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新経済政策/ネップ/NEP

1921年、レーニンが主導し戦時共産主義から転換し、市場経済などを容認し生産力向上を目指した経済政策。経済・財政の安定ももたらされ、外交面でも協調策がとられてソ連承認が続いた。1924年、レーニンの死後、権力を掌握したスターリンによって1929年にNEPは否定され、計画経済と農村集団化による社会主義経済建設に向かう。

 ソヴィエト=ロシアからソ連に移行する時期の1921年3月に、それまでの戦時共産主義に代わってレーニンの指導で採用された、部分的に市場経済を容認した経済政策。略称として、NEP、ネップと言われる。
 この政策転換によってソヴィエト政権は経済の復興に成功し、その市場経済容認への転換はソヴィエト政権の国際社会での承認へと向かい、1922年には第一次世界大戦後の最初のヨーロッパ経済復興国際会議であるジェノヴァ会議に招請され、その場でドイツ共和国とのラパロ条約を締結して国交を樹立した。ネップは1928年まで継承されるが、レーニンの死後、権力を握ったスターリンのもとで否定され、ソ連は社会主義経済建設に向かう。

政策転換の背景

 戦時共産主義の穀物徴発は、農民の反発を買い、各地で農民反乱が起こり(多くはエスエルの指導を受けた)、また1921年3月にはクロンシュタットの反乱が起こった。レーニンはそれらの動きを赤軍によって弾圧する一方、1921年3月第10回党大会で、穀物徴発制を廃止して現物税(食糧税)制に切り替えることを提案し、承認された。その背景には、1914年から7年にわたる戦争と内戦のため、工業生産は戦前の13%に落ち込み、穀物生産は革命前の7400万トンから3000万トンに激減し、経済が破滅状態にあったことがあげられる。

ネップの内容

 レーニンの新経済政策(NEP)第2次ロシア革命の経過の中でも、大きな方向転換を意味していた。農民は現物税(22年からは一律10%)を支払った残りの穀物を自由市場で販売することが認められ、小企業の私的営業の自由が与えられて労働者の雇用、商取引が認められた。この部分的に市場経済を容認したことによって生まれた小資本家はネップマンと言われた。これらの改革によって、一定の制限はあったとはいえ、ロシア経済は息を吹き返し、財政も安定してきた。

ネップに伴う外交の転換

 ソヴィエト=ロシアのボリシェヴィキ政権が、一定の自由主義経済を導入する新経済政策に転換したことは、資本主義国との関係の転換ももたらした。レーニンも資本主義国との貿易関係を再開させることを望み、1921年にはまず英ソ通商協定が結ばれ、イギリスとの貿易が始まった。1922年には第一次世界大戦後の世界経済の復興について協議するジェノヴァ会議に代表が参加し、そのときにドイツとの交渉が進展してラパロ条約が締結され、初めてソ連が承認された。さらにイギリス労働党政府が1924年1月、フランスの左翼連合政府は1924年10月にそれぞれソ連を承認した。しかし一方でコミンテルンによる世界革命路線との矛盾が生じることとなり、資本主義諸国の警戒感は残った。アメリカは遅れて1933年11月に承認している。
日ソ基本条約 日本との関係では1925年1月、日ソ基本条約が調印され、北樺太から日本軍が撤退、1918年に始まったシベリア出兵は完全に終了した。なお1924年には、二番目の社会主義国としてモンゴル人民共和国が成立している。

レーニン死後の転換

 新経済政策が決定される一方、この時期から共産党以外の党派の排除も進んだ。すでに立憲民主党(カデット)は1917年に非合法とされ、社会革命党(エスエル)の左派、主流派、メンシェヴィキも1922年からは存在が許されなくなる。
 また共産党内部にはレーニンが1922年に動脈硬化症で倒れてから、ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンらが主導権を握り、反対派に対する弾圧が厳しくなる。レーニン死後の権力闘争に勝ち抜いたスターリンは、1929年にはNEPを否定して、計画経済と農村集団化による社会主義社会建設に向かい、市場経済は認められなくなる。

ネップ期の再評価

 ソ連史におけるネップ期(1921~28年)は、スターリン体制が否定された1980年代後半のゴルバチョフ政権のペレストロイカ期に、スターリン型の命令的な計画経済が成立する前の社会主義の多様な形態の可能性を追求した時期として再評価された。
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