ブレスト=リトフスク条約
1918年3月3日、ロシアのソヴィエト政権がドイツなど同盟国側と結んだ単独講和条約。第一次世界大戦の東部戦線での戦闘を終結させ、ソヴィエト=ロシアは旧ロシア帝国時代の領土を大幅に減少(ポーランド、バルト三国、フィンランド、ウクライナなどを放棄)させたが、革命遂行の前提である戦争停止を実現した。しかし、ソヴィエト政権の確立を恐れるイギリス、フランス、アメリカ、日本は共同して革命干渉に乗り出しシベリア出兵を行った。同年11月、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北して消滅したことにより、この条約も消滅した。
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参考 なぜブレスト=リトフスクか ブレスト=リトフスクは当時はドイツ支配下にあったが、東のロシア側からは広軌の鉄道が、西のポーランド側からは標準軌の鉄道が来ており、またがって通行する列車は、クレーンにより車体を吊して台車の交換を行っていた。つまりロシア側とドイツ側の代表が乗り換えなしに異動できる接点がブレスト=リトフスクだった。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.10> → 鉄道
停戦交渉の開始
第一次世界大戦で戦線が東西に分かれて拡大し、しかも長期化したことで生産の停滞、食糧不足に苦しむドイツと、1917年11月の十月革命でようやく革命政権を樹立したばかりのソヴィエト=ロシアは、それぞれに戦争継続が困難な事情があり、講和が必要となっていた。両国は1917年11月に停戦交渉に入った。12月15日にはバルト海から黒海にいたる線で停戦協定が成立し、戦闘は中断された。そのうえで、翌月、ブレスト=リトフスクで、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国の同盟側四国代表と、ソヴィエト=ロシアとの本格的な講和条約交渉が始まった。交渉の難航
ソヴィエト=ロシア代表ははじめヨッフェ、後に外務人民委員(外務大臣に相当)のトロツキーが務めた。ソヴィエトは平和についての布告で打ち出した無償金・無併合を講和の前提としたが、ドイツ側は有利な戦況を生かして賠償金獲得・占領地の併合をねらい、まず根本の所で対立、交渉は難航した。また旧ロシア帝国に属し、大戦でドイツ軍が占領している、ポーランド、フィンランド、ウクライナ、バルト地域などの民族自決に対する措置も両国で争点となった。ドイツは講和の条件としてこれらの広大な地域のロシアからの分離を要求してきた。レーニンの即時停戦論 ソヴィエト側には大戦でツァーリによって動員されたロシア軍が戦意を喪失し、自発的に戦線を離脱し始めており、ソヴィエト政権を支える革命軍=赤軍は建設が始まったばかりで決定的に戦力的な不利を抱えていた。ソヴィエト政権の内部では戦力の決定的不足を認識したレーニンは、ドイツ側の過剰な条件に対しても受け入れざるを得ず即時講和しかないと考えていたが、ブハーリンなど原則論者は帝国主義との妥協はするべきでなく革命戦争を続行せよと主張した。また当時はソヴィエト政権に加わっていた社会革命党(エスエル)左派も戦争の継続を主張した。しかし、各地の兵士・農民の声はそのような原則論ではなく、一刻も早く戦争を終わらせて家に帰りたいというのが本音であることをレーニンは感じ取っていた。
トロツキー「戦争もしないが講和もしない」策 交渉当事者のトロツキーはどう考えたか。ブレスト=リトフスクに向かう途中の前線で、ソヴィエト側の塹壕はからっぽだった、という現実を見て、戦争継続は不可能と判断していた。しかし、彼はドイツ国内でのリープクネヒトなど社会民主党左派の革命運動に期待し、ドイツで内乱が起きればドイツ軍はすぐには行動できないはずだとみて、「戦争を中止し軍隊を復員させるが、講和には調印しない」という判断をした。その意味は休戦状態を長びかせ、講和には応じず、時間稼ぎをしてドイツの出方を待つ、ということであったようだ。トロツキーはこの方針でソヴィエトをまとめるため、交渉を一端中断し、1月8日にペトログラードに戻り党幹部と協議に入った。レーニン、ブハーリン、トロツキーの三者が方針をめぐって激論が交わした結果、幹部会の票決はレーニン(即時停戦)支持15票、ブハーリン(戦争継続)支持32票、トロツキー(戦争もしないが講和もしない)支持16票という結果で票が割れてしまった。
