フィリピン=アメリカ戦争/フィリピン戦争
1899~1902年、独立を宣言したフィリピンと介入したアメリカの戦争。アメリカはフィリピンの独立を抑え、植民地支配を開始する。フィリピンでの反米闘争はその後も続いた。
米西戦争(1898年)の結果、フィリピンの植民地支配をスペインから継承したアメリカに対し、独立を宣言したフィリピンが戦った、1899~1902年の戦争。フィリピンは敗れ、アメリカ植民地支配が確定した。
アメリカは米西戦争で勝利した後、パリ条約(1898)でフィリピンを2000万ドルで買い取って領有し、軍政下に置いた。アメリカに協力してスペインと戦ったアギナルドは、1898年6月にフィリピン共和国の独立を宣言したが、アメリカのマッキンリー大統領は承認せず、共和国軍を反乱軍として鎮圧しようとしたため、1899年2月、フィリピン=アメリカ戦争(単にフィリピン戦争とも言う)が始まった。フィリピン軍はゲリラ戦で抵抗したが、1901年、アギナルドがルソン島北部で捕虜となり、1902年に敗北した。フィリピンの独立は認められず、これ以後アメリカの統治が続き、1942年の日本軍の軍政を経て、1946年に独立を達成する。 → フィリピン(アメリカの統治)
「フィリピン戦争」
アメリカは米西戦争で勝利した後、パリ条約(1898)でフィリピンを2000万ドルで買い取って領有し、軍政下に置いた。アメリカに協力してスペインと戦ったアギナルドは、1898年6月にフィリピン共和国の独立を宣言したが、アメリカのマッキンリー大統領は承認せず、共和国軍を反乱軍として鎮圧しようとしたため、1899年2月、フィリピン=アメリカ戦争(単にフィリピン戦争とも言う)が始まった。フィリピン軍はゲリラ戦で抵抗したが、1901年、アギナルドがルソン島北部で捕虜となり、1902年に敗北した。フィリピンの独立は認められず、これ以後アメリカの統治が続き、1942年の日本軍の軍政を経て、1946年に独立を達成する。 → フィリピン(アメリカの統治)
意義
アメリカ帝国主義のアジア侵出の一環として起こった戦争であり、列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、さらにまもなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義列強による世界分割戦争の一つである。(同時に展開された義和団事件ではアメリカは出兵したが、フィリピンに兵力を割いていたので、多くは派兵できなかった。)またこの戦争は、アメリカが関わった最初のアジア人との戦争であり、後の太平洋戦争、ベトナム戦争につながっていく。「フィリピン戦争」
(引用)双方の政治的、軍事的緊張の中で、1899年2月4日、米比軍の武力衝突が発生した。“フィリピン戦争”の勃発である。4日夜8時すぎ、ネブラスカ連隊のパトロール隊がマニラ・サン・ファン橋近くのサントルに近づいた時、フィリピン軍のパトロール隊に遭遇した。米兵は、二度ほど「止まれ」と叫んだあと発砲、フィリピン兵2名を射殺したのである。・・・・米国史観を色濃く反映しているフィリピン史では、米軍の挑発によるこの戦争の意義は、意識的に見過ごされている。これはアジアにおける米国の最初の戦争であった。私が“フィリピン戦争”と呼ぶのはそのためだ。<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.137>不意を突かれたアギナルドは、2月5日午前零時45分、軍司令官、州知事、市町長にあて「国土を防衛せよ。いかに死ぬかを全世界に示す絶好の機会である」と電報を打った。しかし、政府は10個中隊約1100人をマロロスから急派するのが精一杯だった。予想通り、米軍は5日からマニラ周辺各地で大攻勢に出た。3月24日、マッカーサー軍はフィリピン軍に総攻撃を加え、別の部隊は31日にマロロス(共和国の首都)を陥落させた。アギナルド政府はすべての公文書に放火して撤退した。戦闘は圧倒的にアメリカ軍有利の状態で進んだが、フィリピン軍の抵抗も激しかった。米軍では2月4日から4月1日までに、将校12人、兵127名が戦死した。また熱射病のため、戦病死の数は全体の15%に及んだという。<鈴木 p.138>
アメリカ軍の残虐行為
