フィウメ
アドリア海に面した港町。イタリア人住民が多かったが1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議でセルブ=クロアート=スロヴェーン王国領とされたことに対し、イタリア人の作家ダヌンツィオが義勇兵を率いて占領するという事件がおこった。1924年にイタリアのムッソリーニが併合を強行した。第二次世界大戦後にクロアチア領とされたた。現在のリエカ。
リエカ(旧フィウメ)GoogleMap
・フィウメ(Fiume フイウメ、フィウーメとも)はイタリア半島の東、アドリア海の最も奥、イストリア半島の東側にある港町で現在はクロアティア領でリエカといわれている。フィウメとはイタリア語での呼び方なので、現在の地図帳にはない。元来は南スラヴ系のスロヴェニア人が多く住む町であって、中世以来、オーストリア=ハンガリー帝国のハプスブルク家の支配を受けていた。この付近の海岸部はイタリアのヴェネツィアの勢力が伸びてきて、19世紀ごろからはイタリア人の移住が多くなり、イタリア語圏という状態になった。
イタリア代表オルランド首相は秘密条約に基づいてフィウメを含むアドリア海西海岸の割譲を要求したが、講和会議を主導したアメリカ大統領ウィルソンの強い反対に遭い、トリエステと南チロルの領有は認められたものの、フィウメとダルマチア海岸の割譲は認められなかった。イタリア代表オルランドは会議をボイコットするなど抗議したが、受け入れられなかった。
第一次世界大戦
イタリアはドイツ・オーストリアとの三国同盟を構成していたが、第一次世界大戦が始まると、イギリス・フランスなど三国協商国との間でロンドン秘密条約を結び、トリエステや南チロルなどの「未回収のイタリア」とともにこの地を与えられることを条件に、協商側に参戦した。大戦では苦戦しながら、オーストリア軍に勝ち、戦勝国の一つとして1919年のパリ講和会議に参加した。イタリア代表オルランド首相は秘密条約に基づいてフィウメを含むアドリア海西海岸の割譲を要求したが、講和会議を主導したアメリカ大統領ウィルソンの強い反対に遭い、トリエステと南チロルの領有は認められたものの、フィウメとダルマチア海岸の割譲は認められなかった。イタリア代表オルランドは会議をボイコットするなど抗議したが、受け入れられなかった。
フィウメ問題
1919年9月に締結された連合国とオーストリアとの講和条約であるサン=ジェルマン条約においても、この地は新たに建国されたセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後の1929年に国名変更してユーゴスラヴィア王国となる)領とされることになった。この地はヴェルサイユ体制のもとでの領土問題のひとつとなり、フィウメ問題といわれるようになった。ダヌンツィオのフィウメ占拠
サン=ジェルマン条約締結直後の1919年9月12日、イタリアの詩人であるダヌンツィオが、突如義勇兵を率いてフィウメに上陸、占領するという事件が起こった。ダヌンツィオは愛国者を自称し、フィウメはイタリアのものだ、と主張して独断で行動を起こしたのだった。セルブ=クロアート=スロヴェーン王国側は当然反発し、また発足したばかりの国際連盟でもイタリアの侵略行為として問題にされた。苦慮したイタリア政府は外交交渉で1920年1月にフィウメを独立した自由市とすることを約束したが、それでもダヌンツィオは退去しなかったので、ついに軍を派遣して撤退させた。(引用)ダヌンティオはナショナリストを組織し、多くの将軍や企業経営者に後援されてクーデターをおこし、フィウメを占拠した。このダヌンティオによるフィウメ占拠は一年以上続いたが、ニッティ内閣は反乱を恐れ軍を出動させることに尻込みした。こうして、ますます自由主義国家イタリアの倫理感が薄弱化した。一方、フィウメの占拠者たちはといえば、どこからも干渉されず、勝手なアイデアを実行することができたために、フィウメは新しい政治制度の実験場の様相を呈した。そして、ついには過激なサンディカリストたちによって憲法まで起草され(ただし発効するまでには至らなかった)、フィウメという言葉は、情熱と芝居がかった演出の政治を意味するまでになった。ダヌンティオはバルコニーに立って即興で演説し、美辞麗句のスローガンを叫んで聴衆を熱狂させた。ジョリッティがこのような「理性に対する反乱」を鎮圧したのは当然であった。ジョリッティは1920年12月、かれが政権を取る最後となる五度目のジョリッティ内閣を成立させ、海軍に出動を命じてダヌンティオを降伏させた。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.273>
イタリアによる併合
その後もイタリアでは併合の要求が強く、ファシスト党のムッソリーニが政権を取ると、ユーゴスラヴィアと直接交渉して1924年に強引に併合した。第二次世界大戦後はユーゴスラヴィア連邦に返還されたが、ユーゴ内戦によって連邦が解体した後はクロアティア共和国の領土となって現在に至っている。