トルコ共和国
第一次世界大戦の敗北で、国家存亡の危機に直面したが、ケマルの主導によってギリシアとの戦争に勝ち、領土を確保し、1923年、ケマル=パシャを初代大統領に選出して共和国を発足させた。
トルコ共和国 GoogleMap
- (1)トルコ共和国の成立
- (2)世俗主義政策
- (3)第二次世界大戦と戦後
- (4)揺らぐ世俗主義
- ・NewS<2020/7>
- ・トルコの関連項目
- トルコ系民族
- トルコ人のイスラーム化
- トルコ=イスラーム文化
- オスマン帝国
- トルコ=イギリス通商条約
- トルコ革命
- トルコ大国民議会
トルコ共和国(1) トルコ共和国の成立
トルコ大国民議会はケマル=パシャを大統領に選出し、首都はオスマン帝国のスルタンの都であったイスタンブルを避けて、アンカラに定められた。1924年3月にはカリフ制を廃止して政教分離を実現し、トルコ共和国憲法を制定、主権在民、一院制の議会制度、大統領制などを規定した。これによってトルコは近代国家として自立したといえる。世俗主義政策がとられてオスマン帝国時代のイスラーム教による宗教的政治から脱した。しかし政治面では実質的にはケマル=パシャの創設した人民共和党の独裁が続き、それに対する反対運動もあった。
ギリシアとの強制住民交換
ギリシア=トルコ戦争では、ギリシア軍に占領されたスミルナ(トルコではイズミル)を奪回したが、その際にトルコ軍が約3万のキリスト教徒を虐殺し、また多くのギリシア人避難民の溺死者を出したことなどから、現在に至るまでギリシアとの感情的な敵対意識を残すこととなった。1923年にギリシア=トルコ戦争の講和として成立したローザンヌ条約では、両国の対立の要因を排除する目的で、ギリシア王国のヴェニゼロス政権とトルコ共和国のムスタファ=ケマルの間でそれぞれの国内に居住している住民を交換することが定められた。住民交換の根拠は「宗教」とされ、トルコ側からギリシアへ約110万のキリスト教徒が移住、ギリシア側からトルコへ約38万のイスラーム教徒が移住するという内容での「住民交換」が行われた。しかしこの強制的な住民交換は、様々な悲劇をを生み、双方の感情の悪化はさらに強まった。
次の文は、1980年代に日本人女性が単身トルコを旅行したとき、イスタンブル南方のマルマラ海にある島でギリシア系夫人と識りあったときの会話である。
(引用)「あなた、アンダラギをご存じ? 住民のエクスチェンジ(交換)のことよ。ギリシアがトルコから独立した後、トルコに住んでいたギリシア人と、ギリシアに住んでいたトルコ人を交換したの」
「ああ、知ってます。ええと、映画(『旅芸人の記録』)で見ました」
「私の親戚も、知人も、大勢、帰って行ったわ。・・・でもね、私は帰らなかったの。この家を離れたくなかったから」
「その“交換”は何年ごろだったのですか?」
「何年もかかったのよ。なにしろ、エーゲ海岸には、大昔からギリシア人がたくさん住んでいたんですから。つまり、昔はここはギリシアだったのよ。トルコからの引揚げ難民が一番多かったのは1922年だけれど、その年だけで20万といいますからね。ぜんぶで百数十万人のギリシア人が帰っていったのよ。」
(彼女アンナ自身はイスタンブルのギリシア人は交換の対象から外されたので、ギリシアには帰らなかった。「でも、私はギリシア人よ」と強い口調で言ったあと、次のように話した。)
「ケマル・アタテュルクをトルコ人は神さまのように尊敬していますけれどね、ギリシア軍がイズミールを解放しようとしたとき、アタテュルクが率いるトルコ軍は、イズミールに住むギリシア人を大勢殺したんですよ、女子供までね」
<渋澤幸子『イスタンブール、時はゆるやかに』1997 新潮文庫 p.83-85>
トルコ共和国(2) 世俗主義政策
ムスタファ=ケマルは、トルコ共和国を発足させるにあたり、旧オスマン帝国のイスラーム教による政教一致を否定し、政教分離・世俗化をおし進め、近代化を図った。
近代化政策の内容
トルコ革命の一環として実施された近代化政策には次のようなことがある。- カリフ制廃止
- 文字革命 トルコ語を国語として制定し、文字はアラビア語を廃止してローマ字をもとに新たに制定。
- 婦人解放 多妾制を禁止し一夫一婦制とする、女性のチャドル(顔を隠すヴェール)を廃止など。