アメリカに対してフィリピンの民衆はゲリラ戦で抵抗した。フィリピン方面のアメリカ軍最高司令官マッカーサー将軍(後に日本占領の最高司令官となったダグラス=マッカーサーの父)は、1900年に正規軍ではないゲリラは「兵士としての資格に欠け、したがって、もし捕虜となった場合、戦争における兵士の特典を享けるに値しない」と声明を行った。将軍の配下のジェイコブ=スミス将軍は「10歳以上はすべて殺すこと」と簡潔な命令に要約した。当時、フィラデルフィアの新聞で報じられた現地報告には「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の10歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、……をすべて殺している。手を挙げて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れていく……」こうした記事は残虐行為を非難するためでなく、文明人が非文明人に対する行為として正当化するために書かれていた。フィリピンのアメリカ軍指揮官には本土でインディアン=ファイターとしてコマンチやアパッチと戦っていたが、「一人のインディアンをつかまえるのに100人の兵士を要したものだったが、フィリピン人はいっそうたちが悪い」と言っている。インディアン戦争からフィリピンへ、さらにベトナムへとつながるのがアメリカの歴史の最暗部である。<藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 朝日選書 p.245-247>Episode コルト45の誕生
アメリカのコルト社が製造した拳銃コルト45はギャング映画やヤクザ映画でおなじみであるが、制式名称はM1911という軍用ピストルで、1911年に誕生した。これはアメリカ軍でフィリピンとの戦争で、ジャングルの中でのフィリピン人イスラーム教徒との戦闘のためにつくられたのだった。フィリピン南部にはイスラーム教徒が多く、彼らはスペイン統治時代にモロと言われキリスト教支配に激しく抵抗していた。特にミンダナオ島の南西に繋がるスルー諸島には16世紀の初めにスールー王国というイスラーム教国が生まれ、スペインに抵抗しながら対中国貿易を行っていた(中国史料には蘇禄と記されている)。スペイン植民地当局とのモロ戦争を戦ってきた彼らは、新たな支配者アメリカに対しても激しく抵抗した。アメリカ軍は銃身の長い38口径回転式拳銃(西部劇で見るもの)を使っていたが、ジャングルで蛮刀を振るってくるモロの攻撃に悩まされたため、もっと威力が高い小型の拳銃としてコルト45を開発した。その新型武器の投入などによってアメリカ軍はスールー王国の抵抗を抑え、1915年に植民地支配下に組み込んだ。コルト45は、その後アメリカ軍の制式拳銃として第一次、第二次世界大戦からベトナム戦争まで使用され続けた。(引用)神(アッラー)に誓いをたて、頭髪、眉毛も剃り落とし、白衣の装いをこらして、身に弾丸を十数発も受けながらアメリカ人に襲いかかったスルー人のホラメンタード(誓討)の狂気……に対抗するため(アメリカ人は)コルト45を発明した。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.289>
布引丸事件
アメリカとの戦争に突入したフィリピン共和国政府のアギナルドは、武器の支援を日本に期待した。1899年6月、革命派のマリアーノ=ポンセとリチャウコらの代表団を日本に送り、日本政府から武器・弾薬の調達をうけるべく工作を行った。ポンセはちょうどそのころ日本に亡命していた孫文に出会い、その紹介で宮崎滔天や犬養毅らの民権派に接近した。宮崎や犬養は、アジアの解放を掲げていたのでポンセに協力し、陸軍参謀本部を動かし、武器・弾薬の援助を得ることに成功した。しかし、軍当局が提供したのは、日本では使用しなくなっていた村田銃などの旧式武器だけであった。それでもポンセは目的に達したと喜び、さらに中村弥六代議士の斡旋で三井物産から老朽船布引丸を購入できた。布引丸は武器・弾薬を積み、7月19日に長崎港を出港したが、21日未明、中国の寧波沖合で暴風雨にあって沈没してしまった。こうして日本からのフィリピン独立支援の武器・弾薬はアギナルドのもとに届くことはなかった。