トルコ大国民議会
トルコ革命を進めたムスタファ=ケマルが1920年、第1回をアンカラで召集し、1923年にはトルコ共和国樹立を宣言した。
トルコ革命を推進
第一次世界大戦の講和に反対してイスタンブルを追放になっていたムスタファ=ケマルは1919年にトルコに戻り、抵抗運動を組織した。まずアナトリアのムスリム農民を国民軍に組織し、ついでいくつかの準備会議を経て、1920年4月にアナトリア中部の都市アンカラに第1回トルコ大国民議会を招集(アンカラ政府)し、トルコ革命が開始された。大国民議会のもとにアンカラ政府と国民軍が組織されたが、この段階ではまだイスタンブルにオスマン帝国のスルタン政府と帝国議会は存在しており、イスタンブル側はただちにアンカラ政権を否認、ケマルの行動を国家に対する反逆として死刑を宣告し、「カリフ軍」を組織して派遣し、トルコ人同士が内戦で戦うこととなった。
ギリシア=トルコ戦争 このときすでに1919年5月からギリシア軍がアナトリアのイズミルを占拠し、内陸部に侵攻してギリシア=トルコ戦争が続いていたが、ケマルの指導するアンカラ政府軍はスルタン政府軍を破り、さらにギリシア軍を1922年に撃退して勝利をおさめた。
セーヴル条約 それに対してイスタンブルのオスマン帝国政府は、1920年8月に連合国との間で講和条約としてセーヴル条約を締結、それは帝国の領土を小アジア西部に限り、他の地域をイギリス、フランス、イタリアによって分割するという、トルコ人国家の消滅に近い屈辱的な条約だったので、ケマルの率いるアンカラ政府軍は、セーヴル条約破棄を掲げて、オスマン政府軍との戦いをさらに展開した。
オスマン帝国の滅亡 1922年11月、オスマン政府軍を圧倒し、実力によって国権の最高機関となったトルコ大国民議会は、スルタン制の廃止を決定、最後のスルタン、メフメト6世はマルタに亡命した。これによって36代、6世紀近く続いたオスマン帝国の滅亡は正式に決まった。ただし宗教的権威としてのカリフの存在は認められ、アブデュルメジト2世を新カリフとして選出した。
ローザンヌ条約締結 権力を掌握したアンカラ政府は、旧オスマン政府が締結したセーヴル条約を破棄すべくイギリス、フランス、イタリアと交渉し、1923年7月に新たな講和条約としてローザンヌ条約を締結することに成功した。諸外国は8月にトルコ大国民議会が承認した。これによってセーヴル条約は廃棄され、そこで失ったイスタンブル周辺のヨーロッパ側領土、アナトリア半島東側の領土を回復し、現在のトルコ共和国の版図となった。
アンカラ遷都 ローザンヌ条約が締結されたことでイスタンブルを占領していた連合軍は撤退し、10月6日にケマルはイスタンブルに入城した。しかし、新政権は大国民議会のあるアンカラを首都と定め、10月13日に正式にアンカラ遷都を決定した。イスタンブルは470年間続いた首都の地位を失った。
トルコ共和国成立
1923年10月29日、トルコ大国民議会でトルコ共和国樹立が宣言され、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。その後、共和国政府は精力的に法整備、統治機構の改廃を進めた。その際、ケマルが最も心を砕いたことは、イスラーム国家としての性格をなくし「世俗化」を実現することであった。その決意のもとで次々と改革が実行される。カリフ制の廃止 「世俗化」の象徴がカリフ制廃止だった。さすがにカリフ制の廃止に対しては国内だけでなく、世界のイスラーム圏でカリフを擁護するヒラーファト運動が沸き起こったが、ケマルの決断は揺るがず、1924年3月3日、トルコ大国民会議は圧倒的多数でカリフ制度の廃止を決定した。最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった(オリエント急行でスイスに向かった)。最終的には1926年には最初のトルコ共和国憲法に含まれていたイスラーム教を国教とする条項が削除され、トルコ共和国はイスラーム圏で最初の世俗的な国家となった。
→ トルコの世俗主義改革