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米西戦争/アメリカ=スペイン戦争

1898年のキューバをめぐるアメリカとスペインの帝国主義戦争。アメリカがキューバを実質的支配下におき、太平洋などでも領土を獲得し、帝国主義国家への転換を明確にした。一方、スペインの植民地帝国の時代が完全に終わるという世界史的な転換点でもあり、スペイン国内にも深刻な影響を及ぼした。またアメリカのフィリピン植民地化はアジア情勢の大きな変化を意味していた。

 1898年4月、キューバ島をめぐって起こったアメリカ合衆国とスペインの戦争。アメリカ帝国主義の典型的な政策と言える。

キューバの独立宣言

 キューバはコロンブスの西インド到達直後にスペイン領となって以来、スペインの植民地支配を受け、クリオーリョによる砂糖プランテーションが続いていた。19世紀に入り、イギリスを始めとして世界的な奴隷貿易禁止、奴隷制廃止が進む中、スペイン領キューバでは黒人奴隷制による砂糖プランテーションによる砂糖生産は急増していた。アメリカ向けの1868年に独立運動(第一次独立戦争)が起こった。この独立戦争は鎮圧されたが、90年代にホセ=マルティを指導者とした独立運動が再び活発となり、1895年に第二次キューバ独立戦争が始まり、7月に共和国として独立を宣言した。

アメリカの介入

 しかしスペインの弾圧はなおも続いていたため、アメリカ国内ではキューバの砂糖資源に投資していたので、それを失うことを恐れて介入の世論が高まり、1898年2月にハバナ港でアメリカの軍艦メイン号が爆沈して多数のアメリカ兵が犠牲となったメイン号事件(アメリカの謀略という説もある)が起きると、マッキンリー大統領1898年4月、スペインに宣戦した。アメリカ海軍はラテンアメリカの各地、太平洋のフィリピングァムなどスペイン植民地のスペイン基地を攻撃、スペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカの勝利となった。 → アメリカの外交政策

メディアが引き起こした戦争?

 キューバの独立運動を弾圧するスペイン政府の残虐行為がアメリカ国内で知られると、それに対する非難が高まり、マッケンリー大統領も「非文明的で非人道的な」行為を止めるようたびたびスペイン政府に勧告した。スペイン政府は戦争を回避するために譲歩してきたが、開戦を要求するアメリカ国内の世論を抑えきれずに戦争勃発となった。米西戦争はそうした世論を作りだしたメディアによって引き起こされたとさえいわれている。
 そんな中、ハバナに停泊中のアメリカ軍艦メイン号の爆発事件は一気に国民の開戦を要求する声を高めた。イエロー・ジャーナリズムは「メイン号を忘れるな」というスローガンを掲げ好戦気分を煽り、国民の間に復讐の感情を燃え上がらせた。こうして大統領は「人類の名において、文明の名において、危険にさらされたアメリカの利益のために」宣戦布告を議会に要請し、それは採択された。<有賀夏紀『アメリカの20世紀(上)』2002 中公新書 p.55-56>

Episode 「私が戦争を提供する」

 現在のようなメディアによる世論形成が始まったのがまさに1890年代であり、ピュリッツァーの『ワールド』、ハーストの『ジャーナル』に代表される大衆紙(イエロー・ジャーナリズムといわれた)が発行部数を競い合い、そうした新聞にとってスペインによるキューバの弾圧は大衆の感情に訴える願ってもないニュース材料だった。両紙は記者や挿絵画家をキューバに派遣し、スペインによる残虐行為をできるだけ生々しく伝えるように指示した。ハースト(新聞王と称された)は、現地に派遣した画家のフレデリック・レミントンに対し、「君は絵を提供しろ。私が戦争を提供するから」と話したという。

アメリカの植民地獲得

 1898年12月に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピンプエルトリコグアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に植民地をもつ国家として一躍世界の強国となった。
 なお、米西戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている。

フィリピン植民地化

 また米西戦争ではアメリカに協力して戦ったフィリピンの独立派アギナルドフィリピン共和国に対してはその独立を認めず、フィリピン=アメリカ戦争で植民地支配を開始し、それを足場に、中国への進出をはかることとなる。
偽りのマニラ総攻撃  1898年5月1日、デューイ提督指揮のアメリカ海軍はマニラ湾のスペイン艦隊を全滅させた。しかし陸上では拠点を持たなかったので、急遽香港に亡命していたフィリピン独立運動の指導者アギナルドをアメリカの艦船で送り届けて上陸させ、その指導によってフィリピン軍の協力態勢をとった。7月までに陸上部隊が到着、最高司令官メリットはアギナルドに戦争後の独立を口頭で約束した上でマニラ総攻撃に協力を求めた。その一方、デューイはベルギー公使を通じてスペインのマニラ総督と秘密交渉を行っていた。スペイン総督は「スペインの名誉を守るため、見せかけの戦闘を行い、その後スペイン軍は降伏する」と約束し、その場合はフィリピン軍のマニラ進入は許されないという条件を付けた。デューイは条件を守ることを約束した。
 1898年8月13日、雨期の最中で土砂降りの雨の中、マニラ総攻撃が行われた。フィリピン軍は積極的に攻撃したが、いたるところでアメリカ軍に進路を妨害された。午前11時に戦闘は終わり、城郭都市の一角に兼ねての約束通りスペイン軍の白旗が上がった。早速市内に入ろうとしたフィリピン軍は、米軍の屈強な警備兵に阻まれた。スペイン総督からの降伏を受け入れたのはアメリカ軍最高司令官メリットだった。「こうしてアギナルド軍は、マニラ解放の歴史的な日に、米軍の脇役に押しやられた。」<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.129>

アメリカの「すばらしい小さな戦争」

(引用)開戦から数日後、米西戦争最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起こった。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、驚きをもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであった。・・・・何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという考えた(海軍次官セオドア=ローズヴェルトらを中枢とする共和党の)マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。「素晴らしい小さい戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか三ヶ月で終了した。アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。義勇兵を率いて戦闘に参加したセオドア=ローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。また、戦争の果実も申し分なかった。1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.60>

スペインの「98年世代」

 米西戦争に敗れたスペインでは、かつてのスペイン帝国の栄華が無残に否定されたことに大きな衝撃をうけた知識人の中に、自己改革運動が起こった。彼らは「98年世代」と言われ、復古王制下のスペインの没落を自覚し、精神的な再生をめざした。哲学者で文学者であったウナムーノなどに代表される彼らの出現は、後のスペイン文学などに大きな影響を与えたが、その運動は精神的、文学的なものに留まり、スペイン社会の改革には結びつかず、1905年頃から衰退した。

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