イスラーム暦 を廃して太陽暦を採用する。- その他、トルコ帽(フェズ)の廃止。
民族的自覚の強要
ケマル=アタテュルク(トルコ人の父ケマル)という呼び名で親しまれたムスタファ=ケマルは、世俗化とともにトルコ民族であることの一体感を国づくりの柱とした。そのとき、問題になるのはトルコ共和国の中の非トルコ人と自覚していたクルド人であった。クルド人はトルコの東部からイラク、イランにつながる山岳地帯に住む民族で、長い歴史を持ちながら独立する機会を失い、第一次世界大戦でオスマン帝国が連合軍と締結したセーヴル条約で初めて独立が承認された。しかし、セーヴル条約による国土喪失に激しく反発したケマル=パシャらはオスマン帝国を倒し、新たに連合国とローザンヌ条約(1923年)を締結しなおした。そこではクルド人の独立は取り消された。
クルド人の反乱 クルド人の中にはトルコ共和国とともに戦ったものも多かったにもかかわらず独立は認められず、しかもイスラーム教徒の多いクルド人にとっては世俗政策も不満であった。そのような感情から1925年のシェイフ=サイードの反乱を始め、30年代までクルド人の反乱が相次いだ。それに対してトルコ政府は、クルド語の使用禁止など厳しい同化政策を以て臨み、反乱を武力で鎮圧した。しかし、クルド人の独立、ないしは自治の要求は、その後も長く続き、現代のトルコにとっても大きな問題となっている。
トルコ共和国(3) 第二次世界大戦と戦後
第二次世界大戦では最初中立策をとり、末期に連合国に加わる。戦後、ソ連の進出を警戒したアメリカが支援を強化、戦後は西側陣営との関係を強化した。
トルコをめぐる米ソ対立
戦後はバルカン半島と東北方面でソ連圏に接していることから、アメリカはギリシアと共にトルコの共産化を恐れ、1947年にトルーマン=ドクトリンを発表して、ソ連に対する封じ込め政策にトルコを組み入れた。トルコ側にもロシア以来のソ連に対する敵対心が強いため、戦後トルコは西側の一員に組み込まれることとなった。さらにマーシャル=プランを受け入れて経済を再建し、朝鮮戦争にも軍を派遣したため、ソ連等の関係は悪化し、1952年にはギリシアと共にNATOに加盟した。さらに1955年にはバグダード(中東)条約機構に加盟し、ソ連包囲網を強化した。1959年にイラクが脱退したため中央条約機構に改組されると、その本部を首都アンカラに置いた。
トルコ共和国(4) 揺らぐ世俗主義
独立以来、世俗主義を貫いてきたが、60年代以降、経済格差の拡大などを背景として貧困層に反西欧、反世俗化の意識も強まり、EU加盟問題も国内外の反対も根強く、進展していない。
トルコ共和国は1923年のトルコ革命による建国以来、ケマル=アタテュルクの指導する、政教分離の原則に基づく世俗主義を掲げ、様々な西欧化を図ってきた。しかし、国民の大半をしめるイスラーム教徒の中には西欧化に反発する意識も強く残っていた。
世俗主義の危機
1960年の軍部によるクーデターの混乱を乗り越え民主政治を復活させ、自由主義の拡大によって経済が成長したが、反面貧富の差が拡大し、70年代から次第に反西欧、反世俗化とイスラームへの復帰を掲げる政治勢力が台頭してきた。キプロス紛争 トルコの南の地中海上に浮かぶキプロス島は、1960年にイギリスから独立したが、約20%のトルコ系住民が居住していた。彼らはたびたびギリシア系住民と衝突していた。1974年、ギリシアの軍事政権がキプロスに介入したことに反発したトルコ共和国が出兵、北キプロスを占領してキプロス紛争が始まり、83年には一方的に「北キプロス・トルコ共和国」独立を宣言した。しかし、北キプロスはトルコ以外の国に承認されておらず、国際的には孤立している。現在は国連が南北の境界に緩衝地帯を設け、話し合いを仲介しているが解決に至っていない。古代以来のトルコとギリシアの対立が、現在もキプロス紛争として続いているということになる。
EU加盟問題 1999年には欧州連合(EU)加盟候補者となり、西欧化が加速されるかに見えたが、2002年の総選挙でイスラーム系の公正発展党(AKP)が35%を獲得し初のイスラーム系単独政権が発足した。この政権はイラク戦争にも派兵せず、イスラーム色が強いため、EU側にはトルコ共和国の加盟に反対する声も起こってきた。ヨーロッパではイスラーム教に対する拒否反応も強く、トルコ共和国のEU加盟はなおも難航が予想される。またトルコの世俗主義の動揺はヨーロッパの不安定要素になりうることとして注目されている。
