京城帝国大学令を公布し、1926年に開設した。しかしこれは教員、学生とも日本人が大半を占め、朝鮮にありながら日本人の大学であった。
- 言論、出版、集会の自由の一部容認 武断政治下では全く否定されていた言論、出版、集会の自由や、結社の自由が、厳しい制限があったにせよ、かちとられた。1920年には『東亜日報』『朝鮮日報』など民間新聞の創刊が許可された。しかしその一部の発行権は親日団体に与えられていた。また新聞は植民地当局によってしばしば発行停止処分を受け、そのいくつかは廃刊に追い込まれた。1925年に日本で制定された治安維持法は、そのまま朝鮮でも適用され、28年には改悪されて適用範囲が広げられ、処罰規定の中に死刑が追加された。それによって朝鮮ではあらゆる民族独立運動が「国体ヲ変革」するものとして弾圧されることとなった。
米の増産と工業化
その他、1920年代には、日本の植民地当局は「産米増殖計画」を作成し、朝鮮を日本資本主義にとっての食糧供給地として位置づけた。日本では第一次世界大戦後の輸入超過の中での外米輸入が大きな負担となっており、さらに1923年の関東大震災で入超が進んだため、国内および朝鮮の産米を増産し、外米を輸入制限して国際収支の改善を図ろうとした。このように日本の食糧・米価問題の根本的解決を朝鮮に求めたものであったが、1929年に世界恐慌がおこり、米価が暴落すると、朝鮮米輸入反対運動が起き、朝鮮での産米増産計画は中止されることになる。また、文化政治実施とともに、それまで制限されていた会社設立が届出制となり、それにともなって日本資本は土地の買い占めだけでなく、鉱業および工業部門にも積極的に進出を開始し、植民地工業が急速に発展した。しかしその基幹部門は日本資本主義に依存しなければ自立できないようになっており、朝鮮工業の成長は日本資本に負うという基本性格は1945年の解放まで続いた。<以上、姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社選書 p.202-214>
参考 吉野作造の朝鮮問題解決策
吉野作造は三・一独立運動の勃発をうけ、『中央公論』1919年4月号に「対外的良心の発揮」と題した論文を発表し、多くの論者が暴動を非難する中、朝鮮人に同情し、植民地支配の失敗として捉えて日本は深刻に自己反省すべきだと論陣を張った。さらに同年6月5日、黎明会(民本主義を宣揚する団体)で「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」と題して講演し、暴動鎮圧にあたった日本軍が、朝鮮の数十人の良民を教会堂に集めて焼き殺した水原事件など「野蛮性が発揮」され、それが朝鮮人の憤激をかったことなどをあげ、暴動に非があるとしても、なぜそれが起こったか、又今後どうすれば良いか考えなければならないと述べた。吉野の結論は、日本人の朝鮮人に対する蔑視感情を捨て、軍人による統治(実態は憲兵による統治)を改めなければならない、ということであった。そして具体的な「朝鮮問題」の解決策として、吉野は次の4点を提案した。
- 朝鮮の人に向かって、差別的待遇を撤廃すること。 不平等な待遇の最たるものが教育上の差別である。小学校(普通学校)はすくないながらあるが、中学校(高等普通学校)は殆ど無い。またその程度が極めて低い。高等教育をうけることは極めて困難である。また大変能力があって官吏に登用されても、朝鮮人と日本人の俸給には大きな差がある。先ずこのような教育と官吏の俸給などでの差別待遇を改める必要がある。
- 武人政治(具体的には憲兵政治)を廃止すること。 朝鮮総督が軍人でなければならない理由はない。また朝鮮の統治は殆どすべて憲兵である警務総長の下、憲兵がやっている。文官は居るが、文官も含めて、小学校の教員まで剣を下げて威厳を保とうとしている。彼らの威圧的な態度は実は嫌われている。民政と治安を合わせてやろうとするから、ずいぶんおかしな事が行われている。
- 同化政策を放棄すること。 長い歴史を見ても朝鮮人は民族的独立の気性に富んでいる。彼らのいっさいの伝統を忘れて、日本人になれというのは無理なことである。日本民族、朝鮮民族がそれぞれ異なった特質を以て互いに融和することによって東洋の平和という共通の使命をはたすのが本来のすがたである。
- 言論の自由を与えること。 朝鮮においては朝鮮人はもちろん、日本人にも言論の自由がない。民間で発行される新聞がない。言論の自由がないから、本当のことがわからず、不平・不満が強まっていく。(もっとも内地の言論も不自由であることを認める吉野は、「内地でも相当の圧迫を蒙っているのであるから、その程度の圧迫は朝鮮の諸君に甘んじて貰うとして、とにかく内地と同様の言論の自由を、朝鮮に与えてくれてもしかるべき事」だと言っている。)
その上で、吉野の具体的な提案は、原敬の内閣、斎藤実の朝鮮総督府に一定の影響を与え、「武断政治」から「文化政治」への転換が実現した。しかし、その内実を見てみると、1の差別の撤廃では数の上では学校は増えたが、その内容は日本語教育が徹底されて、むしろ同化政策を放棄せよと言った吉野の意図とは逆行していく。憲兵制度はたしかに改められたが、憲兵の多くがそのまま警察官となって警察による民族独立運動抑圧が続くことになった。言論の自由も、新聞が発行されて一段と進んだが、「内地と同じように」治安維持法体制下で窒息していく。吉野の提案は不十分なものにとどまり、また次第に吉野の意図とは異なってていったと言わざるを得ない。