協商国の働きかけ この同じ1月8日、アメリカ大統領ウィルソンは、十四カ条の原則を発表した。ソヴィエト政権が対ドイツ単独講和で離脱し、東部戦線がなくなることでドイツの戦力が全面的に西部戦線に向けられることを危惧し、協商側の戦争目的を明らかにする意図があった。その他、協商国側はソヴィエト=ロシアの単独講和をなんとか阻止しようとさまざまに働きかけた。しかし、レーニンは外国からの戦争継続要求、国内の革命戦争継続の主張、トロツキーの時間稼ぎ説なども退け、即時単独講和によって平和を実現することしか、生まれたばかりのソヴィエト政権を救う道はない、という方針を曲げなかった。
ドイツの軍事攻勢再開 しかし、まもなくトロツキーのドイツ軍は動かないだろうという見通しが誤りだったことが明らかになった。1月15日、ウクライナの反ボリシェヴィキ政府は独立を宣言し、ドイツと単独講和、2月になるとドイツ軍は休戦協定の期限切れを口実に軍事行動を再開すると共により厳しい講和条件を通告してきた。2月18日の党中央委員会では、レーニン案は7対6で否決され2月22日に再採決となったが、トロツキーはここで態度を変え、投票を棄権、またレーニンに対して外務人民委員の辞任を申し出た。自分の判断に誤りがあったことを認めたのだった。再採決の結果レーニン案の即時停戦が可決され、ただちにベルリンに講和条件受諾、停戦に合意する旨が打電された。<以上、主としてトロツキー『わが生涯』1930 岩波文庫2001年刊 下 p.176-204 などによって構成>
講和条約締結 1918年3月3日、講和条約がブレスト=リトフスクで調印された。外務人民委員にトロツキーに代わって就任することになっていたチチェーリンに対して、レーニンは「講和条約には眼を通さず、調印だけせよ」と命じたという。しかし、チチェーリンが就任したのは調印の後のことで、実際に3月3日にソヴィエト=ロシア代表の全権として調印したのはソコリニコフだった。トロツキーはすでに外務人民委員を辞めており、調印には加わっていないことに注意。<和田春樹編『ロシア史』新編世界各国史22 山川出版社 p.298> <2023/1/31 訂正>
こうして難航したブレスト=リトフスク講和交渉は、ドイツなど同盟国側の一方的な条件をソヴィエト=ロシア側が受け入れることで妥結を迎えた。ソヴィエト=ロシアはその結果、広大な領土を失ったが、レーニンが意図したように「革命」を守るための「息抜き」を得ることができた。このドイツ=ロシア単独講和によって協商側の一角がくずれたことは第一次世界大戦、さらにアジアも含む世界史の動向に大きな影響を与える(後述)。
ブレスト=リトフスク条約の内容
ソヴィエト=ロシアとドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦した。ロシアはポーランドの領土主権を放棄、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国、フィンランド、ウクライナ、ベラルーシから撤退して独立を認め、カフカス地方の一部をオスマン帝国に譲った。この時ロシアが喪失した領土は合計320平方kmに及び、ヨーロッパ史上未曾有のことであった。またロシアは、人口の約三分の一、最大の穀倉地帯、石炭・鉄・石油などの近代的工業中心地などを失うことになった。ソヴィエト=ロシアが放棄した地域には次々と新国家が自立したが、実際にはドイツ軍が駐屯し、ドイツの傀儡政権が樹立されその保護国同然であった。しかも8月末には、ドイツはロシアの苦境を利用して同盟国側と追加条約を結ばせ、新たにグルジア(ジョージア)の独立と60億ルーブルの事実上の償金、バクー産出の石油の三分の一の引き渡しなどを認めさせた。<木村靖二『第一次世界大戦』2014 集英社新書 p.182>
ウクライナは独自の講和条約締結