Episode スカーフ着用問題で裁判官銃撃される
2006年5月17日、アンカラの最高裁判所にあたる国家評議会の建物内で、短銃が乱射され、判事が一人が死亡、5人が負傷するという事件が起こった。犯人は29歳の現役弁護士だった。今年2月、幼稚園の女性教諭が通勤途中にスカーフを頭にかぶっていたことを理由に昇進を拒否されたことで裁判となり、この裁判で女性に不利な判決を出した判事が射殺されたのだ。女性がスカーフで顔を隠すのはイスラームの教えであり、トルコ共和国では政教分離と世俗主義の国是により、教育現場や公共の場では禁止されている。憲法上の規定があるわけではないが、長年の司法判断で定着させてきたものだ。しかしイスラームへの復帰を主張する勢力はスカーフ問題を世俗主義反対の象徴として取り上げるようになった。この事件ではマスコミの反応はスカーフ着用を社会に強要しようというイスラーム原理主義の犯行として非難しているが、親イスラーム的な政府(エルドアン首相)はむしろアルコール禁止などのイスラーム的政策を打ち出そうとしている。トルコ共和国の脱イスラームと政教分離、世俗主義の原則は建国80年以上を経て大きな曲がり角に来ている。<2006年8月19日 朝日新聞記事より>エルドアン政権
大統領を務めているエルドアンは、公正発展党を立ち上げて民主化を前面に押しだし、2003年から首相として実績を上げて2014年からトルコで最初の国民直接投票で選ばれた大統領である。2013年は、1984年から続いていたクルド人組織の「クルディスタン労働者党」(PKK)との和平を実現し、軍の介入を排除し、国際的な協調もはかりながら、イスラーム教の尊重(前項のスカーフ着用問題のような世俗化の見直し)などで保守派の支持も受けた。その姿勢に国の内外からの評価も高かく、国内ではトルコの大国化を実現して「新たなオスマン帝国」を実現する指導者として期待された。クルド独立問題 しかし、次第に強大な権力を握ると独裁者として非難されるようになった。2015年にはPKKとの和平が破綻し、トルコ南東部で激しい戦闘となった。背景には2011年のアラブの春をきっかけに始まった中東の動乱、とくに隣国シリアの内戦があった。エルドアン政権はアサド政権と反アサド政権いずれとも関係を保ち、内戦を深刻にしたとの非難もあったが、イスラーム国(IS)が登場すると明確にアサド支援に回った。ところがクルド人勢力(YPG)がアメリカの援助でイスラーム国を圧倒しシリアの3分の1を押さえると、トルコ内部のクルド人勢力(PKK)との連携を恐れ、2019年にアメリカのトランプ大統領がシリアからの米軍の撤退を表明したことを受け、一気にシリア国内のクルド人勢力を攻撃し、中東情勢は混迷の度合いを深めることとなった。 → 現代のクルド人問題
NewS アヤソフィアの再モスク化
世界が新型コロナウィールスによるパンデミックの深刻な事態が続く2020年6月、エルドアン大統領は、博物館として公開されていたイスタンブルのアヤソフィアを宗教施設であるモスクとして使用する、と表明した。いうまでもなく東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が創建したキリスト教の本山のひとつであったところで、1453年、オスマン帝国に征服されてからモスクに転用された。オスマン帝国倒壊後にトルコ共和国建国を指導したムスタファ=ケマルは世俗主義を掲げて政治と宗教の分離を進め、1935年にモスクとして使用することを止めて博物館に変更した。このような歴史的経緯のあるところを、再びモスクとして使用するというのは、いささか乱暴で、世界遺産としての観光にも影響するのではないかという批判が起こっている。しかし、世俗主義の見直し、イスラームへの復帰を掲げて支持を集めているエルドアン大統領は方針を変更していない。2020年7月24日にはついに大統領自ら参加してアヤソフィアでの礼拝を強行した。隣国のギリシアは強く反発しているが、宗教的対立を煽る手段とされないことが望まれる。<2020/7/25記> → 聖ソフィア聖堂(アヤソフィア)