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フィリピン独立運動

19世紀末のスペインからの独立運動を開始。米西戦争に際し独立を宣言したが、戦後アメリカは独立を認めずフィリピン=アメリカ戦争となる。その後はアメリカからの独立をめざした。

 フィリピンは、16世紀からスペインの植民地支配が続き、ようやく19世紀後半になってフィリピンの独立運動が活発になった。一般にはフィリピン独立運動とは、この段階のことを指すことが多いが、この運動が失敗した後の20世紀前半のアメリカ軍政からの独立運動を含めていうこともある。この二段階にわたるフィリピン独立運動の動きは、ホセ=リサール指導による民族運動→1896年のフィリピン革命→アギナルドの指導と敗北→1898年の米西戦争→アメリカの支援でフィリピン共和国独立宣言→フィリピン=アメリカ戦争→フィリピンの敗北、独立運動の挫折、という経過をたどった。

民族運動の開始

 16世紀以来、スペインの植民地支配が続く中で、1840年代からようやく民族意識、ナショナリズムが芽生え始めた。それは主に本国スペインに留学したインテリのフィリピン人の中に生まれてきた。その一人がホセ=リサールであり、彼はフィリピン独立の父として、現在も国民的な敬愛を受けている。ホセ=リサールは1880年代から独立を主張する文筆活動に入り、1892年にまず穏健な社会改革を目ざすフィリピン民族同盟を組織し、幅広い平和的な社会運動を指導しようとした。しかしスペインの総督はリサールを危険人物としてただちに逮捕した。

フィリピン革命

 ホセ=リサールの同志であったボニファシオはより戦闘的な「カティプーナン」を組織、1896年8月に武装闘争を開始した。それがフィリピン革命の始まりである。それに対してスペインは激しい弾圧を加え、ホセ=リサールを指導者として96年12月30日に殺害した。しかしカティプーナンもボニファティオらの武力闘争派とアギナルドらの和平派とに内部分裂して弱体化した。主導権はアギナルドが握って、97年5月、ボニファシオを処刑した。弱体化した独立運動は、アギナルドがスペイン当局と妥協して香港に亡命したことによって失敗に終わった。

米西戦争とフィリピン共和国の独立宣言

 1898年、キューバ問題から米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)が起きると、アメリカはスペインとの戦いを進める上で、フィリピン独立運動を支援した。アギナルドもフィリピンに戻り、革命軍を指導してスペインと戦い、同1898年6月12日、フィリピン共和国の独立を宣言し、初代大統領となった。

フィリピン=アメリカ戦争へ

 アメリカはスペインとの戦争に勝利してフィリピンの領有権を獲得すると、その独立を否定した。独立を認められなかったアギナルドらフィリピン共和国は、1899年2月からアメリカとの戦争に立ち上がった。それがフィリピン=アメリカ戦争である。フィリピン共和国は果敢に戦ったがアメリカ軍の武力の前に敗北し、アギナルドは捕らえられてしまった。こして最終的に独立運動は敗北、フィリピンはアメリカの統治下にはいったが、アメリカも独立運動に配慮する統治をせざるを得なかった。 → アメリカ統治下のフィリピン
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書籍案内

鈴木静夫
『物語フィリピンの歴史』
1997 中公新書