ブレスト=リトフスク条約はロシアのボリシェヴィキ政権とドイツ・オーストリアの間の講和条約であるが、このときウクライナではキエフ(キーウ)をボリシェヴィキに占領されていたものの、それとは別にウクライナ国民共和国が存在していた。ウクライナ国民共和国政府は、ボリシェヴィキ政権をウクライナ代表とは認めず、独自に代表を派遣し、ドイツ・オーストリア側と交渉、別個の講和条約を締結した。こちらもブレスト=リトフスク条約というが、内容はドイツ軍がウクライナから食糧を供給されることを条件に、ボリシェヴィキ軍と戦うというもので、それに基づいてドイツ軍はキエフに侵攻し、ボリシェヴィキ軍を撤退させた。しかし、さらにウクライナに傀儡政権をつくって支配しようとしたため、激しい抵抗を受けることとなった。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.183>締結後の情勢・影響
ソヴィエト=ロシア 戦争継続を主張する左翼エスエルは政権を離れ、農民パルチザン闘争を主張するようになり、ボリシェヴィキ内部にもブハーリンなどの反主流派を生み出すことになった。トロツキーは外務人民委員を辞任した後、軍事人民委員に就任、赤軍の創設を最優先に内部から革命を維持できる武力の育成を図った。この結果、レーニンとトロツキーを中心としたボリシェヴィキ主流派の独裁体制が現実のものとなっていった。3月6日はボリシェヴィキは正式にロシア共産党と改称、またドイツ軍の攻撃を避けて首都をペトログラードからモスクワに遷した。ドイツ、敗戦へ ドイツは東部戦線の重圧が無くなり、西部戦線に戦力を集中できる態勢となったので一時勢いを盛り返した。しかし、軍が期待したような東部戦線からの西部戦線への兵力移動は実際には出来なかった。それは、ブレスト=リトフスク条約で獲得した広大な勢力圏を維持するためには、なお軍隊の駐留が必要だったからだった。そしてこの講和にもかかわらず戦争が続いたことで、多くの将兵の中に厭戦気分が蔓延していった。1918年11月にキール軍港の水兵反乱が起きると、ドイツ軍は一気に崩壊に向かい、西部戦線においても協商国に対して降服し、1918年11月11にに停戦が成立、第一次世界大戦の終結へと向かう。
対ソ干渉戦争 ドイツとの戦争を続ける資本主義諸国にとっては、ブレスト=リトフスク条約でソヴィエト=ロシアが戦線から離脱し、ドイツ軍が息を吹き返すことは脅威であった。また、社会主義革命を標榜するボリシェヴィキ政権が実権を握り、しかもレーニンが平和についての布告で秘密外交を暴露して批判したことも大きな脅威となった。各国はなんとか革命政権を打倒し、ロシアをドイツとの戦線に復帰させなければならないと考えるようになり、そのためにはロシア内部の反革命勢力を軍事支援することが必要と判断した。こうして対ソ干渉戦争はブレスト=リトフスク条約締結直後のイギリス・フランス軍のムルマンスク上陸で始まったが、当初はアメリカのウィルソン大統領が革命干渉に消極的であったこともあって、共同歩調とはならなかった。そのような中、アジアでは日本がロシア革命への介入は満州からシベリアへの勢力拡大の好機と捉え、積極的に動こうとし始めた。
シベリア出兵 アメリカも日本が単独でシベリアに出兵するのを警戒して、ついに1918年8月2日~3日、アメリカ軍・日本軍は共同軍事行動としてシベリア出兵を決行した。口実はシベリアに抑留されているチェコ兵捕虜を救出することとされたが、実際には革命干渉軍であり、シベリアで反革命軍(白軍)を支援して革命軍(赤軍)と戦った。しかし、反革命軍が敗北したことによって革命干渉は失敗、1920年にはほとんどが撤退した。日本軍のみがシベリア・樺太に居座ったが、それも1922年(北樺太では1925年まで)に撤退した。
ブレスト=リトフスク条約の廃棄 こうしてブレスト=リトフスク条約は、国際政治と第一次世界大戦の戦局に大きな影響を与えたが、1918年11月11日に締結された第一次世界大戦の休戦協定において、その廃棄が盛り込まれ、わずか約8ヶ月で効力を失った。しかしこの条約でソヴィエト=ロシア(1922年からソ連)が領有を放棄した、旧ロシア領のポーランド、バルト三国、フィンランド、ウクライナなどの東欧諸国の独立はそのまま認められた。ウィルソンの提唱する民族自決の原則によって追認されたのだった。